雨乞い山の砦
地図に示す山が見え,山への入り口を探した
車1台がやっと通れるあぜ道
を感で曲がってみると
渡来人像と石碑があった
近くに車を止め歩くと
登山口と書かれた看板が閉め切った柵の向こうにみえた
獣害を避ける為針金で固定された柵をこえ
山に登る(帰える際は必ず閉めてください)
伊賀の山はだいたい2~300mの横長の山に囲まれた盆地で
霧が多く出るため、京都,奈良からも近く(京都から9里(隠語でいがぐり)
文字を書いたり,渡来人の移民や流入で芸能的なことなど
文化的な事も土地がかくまい。隠すように吸い込んだ
松尾芭蕉、能の観阿弥世阿弥など多くの文化人もここから発生した
忍術もそもそも出城での小競り合いの中で生まれ
この山奥でゲリラ的な戦闘とし、密教や行者のある験力を吸収し
物がない時代に、どうやってこの地球に生き、強力で傲慢な敵から郷土を護るのか?
というまさにこの隠れ里が自然に育てた生きる術であるから
今の日本人の精神的な軸となり、サバイバルや軍術の基礎であるが
どうも手裏剣でドロン!というズレたプロパガンダだ。
正心、義、武勇、郷土愛、仲間の結束を重んじ
特に裏切りは、物騒だが耳をとるとか即、死刑など厳し管理していたようだ。
ま〜任務では平気で嘘をついて間者となり忍び込むのだが
忍術書には、主君や依頼者の義をつらぬき、任務の為なら心の迷いに区切りをつけ
行く!と都合良く書いてある
伊賀は「惣」と呼ぶ独自の自治体系(3人の上忍と12人の忍び頭)の配下に
地侍=忍者の中忍,下忍が居た訳だ
から格差社会でもあったろう。
それぞれが勝手に何々の守(かみ)など名乗り、出城(砦)気づき
家もからくりの施した、有名な忍者屋敷にしていたというから、数百年にわたり部外者に目を光らせた、常に戦いの状態であった。
普段は農民や武士の格好や行者になり全国を巡り,情報を入手していたという。
伊賀,甲賀は薬や、火薬の製造を編み出していた
甲賀は薬の製造の知識にたけていて今でも製薬会社は、置き薬や薬は近江や甲賀に多いのもうなずける
で
山は怖かった。
20分くらいか、ひたすら頂上を目指す
城マニアの方が言うには、掘り割りや櫓あともあるようだが
僕にはわからず。
頂上の小さな祠が(中は石)あった
あまり人が来てないように思えた
ここにも忍頭 山内さんの砦があり
白兵戦に巻き込み数日間戦ったが
多くは信長軍に囲まれ、銃を遠巻きに乱射され
ここで玉砕したという
敵味方とも,随分と悲しい血が流れたのであろう
お酒とお菓子をそなえ
線香を焚いた(山は枯れ葉だらけだから、線香は火をつけたまま置かず、頃合いを見て完全に消すこと)
般若心経と彼らの魂の鎮魂と感謝を捧ぐ