写真術
カメラは24のとき
あてもなくオーストラリアへ向かう
道ずれが最初
父にもらったキャノンAE1
フィルムをしこたま買い込んで
搭乗ゲートのX線検査で駄目になる
という迷信が行き交う時代
1998年の1年
写真家 柏原誠オヤジのスタジオで勉強させて頂いた
自由で大胆な優しさに溢れ
人が好きで周囲にはいつも誰かしらが
集まる哲学なオヤジだった
その昔はユージンスミスの日本でのプリントをしていたと聞いた
ユージンは太平洋戦争でサイパンや沖縄戦に従軍した戦場カメラマン
大けがをし、人が殺し合う愚かさに気づき、やがて
水俣病を撮り続けたドキュメンタリーな反骨家
水俣病は周知の通り
小和田雅子さんの関係である
江頭豊の会社チッソが引きおこしたのだが
当時はその事実を隠蔽し全くその責を認めず
水俣病被害者に「死んだ魚を食べる乞食がカネせびりに来たな」
「腐った魚を食べるから汚い病気にかかる。伝染るから近づくな」(株主総会で一株株主の患者達に)と恫喝し
暴力団を雇って五井の集会で患者や新聞記者を襲わせた。
ユージン・スミスも脊椎を損傷。片目を失明した。
でも日本人を恨んでないとユージンは言った
そして柏原オヤジ
おい!カメラは所詮道具だぞ
おもうがまま行けよ!
ユージンは良いオヤジだったな〜
それが口癖だった
そんな柏原のオヤジは
ある写真の賞をとったら
ある日秋山庄太郎の事務所から
「賞を300万でゆずってくれないか」と言われてな
どうしたの?
そりゃ当然やったわ! タダで
やっぱりな
「賞はショーなんだ」な
と
笑っていた
なんやかんや
写真の師匠達は反逆の1枚を探求した男達
彼らに恥じぬよう
ドキュメンタリーで行く!
それが彼らが僕に残し伝えた写真術の心髄である
ユージンスミスと柏原のおやじが
そっくりなだったのを
最近気づく
ユージンスミス
「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」