顛末
その人達に命を与えたものは風
わたしたちに命をあたえ
今わたしたちの口をついてでるものも風
風がやむとき
わたしたちは死ぬ
今でも指先のひふのしたに
風の道が見える
わたしたちの祖先が創られたときに
風が吹いていたことを
今に伝えている
ナバホ族の歌
北山耕平氏 ネイティブアメリカンの教えより
1992 年にあてもなくバック1つで
オーストラリアへ行く
その前の年に
仲間たちと、つらいライフガードの訓練とライセンスをとった
海岸へ戻る事だった
その海で再会を誓った友が
日本の海で死んだ
約束を果たす為だった
結局あてもなく行った上
英語も出来ず、朝一の不動産屋に行くも
帰れジャップといわれ
誰かが言っていた新聞になんか
家のレンタルはのってなく
家は見つからない
困り果てながらも
道路に座り100%オレンジジュースを飲みながら
笑った
急には見つからないと判断し
つかれたから
シャワーを浴びて寝たい
と思いモーテルに行くが鎖がかかりしまり
結局30キロはなれた 日本食マーケットのたて看板があると
去年きいたのを憶いだし
入れ墨に裸足の2人にバス停を聞き
30分ほど海沿いを北上した
2人は親切でこの辺りが
町の中心だからとおりなよ
教えてくれた
バスから折交差点へ向かうと
人ごみの中で斜め前にサングラスのアジア人のおばさんがいた
おばさんと目が合うと
あなたどこからきたの?
いつきたの?と
聞かれ
朝来ましたが
どこへいけばいいやら
笑
あてもなくきたの?
日本食の看板があると聞いたんですが
おばさんは私について来てと
しばらく歩き、クアリアーケードに入る
水パイプやや飲食店や土産物屋のあるアジアンな場所
あの先が日本食マーケットよ
看板みえるでしょ あれよ
と指差す先に
探していた看板が!
早く行こうとすると
まちなさいよ
ここの人ならなにかしってるかもよ
とドアを開くと
白髪の角刈りのおじさんが
座りながらこっちを向いた
それが結婚式のツアー会社の社長横田さんだった
ねーこのこ朝きたんだけど
家も何もないのよ
あてもなくきたんだって
聞いてあげてよ
と
サングラスの魚住さんは反対側の日本料理屋さんへ行ってしまった
どこからきたの?
品川
?
俺高輪だよ
えー
学校は高輪の高松中学
と日蓮宗の学校
おい
俺の息子高松だ!
同じ中学か!
すると担任迄同じ奇跡
(余談だがここは、敵討ちの四十七士、大石さんの仲間が預けられた
細川藩の屋敷跡で切腹した場のとなり)
結果なんとかしてやるよと
話していると、たまたま奥に遊びに来ていた
別なおばさんが、あれ?うちの家の1部屋空いてるから
聞いてあげるようか?
と
皆さんの優しさに流れ
結局プール付きの家がその日に見つかった
夕方自転車に乗る自分が不思議で嬉しかった
何でも行動してみるにつきる
インターネットもない時代の旅の話し
バリにしてもオーストラリアにしても
まづは地図を買い、助手席にひろげ
レンタカーで、よさそうな宿を見つけては
交渉
事前にネットで予約など
できなかったいい時代
自分の感覚や足で歩いて
朝ついて夕方宿が見つかるなどざらで
時間はかかったけど
旅をしているな〜と
良き時間でした
話は戻るとそのオパール屋さんを経営されていた50代の女性の家の
地球の歩き方をこの後見てびっくりした本棚に
このネイティブアメリカンの本がありました
たしかそれは1992 年4月16 日の出来事