三脚を捨てる

紙一重
神人重

同じかもしれません

神とは一つの人型の人にあらず
神羅万象の風

人に似せた仏は

後から日本に輸入され
蘇我と物部が争いに始まると言われる
確かに神様とは全く関係のない外国人と
像という偶像、仏像を拝むわけだ

仏は供養というイメージが強く跡を引いている

いいとか悪いではなく
その利用法や使い方
扱いや解釈で揉め事もおき、宗教問題や戦になっている事実

しかしながら、長い時間そこで祈られた仏像や
お経と修行した者のかもし出す
妙な雰囲気や、不思議な何かで救われた人

様々な祈りの起こす現象に溶け合うと
なんらかの魔力があることは否めない

バランスの伝え方が難しいのは

そもそも最澄や
あの法華経以外は地獄へ落ちろ!由比ヶ浜で浄土信者の首をはねねろ!と執権北条に言った
強烈に熱い男の日蓮や様々、人間が指し示す
経典なるそれぞれの宗派による絶対的なルール
を決めたのがズレの始まり

我々民衆は宗派や檀家制を強いられ
長男以外は別な墓を指定の墓業者から買えとか

法事のや季節ごとの催しで
高いお金を指定され

葬式で極楽浄土へ僧侶がしっかり請負い、送ったはずが
お盆に亡霊となり帰ってきてしまうので

供養しないといけないという
辻褄の合わないビジネスモデルが自然発生する

仏教は六道輪廻の妄執を断ちそこで自ら解脱して
彼岸に至る道を観教えなのに・・・・

極楽へ引導すると約束したではないか?
だったら最初に、それでもですね
毎年夏に降りてくるから、あげるには
費用がかかりますと言えばいい

でも僕たちより、すごい力があり
自分で下界へこられたのだから
極楽へも自力で帰れるだろうに

自力をさせないのが世の常か?
政府も然り民衆をマインドコントロールしたいからか?

そもそも身内だから帰るとか帰らないではなく
日々近くにいて、孫や子供たちの日々をみままもり
ニコニコいてくれるのだから、いいのに
なんでまた、亡くなった方は修行中ですとか言うのだろう

観たのか?
 
霊魂、鎮魂と家族を忌み嫌う霊にしたてるのがよくない

お釈迦様を絶対視し、その教えを貫くなら
輪廻転生とは生まれ変わり続けるのだから
途中で変な霊にはなる暇がない

僧は妻帯はしないというルールや(親鸞がある日2000年近いルールを
表立って破った)
独りで旅して悟れ〜と言ったはずの自力修行が
いつの間にか他人の救済の為とか、リフフォームを繰り返してきた

これは芥川龍之介の「作り替える力」や
柳田国男も「先祖の話」も同じ
疑問を霞にぼかしてきたきたのが日本人

大乗仏教はお釈迦さんとはなんの関係もないと
江戸時代の比較哲学者 冨永仲基さんの話は
誰も異論が唱えらていない

「最澄の法華経や、法然の阿弥陀経も全て
後から作られた作品である」

自分で解脱すればいいが
解脱をした人を拝めばその力をうけるとか、いいとしたのが
大乗仏教

お釈迦様は
霊魂はいないと言っている

方便と解釈の幻しを隠しているが
隠しきれないのが真如

仏道の人に、お葬式や戒名やお盆の謎
声を上げない日本人のまな板の上の魚状態が続いている

生まれたら神社
753は神社
下手をしたら結婚はキリスト
死んだら葬式

アーメンである

神とは海
風、太陽、サメ、魚、石、全ての循環と
宇宙によりそう叡智と心

そうした線を
重ねることは
我が身や心を相手や宇宙や海に合わせていく

海の気持ちになり海へ行く

ウニを踏んづけたら
ウニにごめん!とウニの心に

全て海の生物は受け身です
悪さをするのは人間だけ
山伏は懺悔懺悔と山で言う

一重に憶うこと

陰陽も同じ
海と人
宇宙と内面の心理だと思います

人間界の都合のおかしさ
に汚されず

心一つ山や海へ行けば
すべ手が胸にスッと決まる

道は色々ですが
人工的な道は捨てて
自分一人で山や海を歩くこと

宗派の違いを例えるお決まりのフレーズ

道は違えども高い嶺から見る月は同じかな

でも
僕は一つでも固有された「もの」でも
到着地点が同じだとは思いません

無限なる自由と回転し続ける風に乗ること
己の光が照らす影がずれないように生きるだけ

同じ写真がないように
人の個性や瞬間が、同じように重なることはない

三脚が生きた写真を殺す事実

神とは遠い遠いご先祖のようなもの

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