飼育されないように
明治時代に大きく日本は死んだ
富国強兵と欧米列強の獅子の分け前にあづかること
人々を従順に育て、管理コントーロルし
国家の意思を貫徹させる為
徴兵制と教育、財源の裏付けに国民から租税をとりたてる
ことが必要だった
日清戦争の前後の境
明治20年に日本民俗学では
あきらかな変質がおこったといわれている
さらに漁師や農夫の楽しみ、濁酒(どぶろく)の自家製造を禁止したのは
酒税をとり、軍艦や鉄道を敷くためであり
GHQにより大麻が禁止されたのも、アルコールや油など、アメリカ製のアルコールや利権を売る為の
障害になる為であっただろうが
神社のしめ縄も、衣装も表向きは代替え品となるが
お札はいまだ(おおぬさ、大麻と書いてあるのは名残である)
どぶろく禁止は共同体のつながりを破壊し
年間国賓6億円の1億円を担保させるものであった
(フィジーではいまだカバという(胡椒科のかるくハイになる木の根を絞り夜な夜な飲んでいて
村人の大切な時間である)
税務署、警察はようしゃなくどぶろく製造の違反者を牢獄へぶちこんだらしい
大正の初め東北地方の牢獄を視察してまわった司法省の役人は
投獄されたのは大半が50過ぎの老婆で、製造にかかわりつつも、一家の男子をかばい
すすんで罪をかぶり服役する理由であった と
市町村合併や戸籍をつくり「水槽の中に押し込め魚の数を知る為」
国家の政治支配
国家神道の系列化とし17万6千余の神社を
一村一社として神様を都合良く
ぐちゃまぜに寄せ集め10万社までへらした
それに反対した博物学社、南方熊楠が投獄されたのは有名なはなしであり
部落自治機能をうばわれ、産土”うぶすな”信仰とかたくむすびついた神社をうばわれたのである
これは悲しいことであったろう
昨今の都会のマンションが乱立し
誰が住んでいるのかわからない
希釈された人間関係
オートロックを理由に神社の寄付も無視され
土地に愛もない為に自然発生する世相
集積所のゴミ置き場もルール無し
村社、郷社、府県社はある日を境に国家神道の系列化の中に編入されていった
だから道祖神やお寺僧様など古来よその土地土地に崇め
護られてきた石仏や、ひいては石や瀧など、そもそもどこにも、系統にも人間界に属さない
それは置き去りにされ、古来から呼応しあった自然信仰は失われていった
日本人の生活の共同体の象徴であった社稷(しゃしょく 社は土地の神,稷は穀物の神)から切り離された
それは当然土地と人間の充足した紐帯関係を喪失させ
日本の庶民の暮らしに虚無の感情を喚起させることになる
部落共有の山の入山の規制、部落とは歴史的にゆかりのない村社で
祭りを執り行なわなければならなかった
その上に親方子分の様な人間関係が庶民の日常をがんじがらめにした
長男に家族相続を権利を与えることなど
今では普通に思われるルールもこの時代に作られたのである
庶民が代々守りついできた部落の内法とは倒立する
国の法律にいやがおうまでもなく、従わなくてはすまなくなった
これは伊賀忍者、地侍にたいしておこなった
東大寺の荘園、年貢制度と同じである
だから彼らは数千年にわたり、そうした代々受け継がれてきた大切な時間、日本の自然感
を傲慢に奪い、矯正しようとした力に、日本で唯一最後迄志にしたがい戦って来た誉れである
が、アメリカで忍者を暗殺者と広告したショー小杉や国内の劇作家は残念である。
信長が2度負け
伊賀を日本から無かった事にするために
行った無差別殺戮が天正9年1581年の伊賀の乱である(映画はフェイクです)
話はそれましたが
いずれにしろ事実はこうであり
国や一部の利権や金のおこぼれを狙い
国を国家神道の頂点である伊勢神宮や、将軍から天皇への威厳をつよめ
民衆を、コントロール管理しやくする政治工作の傑作が明治である
修験道禁止、廃仏毀釈、神仏分離、ほねつぎ、呪術、陰陽道類の禁止など
日本人が諸外国には無い、独自の個々の持つ本来の力を封じ込めたかったわけだ
が同時にアニミズム的な地球との距離感や、道徳観を徐々に失って行くことになる
「むつごろうさんあたりは、この辺はまだお持ちでいる気がしますが」
最後に大切な事がかいてあった
軍事目的を考慮に入れた
鉄道が資本主義の経済の進展に決定的な役割を果たす事は明確になった
鉄道の敷設は、それまで孤立していた町村に大きな動揺を与えずには済まなかった
峠道はかえりみられなくなり
宿場はすたれていき
帆船の上下する大河、汽船の航行する沿岸風景は明治から大正にかけて
しだいに影をひそめるようになった
陸の移動には天候が大きく左右する
海の航行には潮の干満や風の方向の有無が決定的な力を持つ
(命にかかわる)
そこで自然と人間とはどこかで協調点を見いだしながら動いていた
ところが鉄道の敷設によって、旅行するにも、物資の輸送するにも
正確な日時を予定出来るようになった
このことは日本人の時間感覚を一変せずにおかなかった
(ごく自然にだれもが、自然を馬鹿にし下に見るようになっていく)
国内移動により金になる都会にありのように人が集まり
戦後高度成長社会は、日本の山川や海を思うがまま削り
埋め立てて工場をつくり(東京湾、川崎、四日市や、水俣、ディズニーランド、原発など)
観光道路をつくり、レジャー施設をひろげた
この結果、公害がいたると所でおこりはじめ
自然の循環体系は回復不能になるまで破壊された
自然と人間との
かくもいちじるしい不協和音は1960年代以前にはなかった
(個人的には江戸幕府の湯島や日比谷、銀座の海をはじめる埋め立ては残念である)
それは自然の中に伝統の場を見いだしてきた価値観の破壊につながっていくもでのある
明治以来の富国強兵の「強兵」は、連合国の思うつぼにはまった
大東亜戦争のみじめな結果により棄てられたが
「富国」の政策は戦後一層強調された
だがその富国の理念がとわれる時代にさしかかかっている
強兵も富国も国民を幸せにすることができないのであれば
明治の初年にもどり次はなにを求めねば
ならないか、当然問題とされよう
しかしまだその答えはでていない
1973年(日本人の100年 19 世界文化社 谷川健一著)
昨今、自分の土地に家をつくったら取得税、固定資産税、相続税
ものを買うと消費税、車には車検やら重量税やらなんやら
それを悪用する政治家達
今に空気税や水税をつくるに決まってる?
武士の特権社会の様な封建制度は
時代を超え巧妙に受け継がれ
もう茶番なめちゃくちゃな日本。
年号が変わり、見えない何かがかわるのか?
陛下の力あるお一言でどうにかならないものでしょうか?
政治には介入しなのはわかりますが
いかのもどうして、大好きなお魚を研究する海岸や海が
放射能も垂れ流しのまま、このままでは全てコンクリートの護岸になりかねません
仏も神も心地よい、そもそも自然があり
そこに、いつのまにか、仲良くかれらがよりそい
高天原につづく場所や、龍神の池、独鈷の泉がある
宗教は大切だが
宗教は日々の自分の中にあり
この大自然の天地、海川にある
神社は神様の別荘であり
交信所である
その交信所で祈りを運びつなぐ役目が日本人である
理屈はさておき、みえないなにかを信じ
先祖を供養し
海や山で怖い思いをし
美しい時間の中、感覚的な喜びと感動を憶いだせば
自然におかしなことは出来ないと思う
正心を生きることは日本人ならではの
まさに忍の道である
着ぐるみを来た人間のはいった
レジャー施設じゃ知り得ない
大切な時間を今の日本の子供達に伝えねば
とわたくしはおもいます。