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海と山





海と山はそもそも同じ
山にも渓谷があり木々ヶ生い茂り
鳥たちが舞う
海にも渓谷があり珊瑚や海藻が生茂り
魚たちが舞う
隆起と沈下を繰り返し
できた地球
ここは伊賀長田の比自山
2010年ごろから、甲賀を皮切りに
伊賀へ忍者の供養へ伺っている
京都からも近く
様々な人が山に囲まれた隠れ里に住んでいた
国から荘園という名ばかりの、金や食糧の強制徴収か威張り腐った国司に
対抗したのが地侍で忍の始まりと言われているが
今の我々には、歴史の教科書の様に学者が捏造した
四角い机の話しとは無縁な物語が
あった事実が
山々の中に、山城として残っている
伊賀だけでも役行者が500以上あり
山城もそれ以上あった現実を見ると
いかに戦いに明け暮れ、また防衛せずには
存在できなかった時間が今も生きている
供養とは終わりない思い
仏教とは関係なく
例えばあなたが死んで
500年後見ず知らずの誰かが
戦いの体を慣れた場や墓に来て
水とおにぎりを置いてくれたら
どう思うか
という極々シンプルなこと
お釈迦さんの命日に甘茶をかけるのではなく
ネパールやチベットのカレーやチャパティ
羊の油の紅茶ギーをお供えするのが本当
日本が66の国に分かれ、領地に入るには通行手形がいる時代
伊賀だけがどこの大名や植民地化されずに
自分たちの領地と神々や民を守っていた誉の侍
信長の義理の息子が二度伊賀に雪崩れ込むも
返り討ちにし
魑魅魍魎の住む伊賀に勝手に責めるな言っただろ!と
首を跳ねるところを家来が止め
4年準備をし7万の兵で
この地球から狸1匹いない様に伊賀をこの世から消そうとしたのが
1581年の天正伊賀の乱
結局は落とせず
各地の山で全滅や神社や寺を焼き払われ
女子供もジェノサイドした信長軍
最後は南の赤目48滝延寿院の近くの柏原城に立て篭もった郷士1200人、地侍、忍たちが
徹底抗戦したという
そして服部半蔵が家康に伊賀の仲間が全滅する
覚悟ですと伝えると
信長に和睦をさせるため、奈良の大倉五郎なる神楽師を間にたて
和睦させたというが
勝手に攻め込みんだわけだから
事実上は降参になる
伊賀上野城は元は伽藍の立ち並ぶ高野山の様な宗教整地平楽寺を
鉄砲を撃ち火を放ち造兵など700人以上を焼き殺した場所
そこに後から派遣された信長がわが建てた伊賀とは関係のない
不純物
その不純物で伊賀民の精神性を足蹴にした場で
忍者ショーをやる現実は
伊賀上野観光局もいかがなものか
城=忍者を悪用しているわけだ
この山はその平楽寺跡から見える山
ここには行基作の十一面観音がり
忍者のおおがしら
百田藤兵衛
副喜田将監
町井左馬充貞信さんらの山城があった
ここで柏原城へ落ち延びる前に激戦があり
信長軍、忍たちが大勢なくなっている
2013年からこの山にも何か特別にひかれ、年に何回か通い
供物を備え彼らを偲ぶ
中世の遺構や城を解析した地図を
地元の神社の大旦那さんと偶然山であい
いただき
やがて藤堂高虎さんの3男高久さん亀さん
のお堂を見つけお掃除するのが日課に
石碑には江戸時代に江戸の向島だったかな?
にあったと刻まれ
この山に運んだらしい
最近はご子孫も遠のき、建物も古くなり
地元の方もあまり掃除に来てないようだ
その山の頂上に百田さんの一つ目の砦があった
山の中はいまだに当時の山城の虎穴や人工的な土盛りもある
彼らが500年前まで平和に暮らし、ある日に激戦となり
命が潰えた竹藪となった場は、独特な陰がある
数年後幾重にも流れる稜線のある頂に
カエルの石像のほこらがあると聞き
何回も探して見つけた
これがその場
芭蕉公園に車を止め
山を左方面に迂回し
長田観音の山道に出て
西蓮寺に出て戻るのがコース
所々供物を備え
小川のあるぬかるみと竹藪の斜面を蛇行し数時間
僕の生涯のお参り道になった
神仏や星々を祈り
強い力にも真っ向戦い
己の正義と村の仲間や先祖代々の方々の思いをブレずに守った
人が伊賀忍、変な衣装でバンダナ巻いて、飛んで跳ねる寸劇に
彼は呆れていると思います。
おいおい
間違った歴史や思いを伝えるな
浦安ディズニーランドの電気じかけのネズミの国と同じじゃないか
ドキュメンタリーが大事
山や海へ自然にこうべを垂れ
一人り心をたむけるのが回向
人知れず山や海でゴミを拾うことお同じ
墓は忘れないためのモニュメント
僧侶や戒名など関係ない
常に邪魔をする宗教はいらない
宇宙の心理を知っていた忍やアボリジニやネイティブアメリカン
鉄砲や武器で心までも居留区に閉じ込められた彼らと
違ったのは伊賀地侍や忍には、錬磨された武術、忍術、仙術、呪術
折れない心があり戦えた点
海で溺れたら
諦めたら死ぬだけ
限界は自分が決めている
低い線です
やる気を出して
呼吸整え大胆に冷静に乗り切れば大丈夫。
己の影をよく知ること
わざと目を逸らさないように








