シンプル
神も仏も
自然発生したのやら
この宇宙と地球の海と大地が始まり
そのあとに、どこからともなく来たのやら
そもそも、地球誕生の際に一緒にいたのか
謎
目に見えないものを信じることは確かに尊い
古来の人
いや
わずか150年前
白装束の行者が国内に100人に一人はいたと言われ
全国の社寺へ納経し祈りを捧げた
おかげで日本は今より
いわゆる霊道=神様の行き来する道が通っていた
感じる何かが明らかに存在し、その感受性が今の僕たちよりも
鋭かったのであろうし
見聞きして、高速化して携帯もネットもない
感覚の赴くままに生きた時代こそ
野生的であり、地球の時間と溶け合っていた
海をモーターで動くのではなく
人力で泳ぐ行為も
原始的な対話と融合
1つの可視化できる像はない、神代の世界と今の神社
像があると
依存を免れない
社には天照大神の木像はなく
木や紙に神様のお名前が書いてある
海で見えないものを押した1枚が写真
そこにはないものを押す
押そうと思う時にはないもの
波は常に高速で変化する
動いているのではなく変身しているとう
方が正しい
何も見ないでという嘘だが
ファインダーは見ない
そこには信じるは無い
もっと原始的な野生な感覚
何かうつれ〜も無い
こういう絵を撮りたいも無い
信じるというのは
人間臭い
無?
いや無とは何か?
無などあるのか?
無の境地と言った時点で無ではない
0だからこそ一がある
形ある固有のもは存在できない
天道と海の動きに胸を寄せ、胸をたむけ
自身の判断の鋭さを磨くのが人の道
そうすれば自然に誰もがいいと思う
干渉し合わなくて、話をしなくてもいい
風に舞う海と海鳥や魚
虫や山鳥や動物
淡々と食べて寝る
途方もない時間が自然に創った自然
やはり一人旅をしたらいいと
他人を誘わず、強制せず
独り修行を重ね自然に
誰かの台本ではなく、自身の体験の言葉がでたお釈迦さん
は真理をついた
本音はこの宇宙と自然にある
その風を読み流れるうちに
学校や教科書の人間様が作り変えたルール
は違うなと思う
体験
と
経験
を大切に
勇気をたくさん
引っ張り出して
自分を押す
シャッターも同じ