長いたわごと
というのはやはり間違いだ
日本人も目に見えないものと呼ぶその何かを
観、素直に感じる時間が、自然という不自然な言葉が
作られたわずか130年ほど前から隠されてきた
個々の動物や魚にあるような、この地球の強さと感応する何か
が人間にもあったはずで、今も奥深くに眠っていることを忘れてはならない
先日あるラジオ番組で「海って何ですか?」と問われたが
どうもそのときは言葉が見つからなかった
おそらくマイクを前に言葉を探し、きれいな言葉を見ようとしてしまったからだと気づき反省!
で改めて
海は恐ろしく美しい
ま〜恐ろしいにつきる。
帰ること,帰れることの確率がないなら行く場ではない
己の力量の正直さが命を守る
どうかなっては既に遅すぎるから、慎重に大胆に感じ
嫌な予感がしたら、とにかく引き返す
闇が迫り、体がどんどん冷やされ、心が流されていく前に
足がつく海岸に戻らなくてはいけない
山は休憩も、腰も下ろし,地図をひろげ、水も飲めるが
海は容赦ない
休憩も座ることも出来ない訳だから
そもそも人間のいる場ではない
NHKや科学は母なる海などと教えるが
とんでもない
鬼子母神である
一瞬で雨が降り,稲妻が光り、波が迫る
海も地球は全て一瞬で周波数が変わる
一瞬の判断と心の乱れでもってかれる
断固として苦しさや、恐怖から逃げてはいけない
実は逃げているのは自分の心だから
呼吸を整えお地着かせるしかない
地に足が着かない場でこそその本領が試される
こつは自己暗示をかけ,勇気をたたえ、あきらめない!
あとはどうなるものか、すっきり生きる事。
海で裸で泳いで知った事とは
やはり図工と水泳以外は学校の勉強はなに1つ役にたたない
なと思いました。笑
化け学と呼ぶ科学や学校の数学やI am tom が海外でどんなに役にたったか
日本の文部科学省と学校教育の窮屈さが、自由な子供の自信を潰してはいないか?
テストはすべて記憶力大会だから気にすることは無い
集客力とプロパガンダにたけた学校にはいるためのテストなのだからと先生は言っておくれ。
地球に教えがある訳だから,オーストラリアのようにサーフィンの授業や地球のことを教えなくてなんになるのか。
果てしない金持ちだけが行く宇宙の前に自分の庭だろと誰もがわかる。
海で溺れ、川に流された時、テストの記憶力や因数分解が何になる?
学校が嫌いでした?
滑舌よく はい!
束縛感と理不尽な強制が嫌でした。
例えばスポーツ?スポーツ?
そうルールに囲まれ初めて成立しますね。
例えば試合という「試し合い」はルールがあり、まった!も休憩もある順番を決める競争です。
例えば海や山は「果たし合い」であり刀の切り合い同様、一瞬で不具になるか死。
有名な宮本武蔵は強い相手とやらないから剣豪であったと書いた本、山の民俗誌 高須茂さんの言葉を憶いだす。
集中力と見えない何かをつかんだ者が記す領域がある
それが地球と人の純粋な掛け合いと修行であり、これこそ自然に修験道や忍道や密教やアイヌ、ハワイのカフー、ネイティブアメリカンやイヌイット,アボリジニの思想になっていくのだと信ずる。
コンクリートと檻の中の政治利用も出来るパンダ
マークを独占し募金だって集めるWWFという環境保護団体
狭いアクリルの箱の中のシャチや深海魚
本来いるべき場所じゃない場所にいるだけのまるで置物だ。
これまた荒っぽい名前の(動く物の園)に(水の族の館)
地球のボスは人間様!だというコレクションを見ている。
こんな漢字は亀甲文字にも彫っちゃいない。
人も所詮「物」なのだが
これは魂の入れ物である
日本の学校も天然自然に生きた魚や木々に触れさせる時間がいかに大切かを、授業にとりいれて欲しいものだ。
学者先生もわかっているほんの数千年の歴史を見ても、おのずと地球を謳歌し、美を感じ、尊ぶ時間があり今がある。
純粋に水が流れるような祈りの行為の中に
人間は生かされていることを知っていた時間があり
今のこの僅か100年があると知る。
今、人はまるで電気じかけの水槽にいる。
電気で動く酸素のブクブクを買いに自らを飼う為働くのか?
地球の強さと怖さを忘れようと,海や川や山を埋めてきたおかげで、こうしてパソコンで「アホー」なこと書いている「おかしなゆとり」が生まれる。
町の人々は生きてるようで,この地球に生きてないとも言える、地球の中の水槽にいるのは実は魚ではなく、我々の姿見
だ。
自然やアウトドアと呼ぶおかしな日本語の欺瞞を正当化した暮らしの中で、地球が始まって以来、一番のジャンクなゴミは人物だろうなと思った次第。
いい人仏になれるよう今生を頑張れねば
来世なんてどうでもいい
今なのだから
だか
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