京都 興聖寺
11/11~12/11まで臨済宗興聖寺 特別公開!
古田織部正 重然、江戸時代の鬼才な画家 曽我蕭白さんの菩提寺
織部さんは家康に京に火を放ち、家康にクーデーターを連歌師と島津らと起こすと嫌疑をかけられ
切腹を言い渡された。和平をする為に動いていたと言われてますがわかりません。
「かくなる上は入り組み難き故、一切の申し開きもなし」と反論も命乞いもせず
1615年6/11 織部72歳長男重嗣37歳の屋敷で自刃
6/13 次男重尚35歳(前田利光家臣)と3男重広(池田輝政家臣)江戸で切腹
4男重行27歳(豊臣秀頼家臣)大阪を脱出し興聖寺の和尚に兄や自分の子供達を託し、墓の前で屠腹
5男重久25歳5/7お父さん古田織部正の名前の のぼりを背負い討死
利休が秀吉に切腹させられた後、全国の大名や様々茶道や、独特な花鳥画を取り入れた茶器や庭づくりでは時の人となり、家康はうとんだのかもしれません。
3男の息子に武田と通じていると、疑心暗鬼になり切腹させられ、服部半蔵に介錯させようとしたくらいです。
半蔵は幼い頃から知っていた為断り、仏門に入り四谷の浄土宗西念寺の僧となり、彼の隣に半蔵自身も眠っています。
織部が自分の菩提寺とし、60歳の時に天海、城造りの名手藤堂高虎たちとこの地に創りました。(高虎と天海はセットです)。今は堀川通に分断されましたが向かいの水火天神にも織部稲荷があり敷地でした。 高虎は織田信長の伊賀侵略と伊賀忍や地侍に、息子織田信雄が勝手に侵略し2度大負けした為、1851年9月に7万の兵で伊賀をこの国から失くそうと、神社仏閣に火を放ち、女子供を殺戮しました。、打首!までいくほど怒り、だから魑魅魍魎の住む伊賀へ勝手に攻めるな!と言っただろ!こうなれば猫や狸1匹殺し、焼き払えと命じる。
伊賀忍達は見かけない怪しい江州なまりの魚屋や薬売り、商人が来たので、後をつけ信長の屋敷に忍びこみ、侵略の日も知っていました。伊賀無料寿福寺で12人の上忍で会議を開き、数では負け全滅するが
信長のような悪に頭を下げるくらいなら、地租伝来の地を汚す輩には降参はあり得ず、民衆や子供達も巻き込むが、潔く戦い死んでも魂には嘘はつけず生き残ると、徹底抗戦に決めました。
地続きの甲賀は数年前に信長に戦わずして頭を垂れましたが、これは甲賀と伊賀のシステムの違いで、郡忠惣という多数決で決める仕組みで、神社仏閣や民衆を守為、致し方なく降参したとはいえ、湯船の藤林長門守と甲賀の芥川さんなど元は仲良く地境もないので、きっと情報を流したり助けあっていたと思います。
ですので忍者ドラマや映画はみんなでたらめで、本当は神仏を尊び修験者でもあり、陰陽師でもあり、大陸の道教の流れもくみ、東大寺の荘園や植民地化に対抗し郷土を自営で守る、純粋な正義のレジスタンスで武士だったのです。正心こそ自分たちの生き様だと忍術書にも書いてあります。役行者像が伊賀だけでも数百体ある以上な祈りの聖地です。
そして大問題!伊賀上野城は何ら伊賀忍者とは関係ありません!いい加減に悪用するな!後ほど
結局は半蔵が家康に、伊賀忍が全滅すると伝え、和睦を信長に命じ、奈良の大倉五郎なる神楽氏(忍か?密使)の仲介で柏原十郎吉政(伊賀忍12人衆の一人)たちと彼らの城で和睦したと言われています。
その1年後警護の薄い日に信長は暗殺?
話がそれましたがその後伊賀平定のあと、津藩の高虎が伊賀で忍や侍たちと友好的にまとめ役として訪れました、その時、伊賀の民衆の高野山や大徳寺のような宗教的聖地「平楽寺」も火を放たれ800人以上に僧や、侍、忍、神官、女子供が殺され、伊賀には大迷惑でいらない伊賀上野城を建設し、今伊賀上野観光局は忍とは全く関係ない(悲しい殺戮と侵略のモニュメント)を悪用し忍者ショーなる観光もうけをしています。伊賀忍たちは悲しみ、呆れています。今も入り口のカーブの先の左に古い石仏や墓石が乱雑に集められていますので、是非お参りを。
実は京都のここ興聖寺に高虎由来の品々があり、和尚に聞くと織部亡き後、弟子でありその死を悲しみ、織部の奥さん仙さんと興聖寺の大檀那として供養を続けたようです。
ちなみに天台宗の伊賀延寿院には高虎さんのお堂と御位牌があり、家康に背を向けて安置。松本住職談
その伊賀と信長の和睦し立て篭もった柏原の山城は今も土塁や井戸が残り、僕も年に数回供物を捧げお経を読み供養に伺っています。
余談
始めて伊賀忍の供養に訪れた地が、赤目48瀧の麓の延寿院
そこで松本住職に出会い、お堂やお不動様のおあ掃除をさせていただいた際、すみませんねと位牌を手にしたのが実は高虎さんで2013年6/11
興聖寺に始めて来た際に波の襖をやることになったのが、2020年11/11
そしてここで高虎さんのことを望月和尚に聞いたのが昨年
織部さんご命日1615年6/11
6/11に高虎さんのご位牌を手にした日が織部さんのご命日
そんな現代アートとか芸術と呼ぶ以前の、自らの心と美意識の四季をたっとんだ彼らの安寧の場に
フィジー の青い波を飾っていただいたのは、純粋に不思議と感慨深いものです。
普段は非公開の禅の道場です。この機会に是非!