出雲探索
出雲へしばらく調査へ
波はない?
海が西を向き夕陽しか撮れない?
いろいろ頭で妄想するより
やはり現地に行けば全て透明に
出雲で昨年お世話になった、とあるかたから
お電話をいただきご一緒にと
おすすめされた場は
今思えば昨年あの奥はなんだろう?
と気になっていた漁村と夕陽を祈る神社だった
そもそもの始まりは
稲佐の浜で泳いでください
昨年の神在祭の一言
波が撮れるなど
思いもよらなかったが
その一言を
しまったまま
車を借り7日間で800キロ
山陰の海岸線を行き来きし
聞き込みをしながら
山陰の海と神社を巡る
AAランクの水質をうたい、波もある?松江の古浦海岸は横が港で、川もあり濁りやすく
その場の雰囲気も人工的でピントこず退散
海岸線の持つ雰囲気や気が良い場所が
まづは始まり
言葉では難しい
感覚を観る
神仏習合の日本
で大国主さんは海原を旅する大黒さん
息子の事代主さんは海に住む恵比寿さん
長野の諏訪に追い払われてしまった弟タケミナカタさんは龍神とも
古来からはこの地を納め
守った土着の出雲族の方々の聖地
大国主さんは
国津神として国土を治めていらしたのだが
天界の天津神 天照が自分にこの場を譲って欲しいと
交渉やら、戦いやら、古事記や日本書紀の謎へ
入る訳です
出雲も、昔は1つでしたが
今は千家さん=出雲大社=北島さん出雲教
は隣同士
北島さんは、大国主さんはもとより
滝のある社に大国主さんを手助けした
少名彦を祀る(信長が伊賀忍から狙撃された、戸隠流忍術の望月三郎ゆかり、伊賀敢国神社と同じ)
神様と皇室の溶け合いはなかなか深い。
神代の神界と浮き世の人間界は色々です。
夕陽は一日の感謝と明日への光と再生を祈る
夕陽に良くきてくださいましたと
祈る出雲
京都出雲大神宮が出雲の元
山が御神体で2万年前から祈られてきたと岩田宮司さん
今の僕たちよりも、はるかに感性豊かでシャーマニックな方々がいた事実を
いつもさらりとお話しくださる
大国主の先祖?父親?須佐男さんは
暴れん坊でしたが
出雲で心改めたらしいです
そこが奥さんクシナダヒメとすんだ須佐神社とも
でもよくわかりませんが
日御碕神社の横のお山に
ここがいいと一人で住んでいた場所もある
「我が神魂はこの柏葉の泊まるところに住まむ」
と投げた場所がここ、美佐枝なる隠々丘(日御碕神社の始まり)
実際に柏葉の化石も出た不思議な気の場所
現実に戻り
須佐男さんの子孫が代々仕えている須佐神社へ
ここも気に入り、自分の御霊を鎮めたらしい
神様がすみ良いとこである
と言ったとか言わないとか
スピリチャルブームで色々な方も見受けます
由緒がきの看板には
戦国時代尼子晴久さんたちが大切にしたと書いてあり
それは御礼に行かねば!
と
須佐神社から30分、どじょうすくいの安木(やすぎ)
の近く松江に移される前の城下町広瀬の月山富田城へ
山城は凄かった
元は仲間の毛利に押し潰された尼子
お寺にある堀尾氏とその奥様が建立された
山中鹿之介さんのお墓に供物を捧げお祈りに
実は先日京都の禅寺で山中さんのご子孫の、書道家の杭迫さんにお会いしたばかりでした
そして急激な斜面の月山富田城の山頂には
大国主さんを祀る勝日高守神社が
ここでもご縁
裏切りと分捕りを繰り返した侍も
神仏を大切にしていたが
どうもその振る舞いは辻褄が合わない
尼子とて1486年に塩谷掃部介を滅ぼしぶん取り
正月に暗殺したり
もう神も仏もない世界
そんな尼子も元は甲賀の佐々木、六角氏の血を引く
後醍醐天皇を隠岐に島流しの警護をしたと言われ
た得体の知れない佐々木道誉を祖先に持つ
(甲賀忍の影あり)
尼子の再起を願い
信長や秀吉に見捨てられ
三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と
祈った武勇の男 山中鹿之助さんも
出雲の神々を祈ったのだろうか?
日本は神様自身も妬み、恨み、恋愛で戦争し
戦国時代も。領土と地位の取り合いの
ばかしあいと、殺し合い
テトラポットのない
海は動き
風が吹き
人間がそのリズムを打ち壊している事実
その全てを太陽は黙って見てきた証人である
祈るのも当然で、戒律も経典もいらない
ごくシンプルなことが大切だと思います
祈りとはきな臭い事でも
宗教でもなく
純粋な感謝と供養
その土地の浄化と見えない時間に委ねること
見返りは期待なしで
祈ることができない昨今の日本人
明治政府の西洋化と天照=天皇家はその子供
としつつ
修験道禁止、廃仏毀釈で
どんなにもの尊い祈り場や祈りてが
絶滅したことか
日本は神話と祈りの循環
太陽の浄化と再生に生きています