伊賀の山寺
伊賀赤目不動,毘沙門,千手観音を祀る
南伊賀の山中、天台宗延寿院と津島神社
縁起は忍の祖680年頃の吉野の葛城で生まれた,忍者先生
役の小角「えんのおづぬ」にはじまる
室町時代からの日本のごく自然な神仏習合を色濃くまもる寺社
ここ延寿院から発行された納経版と牛王宝印があれば
全国66余洲(出羽湯殿山〜信州〜薩摩など)を渡りあるける
いわば旅のフリーパス切符発行所だった訳で、その法華経を納経するため
全国を徒歩で旅した聖が,赤目滝衆だと言う。
滝衆の黒幕は日光東照宮や寛永寺を普請した津藩当主で家康のお伽衆 藤堂高虎。
庭園デザイナーの 小堀遠州、彫刻の左甚五郎など一級の職人を抱え、
人材派遣の能力も高く、実は伊賀の人々が江戸城の石組みをしたようで
三重をはじめ18もの社寺を普請したいわば寺社仏閣の優れたプロデューサーである
「上野寛永寺天海にはせ参じた,聖達が伊賀忍=諜報者であり
その統括者(大頭)が津藩藩主でありこの寺の住職である高虎
つまり今で言う名誉住職な訳だ」
と住職は話していた。
平安時代に桓武天皇と最澄が造った京都
京の都二条城から(皇居)から見て鬼門の東北に比叡山を造ったように
上野寛永寺にいる天海という坊様が家康が幕府を開く際
京都の青写真を江戸に持ってきて造ったのが江戸城で
実際に指揮をしたのが高虎。
結果上野の寛永寺は江戸城からみて鬼門にある
人工池、忍池は琵琶湖をあらわすそうだ。だから忍びの池なのか?
国立博物館の位置に寛永寺の伽藍が、明治に官軍に焼かれるまであった図が
東京大学にあるそうだ。
高虎の屋敷でもあった江戸駒込南谷寺「なんこくじ」にも目赤不動があり
比叡山の南谷に配置するためこの地に作られたらしい
しかしながら西を裏切り東の家康の金と力と天海にすりよって
神輿を担ぎ直した高虎よりも
「家康に日本の半分をやるといわれても裏切らず、秀吉を離れないと言い
三途の川のおばあに渡す6文銭を常に携え戦いに出向く
真田幸村に男としてはぐっとくる」と聞くように
信長の子分、秀吉
そのまた子分で、お金に渋い石田三成については、家臣も家族も貧乏になると
泥舟を捨て、家康と天海にすりよった高虎なのだが
現在の尺度では彼の心の真意はわからない
しかしながらどこかで、延々と続く日本の戦国の平和と安泰を祈願した事、
高虎がいなければ日本の都は京都だったであろうことは,間違いない
外様大名がここまでの位置にいられた事も,伊賀忍の影響があるのではないか。
又本来位牌は、極楽西方浄土に西を背にして祀る訳だが
高虎の位牌は東を背に西を見ている
実際には家康の棺を西にむけよと西軍を睨んで見てる訳で、家康の神輿を担ぎ通した証だ。
当然応仁の乱から続く戦いにうんざりしていた民衆を思い,晩年は住職になった訳だから
滅罪と供養もこめた願いがしみ込んだお堂である
なぜ高虎が今でも奥深い山寺を菩提寺にしたのか?
いわれでは寛永13年目をわずらい、なおる見込みもないある夜
夢に老僧が現れ,携えた剣を高虎公の胸に刺しとおしたという
「日頃の信心の得により、汝を助けつかわす、我は南の方角に住むものなり」
と言い残したという
家臣の独りが延寿院を調べると,それはこの不動尊の右手の宝剣だったといい
その時の恩によりお堂を建てた記録が残るというから
目には見えない霊性や神仏の加護を信じれた時を読めることは興味深い
実はこの1週間前
東大寺を出た瞬間に電話が鳴り
今回の樹霊350年の櫻と雅楽の奉納イベントに誘われた訳だが
ついでに必ず2月堂もみておくれと促され
左手の山を登ると
そこには,昨年登った甲賀忍が崇拝した飯道神社の分祀と不動堂があった。
ちなみに母がたの先祖は甲賀という点もご先祖の導きらもしれない
そもそも昨年、雨の中初めて訪れ手をあわせた矢先、住職が家から出てこられて以来。
わずか3分時間がずれたら、住職ともあっていなかったであろう
配置されたような時間こそ、先祖や高虎さんと忍が
こっそり呼んでくれたのかもしれない