人間様の作為と思惑の外野で生きろ!
映像はバカでも読める
と写真集に文章を寄稿してくだった
ドイツ文学者 池内紀先生
まれにTVに電気を流すと
メディアは視聴率と安易な
小型カメラで撮られた
目を引く映像を垂れ流しだ
だらだらと流す映像は忘れるが
1枚の写真は忘れない
とは、たしかのその通りで
僕も始めは映像も撮ったが
やはり、はるか昔にやめた
ビデオは一度押せばずーっと
撮りっぱなし。
見せ方の違いだから
良いとか悪いじゃないのだが
写真と違い1つの波に気持ちが入る隙間がない
1つの波に集中し、2度と命を奪われないように
するのだから、そんな気持ちを隙間に埋めている訳だ
ダラダラした電気製品の映像は波と対峙していない
命のズレを海を感じないのだから・・・
ワイキキや江ノ島とは違い
ここは地球の生物の楽園だ。
まさに自分が異物であると感じる
間違った沖縄やワイキキのような
外国の白砂をしきつめて作った人工海岸にはない
生きた地球と強い地球の中にいると知る
はじめてがこの恐ろしい海でよかった。
渋谷やワイキキじゃ祈ろうなんて思えない
ここなら独りで死んでバイバイの可能性が
グンと高いのだから
自然に何かに祈らずにはいられない
始めは忍者の呪文とネイティブアメリカンのセージを炊いた
ゆるぎない事実として
人間にはいくらかの地球の怖さが必要である
例の日本人的な思想「罰があたる』である
これは白人が世界に押し付ける「ひげのじじい」
の出番はない。
ゴミなんて捨てようなんて思えない
もっとアミニズム的、森羅万象的地球感である
早く言えば野性的、原始的な誰もが思う観念である
で
海ではこんな姿で
遥か沖のまさに地に足がつかない場所で
波をくぐり抜けては、水中で波を両目で見て押すか?押さないか?
決めながら,その波のエネルギーを寸ででかわし
出れそうな水面へ出て息を吸うくりかえし
アドレナリンを飲み込んで生きる
ジャンクな都会じゃ知り得ない充実感と幸せ感
でファインダーをみないでパチリ!
ファインダーは見た瞬間に
つまらない四角い絵になっちまう
心が動いた瞬間に押せてないので
それを作為という。