やりすぎ
神様とは誰なのか?
いや一人ではないはずだ
日本書紀や古事記に書かれている証拠により
様々な色んな神様がいるらしい
書物を書いたのが人間ならばそれはフィクションの物語なのか?
それても見てきた事を紙にドキュメンタリーとして忍術書のように記したのか?
本当ならホピ族のように初期のご先祖や神様達が書いた石盤や
写真が1枚でもあればいいが
寺には仏は座って「いる」が
神社にはよりしろが代わりとなり(通信場)いつでもスタンバイしているが
じっさいには神様はその付近にはいるがその場には「いない」
よくわからないが
その昔はい石や木々や海を崇めてきた人々が
時間と共に成長し知的になり神社という
祈りやすい建築物ができたのだろう
明治政府により天皇のご真影と教育勅語に頭を垂れさせる、国家神道にズレて行き
東郷神社、乃木神社のように陸海軍の息のかかった,護国神社が神と入れ替わるが
いまだ僕たちはあまり理解してないまま、普通に神社へ行く
だからうまい具合に緩やかに神社は争いもせず
増えてきたのだが
例の檀家がいないから,参拝者が多くお守りが売れたり,寄付が少ない神社は建物をはじめ
その維持が厳しいのが事実である
田舎になると兼務している神社が多いため
荒れ放題の神社もある
鎌倉から江戸時代に宗派せいにさせられた我々
死ねばどうせ同じところへいく
どんなに高級な国産の石の墓は生きてる者の見栄だ
と言ったら夢が無いが
法然も,空海さんもその手法の差の違いはあるが
同じ峯に向かうルートの差である
荒行の坊様が
瀧もシャワーも一緒です
と笑っていたのには妙な説得力がある
東京をはじめ大都会の坊様はいい
地価が高いから、墓地の土地代がもらえる
坪単価は日本一の銀座の鳩居堂より高い!
いつのまにか長男しかはいれない独自のルール
で檀家が「ねずみ算」のように計画的に売れる技
あの言いづらいお布施や
言い値の戒名や
新しい釣り鐘が欲しいな〜とうつむき
贔屓の石屋や葬儀屋から
ありがとう!代がまわってくるから
牛や馬の車に乗れるチャンスがくる
インドから仏教が輸入され様々な僧侶により
独自の解釈と教えが作られていきながら
今でも様々な新興宗教がその教えの独自のルールと
集金方法を塗り重ねている
日蓮とて当時は幕府から
民衆をたぶらかす悪い宗教者として死罪になりかけた訳で
何かの1つの仏や誰かの(1人の生きた存在)に頼らせるのには
いずれその齟齬とズレが大きくなる
なぜって
人が考えて作った物だから
地球にはかなわない
地球に備わり
則して生きて行くしかない人間
あらがう事も無理で意味が無い
そこに色んな神様がいるらしいなと感じ
おのずと自然に正しく生きて行き
自然に祈るのが本来の人間なのだが
どうも金儲けに夢中になりすぎた
あらゆるものをぶっ壊し
もはや車でない、営利目的な自動運転の車
ジャンクな洗剤や、イサギ悪い電子レンジを売りつけれる
なにはともあれ
つべこべ言わず
その美しくも怖い世界に身を置く事で知る
人間が現代の技術で八ッ場ダムや海岸線を存分に破壊は出来ても
元の同じ姿は作れない事実
俺たちやりすぎだな・・・・
いつか天罰がくる