この数数年前から
海外は興味がなくなったので日本の中へ
古来から数千年受け継がれ、手渡されてきた、形では無い憶い
が神社や滝や巨木に残る
そんな古来から祈りてたちの、雑味無い、昨今の願いをかけにくる日本人とは別質な
信心と思いやりに、自然に行き着く手段の一つが波の裏を泳ぎ、身を正すこと
くじぎりや祝詞やときに般若心経や貝もたてるが
くじぎりと祝詞以外はしたりしなかったり
くじぎりは道教や大陸、ユダヤの流れも吸収した、はらい清める手法
侍や忍びたちが、自己暗示や心の依代とした事実も含め
妙な何かがあると感じる
くじぎりの本には子供が刃を持つようなもので、やたらに験を積まない者が
消すべきでは無いとも買いてある
究極はお経も祝詞いらないのかもしれない
あくまでも、いつの日からこうした方がいい、またそうした現象を目の当たりにし
た結果が積み重ね、自然への義理と失礼ないように誓い、我が身の穢れを払ってから
真っ白なスタジオに引導する所作とも言えるが
最近思うのですが
真っ直ぐな胸の丈、胸の思いがあれば
海岸の石を打ち鳴らしても、なんでもいいのかもしれない
あーしろ。こうーしろという。
後からどこから湧いて出た人間様のご都合に過ぎない手法にすぎないから
それでも、仮に自然や海は必要なかったことでも、人から人へ数千年も続けたら、宇宙や自然や海もその誠意は伝わる訳だ。海も山も水もちゃんと聞いて生きている。
それが日本の誇りと自然と名付ける前の国土やこの国のために亡くなった侍や人々への鎮魂につながる
仏教はずっと後から輸入された新興宗教なのだが
仏像に仏師の思いや、たくさんある種類の仏か?なのか?何かしらの御霊も入るのも事実であろう
修験者たちは、蔵王権現やお不動様、役の行者の力を仮り
崇拝し敬いその身と心を研いでいく
経験を修めるから修験である
取り留めもありませんが
人生は修験だと思います
それぞれの仕事、仕事の休みの日
1歩山河に分け入り独りで黙々と歩き、胸の中をからにし
胸のまま生きること
生きがいの中に生きた古武士
儚い命より長く残る、海や岩や滝や木々を崇めた思いを
アイヌやアボリジニ、ネイティブアメリカンや、フィジーの昔の人々
地球共通で自然に行われてきた優しさと現実を観る胸
自分が少しずつ背伸びしながらできる仁義を自然界に伝えていくうちに
大切な何かが集まっていくと信ずる
学校や教科書では無い生き方がいかに早道で尊いか
頭は捨てて、先人たちの胸を借り僕は海の裏へ