七面山 山寺
修行僧達の毎夜の
精一杯の純白な経に
心を打たれない者は
ここには来れない
雨に韻を含んでいる
落ちる姿
海に弾けながら戻る音
その姿に美を感じるのが
侘び寂び
かもしれない
下界から
のこのこ都合のいい日だけ
登って来る俺たちは
夜光に集まる蛾だ
それぞれに
一条の光明を探して
それぞれに
過去の光の道を照らし
衆生を精一杯生きてみる
間違えないのは
来世ではなく今
と
日蓮さんも言う
今がなけりゃ
来世はない
当たり前の事ながら
功徳を無理に背負う
時点で
作為の功徳になる
頭でなく
自身の胸で感じたまま
生きたらいい
南無妙法蓮華経でも
アビラウンケンでも
南無阿弥陀仏でも
いい
何故なら
目指す光の集まる場所は
同じだから
御来光とて
言われなくても
太陽はちゃんと毎日来る
太陽が昇るのは
誰かのおかげではなく
宇宙と地球の摂理である
あー美しいな
ありがたいな
でいい
畏敬というと堅苦しいが
誰もが平等に感じる
絶対的ないい感じと
人間の奥底に寝転んだ美意識を
くすぐる訳だら
これは海や山にゴミを投げれなくなる
投げないのと同じ
人間に備わっていた事を
単に憶いだすのが日々であり
誰かの、押し付けや唯一の教えではない
日々に感じる景色と心象現象を重ね合わせ
溶けあう日々を
この山寺の御堂にかかげられた
「感應」かんのう
と結ぶ
戦国の世の後
知らない国へ探検に行った
日本の仏教家の彼らや
今のネパールや中国から帰化した彼らだが
幼い頃、祖父母に手を引かれ
鳥居をくぐり、高天原にかみずまる
日本古来のやおろずの神々に
ぺこりしたのかな?
本来なら日の丸を掲げ
天皇陛下にならい
祝詞を捧げるのが日本国
である理由であろうが
その辺りカオスな日本
神社庁なる会社ができる
もっと昔から
祈りの手法や所作はあったろうが
文字が生まれる前
カメラが生まれる前
だから
記憶が曖昧だ
組織になると
その曖昧を利用してないか?
凄いお経を
朝晩聞いてるせいか
明け方から
ぐだぐだ書きましたが
1日を思いの丈のまま
無心で祈る
七面山の彼らのように
避けては通れない
雨に打たれながらも
互いに光を探す日々
日本人の地球との呼吸と
呼応しながら
自らを密にし
生きるすべを
僅かな光が示してくれた気がした。