子供の頃、砂浜の濁った海や、騒がしい海の家は嫌いで
ひとり水中眼鏡と2本の網で磯で魚を生け捕りにすることに夢中だった
シュノーケルは危ないからと、つけさせてもらえず
ビーサンを履いたまま、水中の岩から岩へ
転んだり、サンダルが曲がり足を切ったり、ウニを踏んだり
怪我ばかり
よく親も一人で、海で遊ばせたな〜と
その魚をビニールのバケツに電池のエアポンプで
ブクブクと酸素を送り
今思えばバケツか何か、倒れにくく持ち手の楽な
ものを探せばよかったが
頭が回らず
山口の下関の壇ノ浦の田舎へ運んだ
横から見てるだけでも、楽しいが
水を変えないと死んでしまう
実際に小さな魚は死んでしまったり
可哀想になり、目の前の海へ離したり
おじいさんは、安岡という場所の植物園の園長をし
そのあとは、今はないレジャーや水族館があった下関マリンランドで
盆栽の手入れを、当時の会長さんにずっといてください
と朝から夕方まで自転車でかよい、働いていた
口数は少なかったが
山の家で朝鮮ウグイスを飼っていた
婆様は料理の先生で、様々な魚を捌き
穴子も網でやき頭や骨を焼いて
みりんや醤油や砂糖で、つめを作り
焼き立ての穴子や、茹でたてのシャコ
天然の鯛の皮目に布巾をかけて、サッと湯をかけ
氷水に入れた、松皮造りや、新鮮なミョウバンも使わない
バフンウニがレモンの輪切りの上にのり
とにかく毎日、魚を食べていた
一緒に朝、早く市場へいき魚を行商のおばちゃんから
買い、どれにしようか?と真剣な目で魚を選ばせてくれた
そんな幼少期から
海の学校で、勉強?し
オーストラリアのライフガードの資格をとり
ダイビングの写真もやがて初めるが
やがて、人間の都合だけの撮影方法や、宇宙へ行くような装備に違和感
を感じ
全てを捨てて、昔のように裸で海へ、今度はカメラを握り行くべきで
何かわからないが、写せるかもしれないと
2001年から波の中へ水中メガネと足ひれだけで向かった
全部ひとり旅で、ネットもなく、足や感覚で海を選び泳いでみる旅は
本当に今思えば、危険な波で何度も溺れ、よく生きてるなと思います
海のガイドブックはあっても水中の波のガイドブックはない
サメがいる!毒の魚や海藻もいる完全な人間様には別次元
もう一つの地球
タヒチでサメも来たことがありますが、先に見つけ向かっていくと逃げたり
あとは運がよく向こうは見ていたかもしれないが
かじられず。
深い青い海を泳ぐ時は本当に足元ばかり見ている
海岸のゴミをひろい、その海岸や海に話しかけ
祝詞や様々海を自分なりに浄めさせて頂くようになった
海外の海に祈りばや神社はないが
日本は海やそこかしこに、神様の別荘神社があり
その神社なる家を整備し、維持し、祈った先人が
数千年いらした事実を改めて知る
なんだか心の支えになるかもな〜見えないけれど
何かしらを感じたり、特殊な理由があり
神社を作った人々の感覚と能力
そんな月日が流れ、海外の海はあまり興味がなくなり
ずっと日本の真冬や様々な岩場でい泳いでいます
波なんかなくても
俺は太陽を波と撮るのだから、どこでもいいや
波という固有ぶつを探し、波をとるぞ!という
肩はった思いが消えたようです
そうは言っても、冬海や磯は怖いです
修行ですね。
透明な海に海の中の風
波が全身を包みながら、輝く瞬間は
素晴らしいものです