印象どこに記録されているのか


一年前の11/29
日ノ岬の灯台から
まるでニュージーランドやスコットランドを想像した
美しくも青黒い冷たい海、独特な怖さ、吹き付ける風
寂しさを感じた島
ケルト民話の祈りの島か

まさかその半年後
ここで泳ぐとは

あの日の独特な感じは
1枚の写真で、胸の奥から
引き出される

印象はどこに記録されるのやら

ふと鮮明に思い出すのか?
気づくのか?
体内か
頭なのか?いやこれは完全に違う
それとも保存場所は体にはなく
どこかのメモリーか?

記憶は脳だと学者はいうが
記録と記憶の差は何か?

波を見た瞬間に記録され様々な過去の海の記録が蘇る

泳いで感じる波の圧力や水の向きや水温
と言った体の表面の感覚である
外的感覚

そこで波に巻かれる怖さは外的から内的へ
内的感覚だけだと体が先に動けない

想像もいけない
無駄な時間だ

禅のお坊さんが
無になるのは無理だという

無と考えないことは何が違うのか

波の中は
考える暇もないほど
追い込まれるというか
考えるが一瞬で

あとは腰と一緒に動く
水中も陸上も
ここが古武道の動きと同じ

考えてる時間がない

そこで冷静な心でないと
体術的にうまく動けず
呼吸が浅くなりパニックになったり
硬い動きになる

水中でも、つと滑らかに
指先を使い水を潜る

考えないで
でも考えちゃう人は
そうすると羊を数える

集中力を養い、いろんな経験をして

済んだことは追わない、ぐちぐち言わない
その時自分が決めた結論だから
その時はそのとき
良いわけで、失敗も成功ない
あるのは現実の体験

その日はその日で終わらせる
寝て忘れる

ダメなら次
気を付ければいい

人と群れない
自分が正しいことは宇宙が正しい
独り旅をする

そのうち
小さなことが
どうでも良くなる

波の中は瞬時の観察と
瞬時の動き

全ての道しるべは指先に

自由に旅して
独りで悟れ〜
と言ったお釈迦さんが指さしたやら
なんだか

それとて
その人お釈迦さんのいいと思った
印象と判断と確固たる本人の確信

でもそれはそれ
その人の考え

無理に合わせる必要はない

日本の仏教は、その時代時代の方々に
方便解釈され、いろいろな絵具を溶け合わせていった
進化し続ける教え
だから良いのかも
1つだけ
それならお釈迦様の日には甘茶でなく
ネパールのカレーをお供えした方が
今は亡きお釈迦様の故郷のお母さんの味がいい
に決まってる

もし自分が死んで墓に、ペペロンチーノじゃ
グッとこない
気持ちはありがたいが物足りない
日本人はおにぎりである

宇宙と水は無限に動くトーラスであり
地球人の知識や考えなど意味がない
その見えない水の風に
生かされ、則していくしかない

ただそれだけ

難しく考えず
海岸へで靴下脱いで足をつければいい

それぞれの階段の登り方
それぞれの倒木の潜かたがある
要はそこに行くときめた自分がいればいい

決めたらその場にいくこと
途中自らの、力を知り
今は無理だと思えば行かなくてもいい

少し自分を押す!
自分で自分押す
ライフガードは他人でなく自分

理屈や強要や教科書や命令ではない

自分の力を正直に見て知る

変なテレビ番組や情報は見ないで

宇宙自然物、自然現象に
心を通わせ、そこにいること

それだけで人間は正しい方向へいき
自然に助け合う

ですので僕も自然現象の中で印象を
繰り返し胸に溶け合わせている

宗派は宗派
道は違えど同じ修行者だから

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