予定
京都の予定は
5/17 22:00~
多分東京も同じかと思います
僕よりさらにアナログな、一休さんのような住職の話なので
日程東京が違ったらすみません
平安時代から残る
五百間もの一切経
古田織部が60歳の時に
天海とおそらく藤堂高虎(織部の弟子で、城作りの名手で伊賀延寿院のお不動様に助けられ、他由縁で位牌がある)
信長の伊賀に侵略の後
信長と伊忍は徳川の命令できた
ならの大倉五郎という神楽師をかいし和睦
その翌年信長は本能寺で死んだことに
伊賀上野城はそもそも
伊賀にはなく
あそこは伊賀の人々や侍、忍の宗教聖地
高野山のような平楽寺という平家系の伽藍があるが
信長軍が鉄砲で撃ち火を放ち
僧兵や神主や女子供1000人以上を殺し
後で
信長系の筒井が作った伊賀には必要無い物
それを作り直した高虎
今や伊賀市は忍者=忍者ショー!=上野城と
いう忍者には迷惑な関係ない観光的アトラクションにし
地侍や忍や伊賀の民の本心と信心を踏みにじっています
伊賀上野城は伊賀忍者の時代にはない!
あれは、電磁かけのネズミのぬいぐるみの浦安ディズニーランド同じ
話はそれましたが
事実です
で高虎さんが織部が
家康は火を放ち家康暗殺の首謀者と疑惑をかぶせ
切腹させられたのち
堀川高校の地の屋敷を整理し
徳川や豊臣系が茶碗や茶器を分捕り
興聖寺の大旦那としてお寺を守り
織部さんたちを供養された
文句一つ言わず72歳の織部重成さんは
長男重嗣37歳と伏見の屋敷で切腹
次男重尚 三男重広も江戸で差し違え切腹
4男重行は興聖寺のお墓の前で屠腹
5男重久は大阪城の戦いで討死
奥さん仙さんは彼らを弔い
仏門へ
織部さんは
お茶の作法があまりできず
ねっころがってお茶を飲んだとか
細かいことには囚われず
大胆でありまっすぐな感情豊かな方らしい
ある日、お茶のルールを知らず桜をお茶会に持ってきたお客さんの
桜を丁寧にいけていたとか(桜は派手な為使わないそうです)
織部は自分では茶碗やろくろを回してないようですが
本当のことはわかりません
しかし
美濃や唐津の色彩豊かな緑の釉薬で
花鳥や猿や幾何学模様を描き
伊賀や信楽では主に花いけを作ったそうです
芸術的直感的な美意識とすごい
感覚を持たれていたんでしょう
織部さん切腹
1651年6/11
次男、三男6/14
興聖寺にお墓あり
元々大徳寺で修行された禅僧でもあった織部さんは
奥さんが亡骸を大徳寺の塔頭に相談にこられ
筋としては大徳寺でお預かりしましょうと
明智光秀さんのお墓と隣どうしになったそうです
そんなわけで
今はなかったですが当時は2箇所にお墓があったことに
と大徳寺のお坊さんに聞きました
余談ですが
江戸時代の画家
曾我蕭白さんのお墓も織部さんの近くに
やはり画家で儒家、神主の富岡鉄斎さんが文字を書いた石碑もあります
有名な曽我蕭白さんのボストン美術館の龍図は
ここにあったそうです
本堂には龍神様がいらして
江戸時代のまま
あとは火災で焼け後から作った物だそうです
そんな芸術家の眠る安寧の地
水を修めるための水火天神と共にあったこのお寺は
ある聖域だったのでしょう
ここからまっすぐ数百メートルで
陰陽師安倍晴明の屋敷もあります
天海さんが謎の僧で忍びたちをも
使っていたそうですし
高虎さんも伊賀で受け継ぎ
忍者や松尾芭蕉のお父さんも地侍で抱えていたそうです
襖は出るか?わかりませんが
放送予定だそうです。
住職より
初めて伊賀忍のお参りは2013 6/11
その時、高虎さんの位牌を持ち、話しかけ
お寺中をお掃除した
(高虎さんは家康の御伽衆ですが東の東照宮に背を向けて位牌が安置)
興聖寺はいきなり夕方きたのは 2020 11/11
去年分かったのがここに、高虎さんがきていた
織部さん命日が1615年 6/11
高虎さんの御位牌を手にしたのと
織部さん命日が同じ謎
伊賀赤目滝 延寿院 高虎さんと赤目不動を祀る
この寺の住職は仲良しで
僕を俺の兄さんと呼びます。
掃除しとるか〜!と目を光らせてます
ブラックな真実の歴史に詳しい天台宗の
話好きの松本住職がいます
ぜひお声かけください。
事前に言えば準備があるので
強力な護摩焚きもお願いできるかもしれません。
追記(御神酒とお気持ちお包みください)
高虎さんは天海と
西の琵琶湖と延暦寺と竹生島
にもして結界として魔法陣としてか
北斗七星=寿老人=妙見様(日蓮宗)
空から見ると北斗七星の形で江戸の不動明王を設置し
琵琶湖のミニチュアの霊力を生む場として
東の
不忍池と寛永寺と弁天島(ここにも伊賀生まれの芭蕉の句碑がある)
をわざと作りました。
昭和30年代埋め立てて野球場にしようという
恐ろしい安易な案も出ましたが
却下され良かったです。