興聖寺 臨済宗
京都の美術印刷にかけては日本一とも伝わる
サンエムカラーさんのご縁で
始まった織部さん、曾我蕭白さんのご縁
ありがとうございました。
今日の冬の旅
JRそうだ京都行こう
で12000人もの方がこの青襖の前へ
望月住職は在家から
心に昔から引っかかっていた思いを
自らに伝え 禅の道へ飛び込んだ
住職はやはり山梨の早川町の近くの血筋
望月性は身延山や七面山の近くに多い
銀座和光前で1000日以上修行されていた
今は亡き高野山の阿闍梨 望月さんも同じ
織部さんが自分の安寧の地に
天海と様々、この水の暴れた水脈と
菅原道真さんを祀る水火天神の地に
お寺を作ったのは1603年
堀川通もなく
地続きのこの地に何かを感じたに違いない
織部さんは
緑の釉薬で自然美の絵を、変わった器や茶器に残した
本人は焼き物や絵は描かず?
いわゆる現代でいうプロデューサー
魯山人は成型やろくろは職人で
絵は自分で絵描いたから
ある時自分の作品ではないとも書いていた
織部を想像し織部焼も作り
自ら赤坂に星岡茶寮なる料亭を後援中村竹四郎、はじめ協力者と作り(最後は裁判にもなり関係は破綻)
器から着物、料理まで企画運営した
京都丹波 山中和知川の釣りあゆを生きたまま
67時間かけトラックの生簀で赤坂まで運んだ話はすごい
数カ所で清水を補給し
人夫が柄杓で新鮮な冷たい水を変えながら
京都で郵便車両にのせ東京まで11時間
途中、名古屋と清水で水を入れ替える
加賀の料亭 山の尾(現在は全く関係ない経営者)太田多吉の
料理と器を作らせていたこだわりを吸収し
再現し、数満点とも言われる
自らが器を作った例は魯山人しかいない
懐石の始まりや、海や山のものを山海かこう盛りとして
草花や花を艶やかに盛り付け大皿で出したのは魯山人というが
織部も茶室で刺身や様々
もてなしたのだから元祖は織部ではないか?
美意識とは果てしない
終わりも始まりもない
悠久の自然美の再現に過ぎない
興聖寺は一般公開はしていません
先日の特別後悔は40年ぶりの公開でした。
織部三畳の茶室、矢織部デザイン(茶室までの途上身を清める)降り蹲など
江戸時代の奇才な画家 曾我蕭白さんも見ていたのでしょう
また静な新緑の紅葉の苔寺で
青い波が寄せては返しています
みなさまありがとうございました。
曽我蕭白1730~1781 1/30享年51才 幼くして亡くなった息子1777年と
死んだら一緒にしてくれと 行っていた通り
息子さんと一つのお墓に
京都に生まれ孤独の旅をした蕭白さん
池大雅と親しかったそうです
画が欲しいなら俺に
絵図が欲しいなら応挙がよいだろう
と
法名 一輝蕭居士
織部さんへ
花瓶へざっくり迷いなく
自分より有名になることに嫉妬し
徳川に嫌疑をかけられ切腹
織部の仲間も皆斬殺
師匠利休も秀吉に強制され切腹
首は一条戻り橋へさらし首
恐ろしい日本人
72才の織部さんは
かくなる上は
入組み難き候
さしたる申し開きもなし
一切の言い訳も、何もなし
と・・・
古田織部正 重然 長男重嗣と差し違え自刃 72才 伏見の屋敷
古田せん奥様 仏門に入り弔う1629年 5/29 72才
息子
古田山城守 重嗣 織部と差し違え自刃 6/11 1615 37才
古田佐助 重尚 6/13 自刃 江戸
古田小三郎 重広 6/13 自刃 江戸 兄弟で差し違え自刃
古田九郎八 重行 自分の子供を興聖寺のお坊さんに託し お墓の前で屠腹 6/24 27才
古田左近 重久 大阪城の戦いで戦死 5/7 25才 取った首にお父さんの名前を示したという
お墓にはおじさんと一緒だから墓石は織部を意外に6基
どう生きるか
自分に嘘なく
潔く生きた彼ら
美意識のもののふ
蕭白さん没後241年
織部さん没後407年
蕭白さんも参り語りかけたであろう
織部さんの墓前で
僕も二人に語りかけた
新緑の風に揺れ鳴く
もみじと彼岸桜の中で