戦訓
6/5ミッドウェー海戦で空母飛竜艦長の山口多聞さんはじめ
多くのアメリカの若者たちも
故国に戻れなかった日
江田島の海軍兵学校には、その時の形見の戦闘帽と
特攻隊約3000名へのお香が絶やされないように
されていた
同時に行われた(牽制の意味で)
ダッチハーバーに不時着失敗したほぼ無傷の(草原に見えた場所は実際は湿地帯だった)
足が引っかかり横転した、ほぼ無傷の零戦をアメリカは徹底検証し
自分たちの戦闘機と分析し対抗できる飛行機と戦法をつくった
先を見た、謙虚な研究
訓練を重ねる
焦らない心
自己の力を正直にみる
柔軟な対応
2兎は追わない
徹底的にやる
合理的な判断
冷静な正気な状況判断
あとは運
波へ独り行く時と同じ戦訓のようなもの
誰かと行っていたら
判断が鈍り
死んだかもしれない
だから常に一人で波へ行く
ありがたいことに、今年で17年目?
9/6から10/11に開催する
ファイヤーキングカフェの展示
オーナー阿部さんのおじいさんは空母信濃の艦長で(熊野灘で艦と運命を共に 享年48歳)
ミッドウェーでは、尊敬する山口さんと加来艦長と月見でもするか
と残った空母に、介錯の魚雷を放った,当時は駆逐艦の艦長
日本軍は陛下の艦として、責任を取り生きていても
艦と運命を共にする慣し
せっかくの経験も人材も全て失うが
阿部俊雄さんも、常々奥さんに、部下が死んでしまったら腹を切らねば
と
毎回の話に奥さんも「そんなに何回もお腹を切ったら、お腹がたりませんね」と
代々木上原のご自宅でお話ししていたと
お聞きした。
山口さんと同じ武士道
アメリカはその逆で生きてまた戦う
おおらかで合理的だった
1999年頃 お世話になった写真の師匠 柏原誠と深い交流のあった
戦争写真家で、水俣を写したユージンスミス
ユージンはいいオヤジだった〜
が口癖
彼の現象をずっとやっていたという
そんなユージンも砲弾で怪我をする
サイパンや沖縄戦で傷つくお母さんと子供たちを
涙しながら撮影した
戦争の無意味さに
この戦争や野郎ども!
と
撮影したフィルムの
そのほどんどは軍に焼かれたと
ドキュメンタリーを写しに行くが
プロパガンダ写真を撮らされていた訳だ
怪我が癒え
自分の子供達の後ろ姿を
セントラルパークの森で写した写真で
再び脚光を浴び
人を撮り始めたという
どこかで当然
写真は嘘はつけず
ドキュメンタリーであると
知っていたユージン
そんな師匠たちの思いを胸に
海のドキュメンタリーでいかなきゃ
と泳いだのは2001年のオーストラリア
わざと命をかけれる、平和に感謝し
彼らを忘れないこと
右とか左ではない
誰もが感じる真ん中です