以前に、のせた写真やら、あまりの写真の数に重複もしますが
文が変われば写真もまた意味合いが変わり、その時のイメージで気づくことも
あるかと思うように
これはニュージーランドのオークランド方面、波のありそうな場所を聞き込み
私有地の農場を延々歩き海のあるであろう、方向へ歩くと海なりが聞こえた
google earthも持ってない頃。今は旅は予めネットで調べてしまうから
そのワクワク感や様々が昔に比べ薄くなりました
予め、詳細な結果が見えている場に行くのが最近の旅行なのか
機材を背負い、ウェットスーツを持ち、車を停めた場所から
ぬかるみやら、羊のうんこやら踏み締め
40分来たのがここ
もう行けと言われてもいかれない
泳ぐ気満々だったが
水も濁り、風で波が潰されていて撮れないから見た瞬間やめた
何より、ホオジロザメがいそうな感じがした
寒風の吹き荒ぶ、ケルト民話の海岸のようだ
物寂しい雰囲気が独特で、海岸の小石のケルンが(小石を何段も積み上げたもの)所々
月山や高千穂の賽の河原にやネパールの山によくある、月山はしんだ人が戻る山
ツキヨミの命を祀る山も今は9合目まで車で行けるありがたく無い感じに。
石積みは死者を弔う意味がある
誰もいない
海風が岩を削り数億年かけてできた、自然な自然美は美しい
しばらく冬の冷風にあたり、数日までいたフィジーの青い大波を思い出す
海から戻ると、生きた心地に包まれる、体も精神的にハードだから
撮れていようと、撮れまいと充実した喜びがある
長い時で五時間もイルムを変えては海に中にいた
手もふやけ、喉もカラカラ
こうした旅を繰り返し、泳げる海岸を探すことから始まる
不安と期待のお決まりの文句が海を見つけるまで付き纏う
まずは波があるのか?
珊瑚の岩場から海へ飛び込んだら、果たして戻れるのか?
戻れない場合は第2の上がる場所はどこだろう
一時間後の海や雲の天気は大丈夫か?
どのへんで泳ぐかな?
潮は流れているのか?
サメいるかな?
色々初めての場所を観察し歩き回る
撮るのも難しいが、撮れそうな場を世界地図から見つけるのも
また不思議で難しい
大きな怪我もなくなんとか生きています
海に生かされている
海でゴミを拾い、海に礼を尽くすこと
海は還す
海は人生を巡る
短い命、知らないままの海も風もあるだろうが
それはそれ
一人身を以て、目の前の景色に心打たれ、頭を下げていく時間が
胸の永遠に残り、宇宙の約束を思い出し
神仏を尊び、神仏に頼らない心を育む
地球の全てで自然に行われてきた思いを祈りともいうが
祈りという言葉さえも、きな臭いと思う日がくる
心晴れ晴れ、海へこの身一つ、一人で行く