比自山 Hijiki yama

今回で3回目の訪問となる比自山砦跡
伊賀忍達、士豪の方々の決戦場
信長が5万もの兵で伊賀を囲み、僧侶、神官、女子供まで、伊賀の民を独り残さず殺戮しろと命じた
1597年の伊賀の乱 9/27に
伊賀各地からこの山に生き延び、戦略的には勝ち目のない戦いに命を賭した場である

以前とは違い違う道から山を目指す
入り口の、祠は荒れ放題に見かね
川で掃除し、お神酒と線香を手向けた

山深いだけではない
僕のような素人でも寒気のする独特な霊気というか
何かがこの山にはある
偶然山を越えた尾根にいくつもの観音様が配置されていた
さらばる山奥へ祈りの場を探し登った

ここには昔、行基は刻んだ,観音像を祀る観音時があったという
天台真盛宗 西蓮寺もある
古来より伊賀の民の宗教的な聖地であったそうだ。

濃密な竹やぶと薄暗い森に
どれだけの人が来ているのだろう?

伊賀の12人衆の頭であった、百田藤兵衛氏、福喜田将監氏の城も麓に抱え
諸国から故郷の窮地を聞き、急いで戻った忍者や百姓,子供まで1万人の人々がここで戦ったという
最終的には敵の武将を幾人も討ち取り
雨の夜には川向こうの敵陣へ切り込みながらも

現在の伊賀上野城にあった平楽寺が焼かれ玉砕した際に
兵糧が燃え食料が武器がなくなり
秘密裏に南の最後の砦である柏原(滝野城)へ夜中のうちに移動したという

城マニアではないが、人工的な砦としての防御の土塁がそのまま残っていた。

この地で、郷土と勇義を貫くために,レジスタンスとして
信長の侵略とジェノサイドに立ち向かった人々が生きた事実を
我々は憶いだしてはいかがなものか

今の日本が腐っていることを、彼は何の為に命を落としたのか?と怒っている訳だ。

長い物に巻かれ、政治家や4月にまた値上げをする、高速道路族のような利権を食うシロアリ達
のサラリーマン社会。
上司の顔色を伺いながら
赤を青と言わざるえない心

文科省と日教組が染み込んだ教科書には載せない事実が
この地にもある事を忘れずに
心を手向けてもいいのではないか。

地元の人さえあまり来ず、あまりに寂しい伊賀各地
行政が中途半端な松尾芭蕉公園とし
いくつかの芭蕉の句碑を並べるのは
5時に帰りたいだけの「心ない公共事業」である

芭蕉はずっとあとの人だから(芭蕉の祖父がこの戦いで亡くなったと言われ、父親は藤堂藩の無足人(いわゆる地侍)
唐突な芭蕉公園には説明がつかず、この山とは無関係。
「嘘ではないが」「真実ではない」という事だ

伊賀の観光協会も、忍者コスプレ体験ではなく
小さくとも彼らの碑をたて
本当に大事な時間が郷土にあった事を
伝えて欲しい

心、技、義、勇、祈、正心を鍛錬したのが忍であるから
人の土地で暴れ回り破壊する戦国の武将とは別次元の
日本人の誇りである

百田藤兵衛、小沢知仙、横山甚六、戸田才六、町井清兵衛、森四郎左衛門、吉富左近,音羽半蔵をはじめ
多くの伊賀忍達と民の鎮魂を祈念す。

Back to list

ページの先頭へ戻る