MIKIHIKO KYOBASHI

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京都旅

京都旅

古田織部さんは天海さんらと、自ら興聖寺を作った。

暴れ川の堀川に住む龍神様を鎮めるため?なのか
近くには安倍晴明神社があり清明さんが、祈りに使った2人の(鬼)を隠した、一条戻り橋も近くにある

なんらかの
神的、道教、呪術的な理由もあってであろう

ある日、利久の弟子になる

利休さんの深く
全てを排除したはずの黒

しかしそこに集まる、理不尽な重い槍を放たれた

漆黒の宇宙の闇は光になる

師が切腹を豊臣にしいられたのちに

美しい花鳥や猿など幾何学模様の器や茶器を
美濃で焼き
懐石料理のはじめとなる刺身や料理を出し
太陽や自然あふれる茶室や空間を創造し日本中の大名を
弟子や友に持つ今で言うプロデューサー

侍らしか、大胆でおおらかなユーモアのある方だったらしく

師匠の茶匙を位牌に見立て利休さんに話しかけた

へうげもの(変わり者)とも呼ばれた時の人も

1615年 に徳川家康に疎まれ
徳川暗殺の嘘の嫌疑をかけられ、息子4人とも切腹を言い渡された

一切の申し開きなし(何も言うことも、弁解もなし)

と長男重嗣さんと伏見の屋敷で差し違えた

次男重尚さん重広さんは江戸で

5男重久さんは大阪城で豊臣側につき討ち死

4男重久さんは興聖寺墓前で自刃した

残された仙さんは藤堂高虎さんと
供養を続けたという

その後江戸時代の画家で有名な
(ボストン美術館に流失した雲龍図は天龍寺ではなく
興聖寺にあった様です)

伊勢の曾我蕭白さんがこの寺に現れ
幼く亡くなった息子さんを悲しみ
死んだら墓を一緒にしてくれと
いう通り今もお寺で眠られています

織部さんの亡骸は
得度された大徳寺の塔頭のお寺に
住職に奥さんが相談にき
明智光秀の隣に埋葬されたと住職にご案内して頂いた

いずれにしても
時の斬新な己の刃を貫き生きた方々の安寧の地に
波が華厳経の南(海雲比丘)が住む世界に向き

写真が僧侶の祈りの手になって
西に向いているなど

不思議ななんらかが交錯する

気になる事が1つ
1581年伊賀忍が信長のジェノサイドを受けるも
徹底抗戦し

服部半蔵が全滅もいとわないと

徳川に伝えると和睦させ

その後、派遣された津藩の藤堂高虎さんが
忍達と深い関係を保ち

その忍と赤目不動を祀る
赤目延寿院で、どちら様ですか?と

手にした御位牌は高虎さん

2013年6.11

京都興聖寺に2021年11.11に伺いその日に襖を入れる事に

そして
織部さんのご命日が1615年6.11

高虎さんの御位牌を
手にお掃除をさせて頂いた日と同じ6.11

でした。

 

様々な思いの中
この世や家族ときっぱり別れ
一言も言わず潔く72歳で自刃された織部さん

自分はともあれ、家族や孫もいた息子さんたちも
切腹させねばいけなかった悲しみや
一人残った仙さんを憶ったお気持ちが

蒼い海に抱かれていく事を願います

 

 

追記

(伊賀上野城は信長軍と筒井順慶が作った伊賀にはいらない異物です。そもそもあそこは
平家の流れを汲む平楽寺という寺や神社の集まる高野山の様の様な宗教的聖域でしたが、信長群が鉄砲をうち、焼き討ちにし700人もの増兵や忍、村人を殺した

そんな場所で、本来の神仏や星々や仲間を尊んだ忍に対して
ショー小杉の様な派手な衣装で忍者ショーをやる者や伊賀観光局は伊賀の忍に対して真反対な愚行をしています。

僕はこの山の左にある石塔群に供物を捧げに御供養に行っています。

 

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