修
尋常ならず すぐれたる徳のありて
(よのつね) (こと)
可畏き物を迦微とは云なり
(かしこき) (いふ)
本居宣長
普通でない優れたところがあって
恐れ多いものを神という
古事伝より
本居宣長は江戸時代の国学、文学、医師
三重の松坂の出で、22歳で医学修行のため京都へ行き
儒学、古典学を学び修め国学の道へ
美しい国土(自然、海、雲、山、川)に則して即して生きる事を
人は忘れてはいけない
人としてとは
おそらくはその国土の、移ろいや呼吸や循環輪廻、宇宙と海や波動の
美しさと怖さと霊験なる体験や瞬間を
感じながら生きることに尽きる
人も仏も神も後から地球に来たらしいから
自然という勝手な造擬語もしかり
言葉でも文字でもない、そんな悠久な時間は
目には目ない
目に見えてるものは物体や波動が動く瞬間の過程であるから
「もの」という「もの」は見えていない
が人間の目に見えた瞬間が全ての色でも形でもない
本質を掴むこと
空や海や川や滝や音は生きていて
変化し続けるから
海である
しかし海とは何か?
時間が作り上げた動きを海という
波も海である
1つのものではなく集合体であり生きている
と僕はおもう
自然と呼び捨てした、西洋文化と文明を無理くり輸入した明治の役人
古来からの天然地球を探して
穏やかな時間と激しくちょっと怖い時間に
身を置くと心もついてくる
心と身は
心なる何かが先にその海岸に立っている
体より先に海岸に立つこと
それ以外にない
それ以下もない