飯道山
紀元前219年徐福とともに伝わった技術が忍のはじまりらしい
日本では587年に聖徳大子に仕えた甲賀の大伴細人が
志能便と名付けられ
いつしか忍に
書物ではなく口伝で歴史を観てきた彼らの事は
今となっては永久にわからない
書物があったとしても
伊賀者を全て殺戮しようと企てた信長に焦土にされたため
焼かれた為
きっと旧家には伝承され隠されているが
表には出てこない
太平洋戦争で、政治利用された楠木正成も忍であり
その家系は能の観阿弥、世阿弥にまで届くという
もともとは渡来人である伊賀甲賀の忍が積み重ねてきた
名誉も地位も関係ない
己にかした、はかない思いを背負い
村の人々や君主の義と勇気と無念に
心を打たれ
生きる術を探した彼ら
そのネイティブな不思議な忍術にひかれ
海で祈り、いまでは彼らの地で祈るの日々
父方は龍や天狗を祀る広島県の風早の祝詞八幡神社の血が流れ
母方は近江や甲賀の木挽きだったのも何かの縁と因果であろう
漢字では心に刃だが
忍とは
全てを認識すること(悟)
一切は空で、実相である
真理の上に心に安じ不動であるのが 法忍
その時々と因と縁の組み合わせ
それがありのままであるから
受け入れる事
歯を食いしばり忍ぶのではない
おそらく当て字だと思う
実際は
生きる事も
滅する事もいとわない
正心がかられの元
独自で感じた真理のもと
自己が受けとるべき人生を認める事
一切のものは不生不滅と認めると
書いた比叡の僧 鎮源
名声も地位も望まない
光と陰の両方を見据え
生きる日本人の誇りと矜持だが
今の政治家や大人達には蚊帳の外
伊賀忍とは数百の砦を構え小競り合いを繰り返してきた地侍である
無理矢理な大きな力に対抗する為に、三重の山中で生きる術として
独自に自然に育った訳で
密教や修験とも絡み合い
実際には生きる為の姿勢と,精神にその重きを重ねて来た
わかっている範囲では
外的に対し伊賀では12人の頭が(伊賀上野城の前にあった平楽寺や、寿福寺(今も現存)に集まり会議をし
その時だけは一致団結したという
甲賀では53の忍や修験者の家系で「惣」そうと呼ぶ
団結と決まり事で、毒蜘蛛を飼うことを禁止したりとした、管理する組織があったという
レジスタンスである。
今でも甲賀は火薬や薬の産地として有名であり
製薬会社や置き薬は甲賀地方に多い
ここは甲賀の修験道の聖地「飯道山」
最盛期の勝手に神仏分離を強制した明治になる前迄
宿坊も40近くもあったという
熊野から勧請された神を祀り
独自の山岳信仰と修験道の足跡が染み込んだ山道と磐座である
この山には不可思議な自然な岩穴や鎖場の地形があり
ここで士豪「忍」が修行をしたと伝えられている
九字切りをし般若心経をとなえ
お酒とお塩を撒いた
皆様のおかげで
今の日本があります。
花は咲き
散って土に還り
また花となる
無生法忍とは生死も超越し煩悩を離れ涅槃の境地に至る
同様に涅槃寂静ともいえる
そんな心の境地をしめすのが忍だと信ずる
とらわれない心の自由
地球を感応し呼応できる修行を積み
地球にあらがう事なく
地球に時々の環境に時間に則しながら生きる道
宗教を越えた世界間が
どこかの威張った殿様や武将に
媚びてじはりつくサラリーマン侍ではない
己の信念と真理に沿いながら生きる
生き方があれば戦争を起きないのだが
原発や金が大好きな大人達に埋もれた地球を
そんな彼らの精神が救うはずだと信づる
集団ではない個の強さで繋がる惣をもう一度