先日もカメラをはじめって映したのはいつですか?
と聞かれ、最初の1枚が何だっのか?
小学校の時にコニカのカメラで
沼田のお祭りか?近所で見つけたアルファロメオのマーク?
これだという1枚でも、思い入れもなくとった程度で興味の対象にはいらず
当時は海でそれも磯でもぐりながら魚を網で生け捕り、タコやアワビやサザエを採って
食べるのが生きがい。水中眼鏡と2本の網と腰のパンツにあわびおこしが海への道具
それが今はカメラになった。結局は先祖がえりですね。
そして生け捕った魚は、電池のポンプでぶくぶく酸素をビニールに送りながら
持ち帰って水槽で飼うのが1番の興味
少し硬いビニールの取手のついた、楕円のビニールバケツだから、
よれて途中床が木の客車でこぼしたり
生きてるかな?と水をこぼさないように、片手に釣り竿と網を持ちよく歩いた。
今思えばバケツにすればよかったのに、電池のブクブクが取り付ける
ビニールバケツのポケットがないからか
発想も考えも浮かばず
やがて海の学校へ行き、オーストラリアでアリフガードの資格をとり、海の怖さとすごさを
生身で再確認した。波の中を泳いだ始まりは89年のオーストラリアかもしれない
夜の街でもよく遊んだ時代
1年後の夏、逗子を海にいたら、伊勢の方の英虞湾で仲間が死んだと聞いた
運転していた船から落ちたらしい
そんなに普段は特別仲がいいわけではなかったが、あたあのいろいろと厳しく辛かった
ライフガードの海へ行こうぜと約束していたが
命は儚い、水泳もうまく体のでかい彼は19歳。僕は高校をダブったから21歳だった
それからは谷中のお墓に通い早いものでもう32年が過ぎた。変な話し生きていたら関係はなかったが、
亡くなってからの関係が深くなり、海へ行くたびに
報告に行く。郵便ポストが墓石の石柱に針金で結わかれ、中にはメモ用紙と鉛筆が1本。
それがご家族との手紙のやり取りだった。
そんな暖かなご家族のお父さんが急に亡くなったとお母さんから聞いた。
最後のあったのは3年前のファイヤーキングカフェ。
お母さんは、日本だった頃のパラオの生まれだと知り、僕もホームステーをしていたからお互いびっくりした。
そのパラオの家族とも、あのある日の40年前の4日間から今も家族のような関係が続いている。
話は脱線しましたが
そんな約束を守れないまま、1年だけ原宿のアパレルの仕事につくが、口先だけの社長に頭がきてやめ
やっぱり約束の海岸へ行こうと決めた
何かがずるずると約束を反故にしていたが
それは単に自分の決断力なさ。ワーキングホリデービザをとっても当てもない国へ行く不安だったのか
日常にスタックしていたのか、決めたらスッキリした。
あの海岸へまづ行って、家でも見つけよう
誰かが新聞に家のレンタルが出てると2年前のオーストラリアの海沿いのマンションで聞いたのと、最悪は日本食のお店に看板がありシェアメイト募集の紙があると聞いた。そんな程度だった
まだインターネットもクレジットカードもなく、なんと僕は調べないから、ガイドブック地球のあるきかたも知らず、むこうについて誰かが置いていった本を見て驚いた僕を驚く日本人
行くと決めたら凄い早い。原宿のプロペラという服や雑貨の店で、キャンバスのバックを買いこれに
詰め込めるだけ行こうと決めた。バックパックの旅や便利なリュックの存在すら知らず。
調べようともせず、誰にもそんだんせず。
すると僕の本当の父がカメラでも持っていけば?とCanonのAEー1をくれた
それが始まりかもしれません
窓から写り残る景色が、ただ楽しかった。絵は描けないが自分でも絵が描けるんだと思った。
36枚フィルムを詰め、スーパーで現像しても普通にできていたし
マニュアルで経験と勘でダイヤルや数字を動かし撮っていた。
結局家を見つけ4ヶ月ほど住むが、退屈になり目的を達成した感じがして、一度帰国しいろんな国へ旅へ行こうと決めた
今はデジタルになりすぐに写真も見れてピントも自動であうから本当に凄い。あの頃は現像が上がる日を心待ちにして取り行き、袋を開いたものです。そしてあの頃の一か八かの旅がなければこの写真もなかったのは事実。
子供の頃の海の時間が今を作ったのも事実。
夢中に一人でやることの大切さ。