フィジー の大波の中で
蒼い写真が写っていたのは、振り返れば23年前
やがて、海というのが
別なものというか
場所ではなく
生きた聖域だと感じ得ずに
いられない出来事がたくさんあった
出来事とは目の前の現象だが
出来事がなくとも、そう感じれる自分がいた
アニミズムという自然信仰
の前の時間が
海にもあり
水、風、光、月、太陽、川、岩
そのすべての記憶と時間が
波であると思う
波は固有の一つの形をした物ではなく
エネルギー体
波動であり風
空気の風ではなく
水の風である
宇宙の感覚を使う=呼び戻す=自然に海の生物や海の循環を大切に思えることになる
人間界と宇宙の干渉行為の一つがこの水の風の裏側の記録である
独り
誰にも見られるず
海を神社のような聖域と感じ
お辞儀をして、言葉をかけ、言葉に心をそえ、お伝えする
日本の祝詞でもいい、ハワイの祝詞エホマイでもいい
わからなければ、お願いしますでいい
胸の無心に浮かび上がる思いを伝える
行くと決めたら行く
もちろん
怪我を避け
戻る努力を惜しまず
妙に胸が怖わくなったら
海岸へ戻る
結果や理屈や頭で生きている養殖池の学校の
(でも学校は「きっかけ」やガイドの先生の教えが必要だから、しばらくは我慢する場かな
僕も水泳の訓練はいい先生と塩素と魚のいないが、波のないつらいプールでした)
でも競争するテストではない
順位でもない
名誉でも
地位でもない
負けでも、勝ちでもない
全てを透明にして海へ入る
ファインダーは見ないで押す
写る時は見なくたって写る
目に頼ったら
人間様の恣意を海に押し付けるわけだ
昨今のカメラマンはファインダーを見すぎる
見れば見るほど、その輝く瞬間は
砂に吸い込まれる海のように消えていく
考える以上の
時間と風が夢中で飛び出せば
そこかしこに暖かく待っている
諦めずに
心折れないよう自分で自分を押して
ゆっくり、慌てず
脈々と泳ぎ潜る
やがて術が身についてくる
行かねば0
行けば0でもその意味が違う
どんな世界も刀のように鍛錬するしかない
自由自在に海の風のように
自分と自然界
自分自身の間合いを知るように