伊賀上野城の嘘
詳かではないが、今から約500年前1577年頃まで(信長の養子の息子が伊賀を武力で蹂躙にきたが、返り討ちに)
その後信長が怒り1581年伊賀を地球から無くす計画(ジェノサイドが起こるが徹底抗戦した彼ら彼女ら)
地租の意思を受け継ぎ、おそらく全滅するが
魂は変えられず、たとえ体がなくとも生き続ける
七世報国 七度死んで八度目に朝敵を倒すと言って自刃した楠木さんと同様です
戦時中、大本営が、その言葉を戦争のプロパンガンダに悪用し
特攻隊の青年たちにすり込んだわけですが
所詮俺たちは
湊川だよと、非理奉天、七世報国と書いた菊水の幟で
鹿児島沖で全滅した野中五郎さんと特攻機桜花の話はご周知の通りです。
昔、昔、日本が66の国に分かれ、土地土地の検問所である関所で、今のパスポートが必要だった
修験者、僧侶の祈り人は特別な免除があったとも言われている
ので、忍たち(この時代はニンジャという言葉はなく、後の創作)
間者、すっぱと呼ばれ?実際は分かりませんが
普段は農民で午後からは武芸や呪術の稽古をしていた
あの黒装束(実際は青に近い黒とも)は目立つのであくまで、あからさまな任務や夜の時だけ?
日本のほとんんどが、秀吉や毛利や特に悪名たかい信長に
力で殺戮され、無理やり服従されていたロシアの赤い抑圧に近い時代
伊賀だけは徹底的に抗戦し、故郷を勇気と武芸で守っていた
甲賀は数年前に信長に、甲賀武士(忍)は郡忠惣というシステムがあり
多数決の協議の末
村人などを守ために無血降伏したが
伊賀と甲賀は地続きで、仲が良かったので
様々な葛藤や真実があっただろうが、判明しない。
伊賀は分かっているのは惣国一揆という
独自のシステムで3人の上忍(百道三太夫、藤林長門守、服部半蔵保名長)(愛知生まれの息子の半蔵まさなりではない)
12人の忍頭で決められた
傭兵的要素もあり
敵味方が複雑な刹那に生きていた
いわゆる、抜ける(抜忍)処罰も厳買ったようだが
僕の感覚や聞いた話では
役の行者、摩利支天や猿田彦=天狗、いずな権現など呪術的
な力を崇拝しつつ
香香背男(星の神)寿老人(北斗七星ー妙見)
陰陽師もいたというし
神仏を尊び己の精神的な正心を鍛え修行していた
心の人だと感じます
実際藤林長門守の子孫が(お墓は伊賀西念寺=不思議と四谷の浄土宗西念寺には服部半蔵の息子まさなりさんが眠る)
万川集海という忍術書のまとめに書き残した
ですので
伊賀上野城はそもそも一大聖地平楽寺の伽藍でしたので
焼きはらわれ、お墓も捨てられ
筒井定次が数年後に作ったそうです
伊賀市が上野城で、飛んだり跳ねたりするコスプレ忍者のショーを見せたり
上野城=忍者にしているのは大間違えで
侍や忍、郷土の人はきっと呆れておられます
信長の殺戮と平定(最後は徳川により和睦し、忍や侍は負けていない)したのちに
筒井順慶から主君を何度のかえ、最後は徳川の御伽衆で城造りのプロデューサー藤堂高虎
が作り替えただけで
火を放ち鉄砲で撃ち斬首し廃塵とかし1000人近い人が殺されている
あの場所の祈り場とは無縁な物です
お城へ行く駐車場からの坂道の左に
雑然と集められた、石塔や墓石がお不動様とありますので
御参りください。
伊賀上野城は歴史的にもトンチンカン!な現実!
写真はそんな12人の頭の一人
河合庄 田谷掃部介さんたちが全滅した山城
なんだか怖い霊気というか、お化けとか悪い意味ではなく
彼らの精神的強い意志で戦い、まだいらっしゃいます。
ここに初めて来てから約8年
なんだか懐かしくもある
彼らの聖地です
最近は、山城探検の人々が来ているようですが
僕はお酒やお水や供物を持ち供養へ
竹林や落ち葉も多く、お線香は火が危ないので禁止にしてください。
今の日本に消えかけている
長いモノには巻かれない
宇宙と心の真理と真如と精神力と武芸
渡来系の人々が土着したルーツですが
日本の誉です。