寿福寺
またまた伊賀のお話です
どうもこれは彼らの生きた時間を少ない人へでも
すくしでも本当の忍者を知って頂ければ
またお役目だと感じていますので
おつきあいの程を
南の最後の決戦場柏原城の近く
赤目渓谷と瀧衆を抱えた天台宗延寿院の近くに宿へ戻る途中
伊賀忍の集会所であり重要な会議をしたと言われる古刹(空海の像あり)
田んぼに囲まれた山の無量寿福寺へ
対岸には信長の信雄が傲慢な力で築き
伊賀忍が落城させた丸山城を望む
これがそもそもの
天正伊賀の乱の信長の伊賀へのジェノサイドの始まり
伊賀の下山甲斐(裏切り者かは未だ不明)の導きで
(故郷が城下町もなく疲弊しているので権力を取り込み繁栄と金を名目に誘致?信雄は騙すため近づく。下山は信長を罠にしかける?と狙ったとも憶測されるが
未だ真意は闇である。忍そのもが実践的な体感的な術や口伝であったため書物としては残っていない(忍術書はありますがあくまで精神や武器に着いて)
ですので僕の書いているのは、これらは様々な方が菊岡如幻の伊乱記を参考としている本などから調べた程度です)
侵略してきた信長の子になった北畠信雄(伊勢の北畠軍、北畠に手を焼いた信長の調略で騙され滅亡された銘家)
と元甲賀の忍?の滝川三郎が伊賀を攻め取るための出城
1578年天正6年10/25この出城を焼き払い
あまたの武将を討ち取ったため
信雄が怒り、翌年天正7年に9/16に伊勢から攻撃をしかけるが
情報を入手していた伊賀全土の忍達のチームワークの待ち伏せや
山の得意なゲリラ戦術により多く武将が討ち取られた。
信長が魑魅魍魎の住まう魔界と呼び、どこの支配も受けていなかった伊賀
(甲賀はすでに信長にばんざい)
これに怒った信長が2年後天正9年9/26に伊賀に5万の兵隊で
伊賀は化け物の国じゃ、彼の地に生けるもの女子供、狐狸とて生かすな!
と
伊賀人を独り残さず抹殺する殺戮作戦を行う
結果,忍は全滅はせず和睦を信長が求め
生き残りは郷土や全国に散り忍術が日本中に伝染したようだ。
また戦国の世に傭兵として出稼ぎにでたようだ
廃線マニアじゃないが
ここもそんな彼らの
郷土愛と命がかかわった場
清廉な祈りの場でありながら
この野山とこの地に呼吸を感じた
ありがたい導きで偶然これた場である