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夕暮れへ

夕暮れは太陽が赤くならず
あっという間に西の山に隠れた
この辺がいつも謎

水温は朝よりマシだった
30分泳いだ

駐車場は停めれず
お父さんと知り合いの魚屋さんの息子さんが
お宅の駐車場に、入れば停めてください
水も使っていいですよ

暖かなお気持ち

お刺身を2人前頼み
後で食べるのが楽しみだ

流れがあるな〜
遠くにサーファー6人いる

水は少し濁っていた

朝泳ぐと1日が満たされた感じになり
サーフィンもする気がおきない

二兎追うものは一途兎を得ず

何か1枚でも写せたらそれでいい

明日の夜明けに集中
温泉へ入ろう〜

凍りの中

夜明け
伊豆七島の水平線に雲はなく
太陽も来そうだが

本当に泳ぐのか?
自分でも笑うほど、暗く寒い!

ほのかに東の空が
あけぼの色に

12/8真珠湾攻撃隊の若者達はこんな景色の中
命をかけて行かれたのかな〜と
感じた

それに比べ
趣味の延長で、わざと命をかけたフリをする俺は
くそだな!と

胸によぎりつつも

祝詞を読み、貝をたてた

いざ!
ウェット新しく
いいのにしたが
背中に冷水がちびちび入る
胸が冷える!

しかし岩だらけの海底は
視界も悪い場もあり
海藻が揺れ

波がちょっと大きいせいか
砂嵐のように、波動に合わせて砂が舞う

陸上では眼鏡がないとだめなレベル

水中眼鏡ごしの海は濁っている

氷水の中
魚が全然いない

いつもなら、黒ダイや、小さなイワシがいるのだが

ダメかな〜

もう来た以上
ここでやるだけやるしかないのだから
文句なし

写真は太陽が水平線に現れる前
宇宙や大気圏に反射した光の1枚

水が硬いな〜
体動かしていないと
凍りそうだ!

家電になる人

暗いうちに起きて
準備をしても、撮れない場合もそれも自然

温泉に浸かり
海を望むと、伊豆七島が光っていた

海の波長や波動
オゾンを含んだ朝の海の空気

や海に祈ってきた神官やユタの純白の祈り

様々な目には見えない
風が海はある

ただあるだけの海という物ではなく

鈴木大拙さんがいうように
西洋人が見る山

日本人が見る山では違うという

西洋人は山の頂上に登り旗を立て
征服するという

東洋人は一体になり溶け合うと例える(そんな日本人ばかりではないが
実際には荷物も自分で運ばず、剛力のシエルパに大金を払い、ゴミも捨てっぱなしで帰り
日の丸の旗を立て
万歳三唱!した70~90年代の登山家達
を、嘆くのは野口健さん

あくまでも、根底の心ある東洋人のあるのは
「物我一如」

鈴木さんは、道元や総持寺の螢山の曹洞宗の
に禅の修行者である
ため仏道が前提なのだが・・・

一つの例えと、方法として読んでください。

「目の前に山は古仏の言葉が現を前に成就したもの
そういう真如としての山水だから

西洋人がいう自然Natureではない

こちらに人間という主観がいて

向こうに客観としての山水があると
いうようなものではない

古仏の言葉が実現成就している「真如」としての「自然」

「真人」が「真如」を見るという時の山水と

ヨーロッパ人が自然とい時の山水とは全く違うものである

「にこんの山水 古仏道現成なり」

キャノンは観音
という意味の仏教を柱にした会社ですし
昔は観音様のロゴマークです

カリストのようなものでしょうか?

ニコンも
にこんだから大井町の日本光学工業さんも
何か知っていたのかな

ニコンは純粋にカメラだけのメーカです

そんな深く考えすぎないで
目に目ない力や美しい時間は生きて
いつからかは誰もわかりませんがあるでしょう
ガイアシンフォニーを書いて
地球は生きたい有機体と知っていたジェームスラブロック博士や
イルカのジョンリリーさん
ライアルワトソンさんのような
方々知るように

目に見えない叡智の風があります

宇宙に浮かぶ島が地球で
地球に浮かぶ島がアメリカであり日本でありパラオです

仏はそれを人間の解釈で作りあげた、当時の「現代アート的」
創作物というか、時代時代に合わせて作られたもので
お釈迦さんの、教えとは全く別なものです。

黙って自然に入るしかないです

修験道と禅が
それに近いような気がしますが

1人のマスターを置くとどうしても
うみや宇宙の真理からはずれ始めます

ひたすら坐禅で座ってばかりいないで
体を使い吸収し経験し
独り旅をした方が色々深くシンプルに鋭利に
胸におちます。

水の温度や潮流
夏の水、真冬の水の固さや香り
水中の粘りとか、人工絵具ではない色彩を
感じたら楽しく、細胞が浄化され元気になります
感じるのは目や頭だけではないです

指先から出る触覚や
体の毛穴や経絡や全て
センサーです

五感に響くとか、五感を刺激するとか
本当に気持ち悪いです

人間には無限な感があります。
弥勒48か200か、わかりません
数字じゃないんでしょうが

いい言葉があればいいですね。

余計なテレビや携帯や人工物から逸脱する時間が人を豊かに正しくします。

でも生花や刀はまた人工物だけど
生きている感じがします

宇宙の原初的生命と物質だからかな

このままでは、数100年後の教科書で
日本人は人ではなく「家電」というカテゴリーのなるかも

暗雲

 

時間が経つにつれ
太陽が大きな雲を連れてきた

数十分前の水平線は消え
一面の雲
まさに暗雲

水中眼鏡をハマボウの葉っぱを
1枚ごめんねとちぎり
内側の曇り止めにした

御神酒を注ぎ
ハワイのチャント(祝詞)エホマイと
日本の祝詞を捧げた

海岸でしばらく観察したが
これは無理かな?

帰るか?
いくか?

結局腰まで入るが
暗い海で撮れる感じがしない
今日は潔く帰ることに
海岸へ戻る

夕方またここにきてみるかな

人間様の思い通りには行かないのが
宇宙の風

それでいい

夜明け

夜明けを待っていた

水平線に雲がない
太陽が昇るのを水中で待つ
がとにかく、冷たい

1時間ほど体や機材の準備をし

車を隣の海岸へ走らせた

宇宙

海と宇宙
地球と宇宙
同じ関係です

水中から波という「妙舌な波動」をが通過した瞬間に
宇宙の太陽を見る

宇宙の太陽にはいけないが
太陽が8分19秒後に届く光の先端

しかし波は少し前からくる透明なエネルギー波

不思議な時間に立ち会っている

もう何年かしたら
地球の教室では知り得ない
また気づくことあるんでしょうね

海から見る太陽
ほんのひと時
波の裏側にいることで
陸地では永久に知り得ないことを観る

美しい海と宇宙であってほしいが

海はプラスチックゴミ
宇宙は衛星のゴミでゴミだらけ

これ以上人間は余計な物や新興宗教を
作るべきではないのだが

この150年で日本も地球も
経験したことのない、自然界にはない
バクテリアなど生物にも分解できない

人工の放射性物質からペットボトルや電池やら
埋めてごまかすしかないゴミで覆っている

もはや人が、有害な寄生人になっている事実

でも太陽は文句一つ言わず
ちゃんと朝に来る

侍を偲ぶ

波の裏に深緑で見えるのが島
水面から望む島

初めてきた南太平洋の沖
何の縁でこんな沖に独り
ぷかぷかしてるのか?

人生でなかなかない瞬間

また泳いで、潮が引きすぎないうちに
戻らないと、戻れなくなる

妙な緊張感と海に見られている感覚

人間が主観で
自然が客観ではない

自然に溶け合ってるな〜
物質としての、体をよく感じる
水温、潮流、波のパワー、鼓膜にくる圧力や音
胸に響く波の爆発音、浮遊間

これがもしなくなったら死
んだ時だ

内面的な感覚は
心地よさ、恐怖、緊張、冷静さ、慌てないこと
思い切り波へ突っ込む気持ち
妙な幸せ感、現実と数日前まで東京の街にいた自分はなんだ?
いいのが撮れたらいいな〜、戻れるかな〜
戻りたい!あ〜怖かった
高速な波をかわせた!

そんな同じ自分でありながら
古来からのかけねも、手加減もない大自然と宇宙の法則を
改めて胸で感じることの大切さ

ニヤニヤ笑う

人間は海では異物でゴミですが

浄化力と無駄なものを捨て
強い自分に育ててくれます

地に足がついた世界の出来事なんか

地に足がつかない岸から300m沖の海原と比べたら
何でもね〜や

と思うわけです

怖い思い、毎日死生観を感じ生きる尊さ
忍者や侍と同じですね

いろいろな侍の生き方が人を自然に正すかもしれません

怖いとは何?

32歳の頃

酸素ボンベも捨て

子供の頃のように
息の続く時間だけ海の中にいるべきだと感じた

あれはパラオの、海軍墓地と同じ敷地にある
14歳の時に3日間だけ、ホームステーをさせてもらった
レイモンドさんの墓前で

閃いのか、降りてきたのか、導かれたというと気持ち悪いが

話はこうだ

命ははかなく

常に死ぬ可能性の中
覚悟と大胆に生き抜くことが
魚や動物と同じく
自然だと感じた

沖縄で命を落としたアニーパイルや、キャパ、一ノ瀬泰造さんのように
写真も命をかけないと
本物はうつらない

あえて危険という
人間様の尺度に図られてたまるか!ばかもの!


大波の中に頭から突っ込んだら

やっぱり溺れた

何よりも溺れる前が怖かった

大波がぐんぐん、生き物のように海面をうねらせ
近づいてくる、サンゴ礁の波は島伝いに円形に
全ての空間をラップする(包む)

逃げる場所もない

もし非常ボタンがあれば
空中へ吹っ飛ばしてほしい

胴の左はダメとか
よく話からにルールのため試合と
8段はお金で買う剣道の試し合のような

待ったも
考える暇などない

そこが大好き〜と一人沖で萌える

こうなると
もう
生きたいか
死にたいのか
しかない

片手にはカメラ
足ひれと水中めがねだけでお気にいる自分を
大笑いする

何してんだ俺!

考えはくそだ!
学校もクソだ!
勉強の試験も水泳の競技も意味がない!

頭で捏造した
溺れるかも、まずいかも、死ぬかも
頭で考えた悪の言葉は胸に全身からスーッとあつまる
変な信号に変わる

そうすると

やっぱり溺れた

結局こうだ
心配や不安は極度なストレスと緊張をうみ

体が思うように動かない
腰に短力が入らず
鋭く体が、波の中へ動かなくなる

これがパニック

パニックはどうやって消して無くすのか
研究した

これが何なのか
自分の中に潜在するのか、潜伏するのか?

外部からアブのように、こちらがパニックの電気を飛ばし
帰ってくるのか

何度も大波に飲み込まれみて
冷静に研究した

自然破壊は心の墓場

数十奥年変わらず
人間の思想や宗教にも汚染されていない海と太陽だが

明治政府の廃仏毀釈、神仏分離、修験道、呪術の禁止の頃から
人々が神羅万象の移ろいを感じにくくなり

やがて安価で加工が簡単な石油製品の発明により
洗剤や化学工場の汚染水や石油製品やら
あらゆる、人間が生み出した汚染物質が混ぜられてきた川と海

目には見えない、ある現象の事実から
離れさせ、天照大神を天皇の祖先とした

個人の精神力やいいいなりにならない強い信念を解体し
コントロールしやすい日本人を作ろうとした画策を
してきた政治や

自然から離れたら
自然に失うことがある

信心

純粋無垢な透明で、分子の隙間にケミカルなゴミの入る隙間のない
海の成分も昔と変わったはず

光の入り方や、屈折も弱くなり

水は生き物だから
そんな力や波動も随分と弱ったに違いない

今に写真に移したら水分子の隙間に
末法とか政治やとかアタックとか悪い言葉が写るかも

水量が多いので、薄まっているだけで
ごまかされているが
僕が子供の頃の「海」とは随分と変わった

このままの、作れや売りつけろ!の
過剰に毎日作る企業と消費者の出すゴミにより
やがて海も山も、夢の島のように、ゴミで覆われ

ソロモンやフィジー が中国のおかげで変質し
埋め立てられる象徴的な昨今も然り

青空のように青海は消えていくのでしょう

間違いなく
180年前
北斎や広重の江戸の風景のような景色が破壊され全滅したように

100年後には水位が変わり、海は汚染されれ泳げず
天然の魚も食べられなくなり
海岸が消え全てコンクリートになったり

自然の怖さを断絶する暮らし

すでに人工のホルモン剤やホルマリンフグやサーモンのように
ケミカルな養殖の魚で味覚が破壊され体が汚染され

過剰に便利で高速な暮らしをすればするほど

人間界も心も美しい宇宙から心が離れ
荒んでいくでしょう

海や川や山へ
行かないとわかりません

部屋で阿弥陀如来の
他力を信じ唱えるのではなく

自らのバランスと宇宙感覚を
古代からの景色より学ばなければ
無量の電気に支配されてしまいます

美しく
絵も言えない心地よさ
だが雪や冷たい海で口だけでご飯を食べて生き抜く
鳥や魚にはかないません

寒い、怖い、危ない

でも
その距離感を知るのも
己の力と心を
知ることかもしれません

考えすぎてこね回すと、
海で溺れネガティブがネガティブを呼ぶように

勝手に都合いい解釈に解釈を重ね
人工的に作り上げたお寺の世界

戒名は七つだと100万円です〜
屋根が壊れたのでお金ください〜

法事を重ねないと、先祖が浮遊霊になりますとか
我々を、誰彼の教えをいいところだけ、頭からかぶせてくる
一部のお坊さん宗教のようになります

胸の突き動かす
天然の時間を生きるだけ

黙って一人旅で海へ

純粋な信心は
太陽も先祖も神様もちゃんと見てます

沖縄の人工ビーチ

真冬の海はできるなら
入りたくないです

でも日本だとなかなか
透明な海が絶滅しつつあるので

冬のプランクトンや雨の少ない時期を
選ばないと、透明な海を見ることが
昔より少なくなりました

砂地は濁るので
書いては岩の方がいいですが
叩きつけられたら大怪我をします

いつも、冬の海は
緊張と寒い早起きで始まります

先日ドキュメンタリーで見ましたが
世界は水も然り、海や川の砂の争奪戦です

砂はコンクリートの材料で
途上国や先進国のビル
中国が行う、埋め立ての材料です
香港の空港も台湾の砂を一度フリピンなので運び
砂洗(ロンダリング=アサリと同じ産地偽装)をし
生産地を書き換え売ります

船で砂を違法採取し、海岸や河川が破壊されています

ワイキキやほとんどの沖縄のホテルのビーチの砂も
カリフォルニアやオーストラリア
紅海の砂をわざわざ撒いて、人工の海岸を作っています。

いずれ海が汚れ、山も崩れ
海水も輸入し海を仕切った生簀で
泳ぐ時代も来るかもしれません

沖縄のブセナリゾートは
砂は紅海、海は数十メートルを網で囲い
その中で泳がせます

理由を聞くと
砂のビーチがお客さんを呼びやすい
ハブクラゲに刺されたらいけないので
網の中でお願いとのこと

クラゲはもともと海にいるので
自己責任ですので泳ぎますよ
 
というと
網の中でお願いしますと
お堅い話し

沖縄まで行き
生簀の海に入る

1970年代沖縄のエメラルドビーチが沖縄で初めてらしい
サンゴ礁を爆破して、砂を輸入して撒いたのが始まり
珊瑚の隆起した島で砂の海岸はあまりないのが事実
今や40箇所もの砂浜と思わせる海岸は、人工ビーチ
水は沖縄産
海岸は外国産の妙

戦争と破壊を覆い隠すのが観光業でないと思います。

事実を伝えた上で

海や崖の建つことは環境に
異常な負荷がある上でのいい雰囲気という事を
知ることが大事です

ケミカルな石鹸、シャンプー、塩素の風呂の水を海に流さないように
環境に配慮した観光業はできないのでしょうか?

美しかったバリやパラオの海は
ホテルの汚水で
汚染が甚だしいです

今に海は、所詮池ですので
透明な海やおあい海は無くなります

しかし日本ももはや
海岸は砂より、発泡スチロールやペットボトルが多いのではないかな

石油製品が地球を破壊したスピードは凄まじい物です
石油は天然ですが、それを使う人間のモラルと、宇宙へ思いやりがないのが元凶です

聖地  

遠い遠い海からきた

風が波

波を水面の動きだけではなく

風とは海にもある

空気の風か
水の風か

そりゃそうです
初演H2oの分子構造と
離反してはくっつく、水素結合のは永遠に変わらないはず

数千年後、時間が進んだら
水分子が6こまでくっつく
現状が10こにもなるのか?

波は海の呼吸で、宇宙の呼吸です

命を産み
命を回転させる

海岸に佇んで
悪い気持ちになるわけないです

宇宙の波動が集まる聖地ですから

波の中ほど
瀧をかぶるより
いいものはないですよ

プールから出る

太陽を写している
波の中には心身を投じていかねばならない
その先にある太陽と

地に足がついた
ところからの太陽は違う

同じだが違う
違うが同じ

同じものを見ながら
同じ時間を生きながらえ

ほんの数センチの角度や
波が崩れ、波に飲み巻かれたり
ちょっとした角度で逃げれたり

体と心の使いかたで
無限にある時間

ただそこで
思い切りやるかどうか

意識ではなく意志が大切

仏道でも神道でもキリストでも
人間界の迷いや、人がいいように解釈し
人工的に作ったルールが、そもそもの真理と神秘を濁す

他力でいいとか
南無妙法蓮華経が全てとか

山に登る方法が違うだけと
と例えもあるなと以前は思ったが

そんな遠回りな道を
誰かのいう通りやりことが
すでにずれている

自然を遠ざけ
遠ざけている暮らしが
宗教に寄りかからせる要因かもしれない

茅葺の家から今の生活にお時間

宗教者たちが考えすぎて捏ね上げ
解釈と方便ではあるが

何となく効能や実績があるから
誰もが入りやすいのかもしれない

黙って自然の中で
自分の感覚と胸でいけばいい
至って単純なこと

ガイドは時にして必要かもしれませんが

唯一無二の一つの頂上など
はなから無い

山という征服感に満ちた
目標をつくりがちな人間界

一つの山には稜線がり峰があり
川谷渓谷もある

満足いく到達点は決めなくていい
川でも隣の小さな山の洞窟でもいい
一歩勇気を持ち向かうことで
すでに周波数が変わっている

自然観=宇宙の呼吸

あまり衣装や意識で武装すしても
宇宙の真理には決して及べない

もし仏道者たちの師匠のお釈迦さんが言ったことを忠実に守り
再現していくのなら

「独で旅して悟れ〜」がどこに行ったのやら
 
「別に死んだ後も祀らんでいい」

親鸞も僕が死んだら
「鴨川に投げて魚の餌にせい〜」

が自然でいい

腑に落ちる

悟りという
言葉が随分広く解釈されてきている

言葉でそもそも表せないのだけど
それを表すために悟る行為を行う

結局
後の人々が本人の意向とはあらぬ方向に
作り上げていった仏 界

神社庁もいろいろありますが

その話は置いておいて

僕の個人的な感覚ですが

一人で旅をする
普段も群れない

宇宙に心身シンプルで行く
道具もシンプル

イカしたキャンプ道具はファッションに過ぎない
自然界の怖さと美しさに存分に溶け合う

これだけでいい
宗教は諸刃の刃

言葉は脆弱だということ

己の必死の体験と
日々の人間界の経験こそが宗教であろう

大金を払いネズミの仮装の国に行くよりも
海や川へ行く方が、どんなに普通のことを思い出し
自分の周囲のエーテル体やアストラル体が整うことか

宗教じゃないですよ ドイツ人だったか
キルリアン博士が見つけた
キルリアン写真と言って
生命の電磁場の話

ちぎった葉っぱは
その部分の電気が途切れ
写る

波動は同じような事象

変なお坊さんや
宗教はある程度で付き合い

自分で海の水に足をつけ
オゾンに満ちた潮風の波動を
胸いっぱい吸ったらいい

普段は僕は独り旅なので
誰とも喋らず
黙って海へ行く

電球がきらびやかについた
人気雨的な観光地も全く興味がない

これは生き方の問題で、良し悪しではないのですが
真如な自然美を受けながら、理解する時間が
極度に少ない現代人

都会の隠遁者でいい

だからアウトドアも変な言葉で違和感を感じます

太陽を見るプロセスが違うと
太陽さえその姿を変えます

全ては生きていて見て聞いている

ファインダーは見ないで押す

海の中の波動を一瞬に透過吸収した
1枚だからいつまでも見ていられます

作家とか写真先生の面倒な講釈も念も無い
天然の写真

最近は珍しくなりつつありますね

腑に落ちることで生きるだけ

間違えや悪には反抗し
サラリーマン侍にならないような子供たちが
増えないと、それこそ末法の世界です

忍たちが礼を尽くした
この宇宙と己への本心と欺瞞ない生き方こそ
もののふです

もちろん
彼らとて
独寂しい時は摩利支天の呪文を唱え
くじ切りをし、あくまでもそれらは心のお守りとして
常にありました

あまりそこだけの決まりやルールに、固執してしまうと
偏りが生まれ、目がとんがります

プールでどんなに早く泳げても
海で役にはたちません。

自由自在、融通無碍
常在を知る

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年はまた日本の波へ!

寒いのが嫌いですが
海もプランクトンもなく
探せば透明な海もまだ残っています。

新潟の山より

レ アピ オステリア

ミラノで18年お店を構えていた
松本ヒデさんのお店が西麻布に!

イタリアンと簡単に表せない
日本料理のような素材感とデザインが
味と絶妙に流れる

塩の塩梅が素晴らしい。

パティシエでもあるヒデさんの
デザートも食べたことのない世界

ぜひ!

Tel 050-3091-6419
港区西麻布2−8−7−1F

表参道から根津美術館を右に
さらに坂を下ると2本に分かれた左へ

コンビニの隣 15分〜20分

乃木坂から徒歩10分〜12分

西麻布交差点から7〜8分

心とよく言うが
一体なんだろうか?

海へ行くまで

不安や期待
不安と言っても、そんなシリアスなものではなく

ここち良い海岸があれば
それでいい

泳力を正直に観る

撮るためには透明度が1番

次に戻れる海岸か
戻れない可能性があるのか?
もし流された場合、見渡して第2の戻れそうな候補の場を探す

実際には行かないとわからないから

あとは黙って行くだけ

実際はさっきまでの不安は消え
いくつもの本のように
次から次へと状況がガラッと変わり
忘れ去る

先を読む
ゆっくり海を味わい先を泳ぐ

潮流、深度、海底の地形、温度、サメがいないか?

様々現実を冷静に観察する

大波が来ても
正直何もできない

波を撮るには
その何十倍も潜って波をかわす
いなすと言ってもいいかもしれない

ダメかも?
とか
まずい!とか

ネガティブに空想すると
胸に全身から何かが集まり
腰の力が抜け、呼吸が乱れる

つまり体の電気的信号が乱れる

絵も言えない怖さが胸に濃縮される

逃げれないかな〜
巻かれたら危ないな〜苦しいし
死ぬかな〜
何発波が来るだろうか

と、瞬時に駆け巡る信号がある

これが心なのか?

体は入れ物

頭は厄介な物

不思議なのは、そこを乗り越えるように
頑張ると、消えていく

経験を重ねるとそんな思いが無くなる

ボコボコに巻かれると
何十年経っても心が潰れそうになる

でも、これを早く消さないと
いつでも簡単にパニックになる

止まっている時間はほぼない
永遠と続く波動に
この身を1つ

生きているやら
死んでいるやら

太古からの海に溶け合えば
地に足がつく世界のおバカな自分を笑う

でも心ここにあらず
ではいけない

意識を捨てる
風に逆らわないが
風に向かう姿勢(心も)を判断し
体を鋭く向こう側へ抜けるように入れる

常在戦場
臨機応変
自由自在
必生則死

大事なのは全て一人でやること
人と群れないこと

感じること
信ずること
宇宙に遠慮と尊重を忘れず

Chacott

チャコットフォトシューティングも年内分は終了いたしました。

3月からの撮影で
延100人以上の方々のバレエの世界観に
わずかな時間ご一緒させていただきました。

この場を借り御礼申し上げます。

どうぞ来年もよろしくお願いいたします。

Chacott

12月のチャコットの撮影も始まりました。
バレーを通じ、美意識を鍛錬している皆様が、全国からいらしていただき
ディレクター共々ありがたいですねと話していました。

すぐ忘れる頭に残らない映像ではなく

1枚の写真は
過去や未来を伝えていき

見るのではなく
読むものであり

毎日見ても同じようには見えなず

昔、お母さんに
送りむ迎えしてもらったな〜とか

不思議な時間の旅へ誘ってくれます

水曜日はフォトシューティングの常連様の撮影
お待ちしております。

アキオさん

パラオに子供のキャンプとホームステーを数日体験した

お互い手紙は25年も交換してないが
いきなり、昔の手紙を持ち
タクシーに乗ると

その家は地元でも有名な家族で知り合いだというドライバー

びっくりして
連れて行ってもらうと
玄関にいたのはグアムから前の席に乗ってきた女の人

なんだ
ユニスか〜
9歳の彼女の写真を1枚だけ持っていたが
まさか

今は政府の仕事についているという

玄関が開くと
大きな体のアキオさんが出てきた

驚く様子もなく
普通に笑顔で
今きたのか?
入りなさい〜おいでおいで

奥さんのあけみママもいた
名前は日本人だが、若者数万人が玉砕したペリリュー島の出身

時を超え
全く驚かないオヤジさんに
不思議な感じがした

ご飯食べたか?
今なご飯と伊勢海老しかないが
食べなさい
サラダがなくてごめんね

お父さんたちは元気かい?
おじいさんは?

と昔のままのアキオさん

そんな彼が2001年に急逝した

そのことがわかり
電話をしたのが、新たな始まり

逢いにいけばよかった
と後悔の涙

命は儚いです

そして
アキオさんの墓前で
命がけで海を泳いで写真を撮りますと
誓った

14歳に初めて会い
お宅に数日泊まった縁

まさかこんな形で
人生に溶け合うとは不思議です

それ以来
あれ以来

波の中をおよぐ人になった

アキオさんありがとう。

幼い頃から海が自然に
好きだった

子供は遠い海へはいけず

茅ヶ崎の海は自転車で行った
途中、柳島の厳島神社が遊び場で
昔はジャングルジムが奥にあった

やがて5歳で東京に移民するとい
祖父の工場の2階には、
器用な祖父が作ったステンレスの手製の巨大な水槽が
部屋を埋め尽くしていた。

今覚えば魚と水がいつも生活にあった

熱帯の淡水魚と海の魚など
毎日、見るのが楽しみだった

祖父は昔、ザイルで山へのぼり
スキーや車を愛する人だった

海もよく連れて行ってくれた
真鶴の磯で一日中、網で魚を追いかけた

今思えば
足のつかない場所は
水中の岩のうえを移動し
動き回った動きが、撮影で生きているんだな〜と
憶います

ビーサンは脱げたり
足を切ったり
ラッシュガードもない時代

とにかく擦り傷が多かった

幸い溺れたことはなく
32歳の時に、冬のパイプラインの横で溺れたのが
初体験

その翌年
また今度はマウイのホーキパで溺れかけ
フイジーの沖で肺の酸素が全部出て、苦しくて
あと一発来たらダメかなというところまで溺れた

まさか大人になり溺れるとは
いい体験でした

海の動きは古武道や
35年ぶりに会った青山でバレースタジオを開く笹原進一君が
バレーの動きにも通じていると話していました

無駄なく
瞬時に体の力を
入れたり脱力したり

簡単に言うと円運動と律動です

昔、弟子にしてくださいと来た人が何人かいました

でも死ぬからやめなさい
と言いました

プールの水泳と
海の水泳は別世界です

心の修行もしないと
本当は、ど根性で前へ行けば助かるのに
心を折ってしまうのは自分です

どうしようもない力の中に
飛び込むので、入った瞬間に
もうあの世の入り口で

沖はさらにすごいです

そこに潮流や待った無しの大波や
サメや海底の岩や珊瑚など
敵が多すぎます

片手で泳ぐ僕が精一杯で
海で助ける自信がない

特に珊瑚の海など
叩きつけられたり
浅瀬で巻かれたら終わりです

もみじおろしです

話が相変わらず長くなりましたが

海は嘘もかけねもなく、人間界の浅はかな自分を
捨てないと死ぬからいいんです

浅はかな自分が死んで再生?なのか

真剣になるんです
生きる術を一生懸命駆使して
写真を撮り、また泳いで帰るのが
なかなか渋い

出れも見ていないので
完全な
自己陶酔です

いいんですね〜海は

不変

今週は
今年最後のChacottさんの撮影

年明けの展示の為の
新たな作品の現像と印画紙プリント作業で
年内バタバタです

海は逃げんませんので
撮れる時は撮れますので
焦らず ふた呼吸

自らの心身の才配を用いて
利変に応じ則していく

死んでもいい覚悟で日々過ごす
海は多くを響かせてくれます

こうして、街中にいて
海なりの聞こえない場にいても
海は変わらず寄せては返しています

稲佐の浜


パンフレットだと
綺麗に岩の山だけ写され編集されています

これが、神様が国譲りをした(実際に海岸は延々何十キロもあり。ココ!とは断定できません、神社の方談)

現実はコンクリートの堤防とテトラポットの
隙間のチョコン

もう少し行政も
美しい神話性のある公共工事をしてほしい

神様の聖なる場と宣伝するのなら

海と太陽と雲だけは昔のまま

日御碕神社のゴミの海岸

1年来てなかったら
テトラポットの山!

ゴミも相変わらず半端ない!

正直拾えない!

漁師はそもそも無関心

祈りの聖地も
気味とテトラと埋め立てで破壊され尽くす

大丈夫か?日本人

行政の予算を使い切るための
心ない、はんこだけの公共工事

数千年の祈りの
いつきの場も汚されていく

出雲大社の前の
神様が国譲りをしたという
観光客もたくさん来来て、観光局のパンフレットにも載る稲佐の浜は
行政もゴミを広い
テトラも左右に遠慮目に

しかしここ
日御碕神社は無法地帯
誰がこんな無意味な工事とテトラを
おいたのやら
ゴミまみれやら

島根県の海岸は全部
このように、ペットボトル、缶、漁網、漁のブイ、発泡スチロール
釣り針や浮きやら糸やらでできています

誰も拾いません
行政が処分にお金がかかるから
嫌がるとも

拾っても拾っても
毎日汚れるから
萎えるという漁師も

昔ここは皆字浜という夕陽神事(天照)を祈る
重要な場でした

出雲大社

出雲大社へ
皆さんのよく知る出雲大社は向かって左
大きなしめ縄の千家さんの出雲大社教は
神社庁が神職の人事に関わる

右は北島さんの出雲教は神社庁には属さない

元々は同じ家系で順番で祭事を行っていたが
明治に分かれた

政治家にもなった
千家尊福さんの政治力も含め、立派な社だ

北島さんは重要な祭事を今も行い
天皇家からもお嫁さんが嫁がれた
いわば、皇室と由緒深い

観光局など
どうも千家さんの出雲大社を宣伝する風潮がある
と地元の方より

子供の頃、水中の岩から岩へ動き
2本の網で魚を生け捕ることに夢中だった

食べたり、飼うために酸素の電池で動くポンプを入れる
ビニール袋のついた持ち手のあるビニール
に海水を帰り際に入れ替え
渡船で無人島から戻り
20分くらい歩いて
電車とバスで下関の壇ノ浦の田舎へ帰った

そもそもが作りが華奢で傾いたり紐が切れたり

疲れて居眠りをし電車で
こぼしたり

途中で魚が死んだり

海とは不思議と
何十年もその付き合い方は変わっても
ご縁がある

あの浮遊感と
心地よさと
怖さ

一歩間違えたら
流されたり、溺れたり
死ぬことを子供の頃から気にしていた

やがて
あえて死ぬギリギリに
本物があると感じ

海を征服する
酸素ボンベを捨てて
機材を脱いで

裸で海へ行くわけだが

そうすると
今まで知らなかったこと
水の感覚や水中での動き方など

肌で感じる水や
流れに乗り
流れを避け

瞬時にまたは間を受けて
変幻自在に動く必要が
生きるために必要になり

同時に並行して
海の儚さと本物の怖さを知っていった

全てを捨てていく

思いや
人間様の勝手な押し付けや
まがまがしい計算や考えを持ち込んではいけない

自然とゴミを拾い、胸を合わせていく

海ってそんなところだ

ネット社会や電子レンジのチンのおかしな
人間界、記憶がなくなる腐った政治家

海へこい

古武道と同じ
いや
古武道が理にかなった
自然な無理のない体の動き

そして肘が伸びきって
内側から
波を受けると折れます
関節技に

ですから海の中でも
必ず窮屈でない体の体制で
肘も軽く曲げ

もし大波が来て
巻かれたり
潜り抜けるなら

波の角度に合わせ
垂直に腕を指先から伸ばし
順番に関節を滑らかに動かす
と水が味方をしてくれ
水の力が(水素結合を利用)スッと逃し
前に進めてくれます

回転も肘から指先から頭と首を向け
また指先から顎を引いて頭から抜けます

内側に肘を曲げる
外は折れるか靭帯を損傷します

武道のマロバシの術と同じ

内側への
円運動です

古から歩かれてきた道

海は生きている
一つは水素が生きている
その集まりの川や海や湖さえも

岩や山や巨木や瀧に
なんらかの命と神様がいると
感じていた先人達

修験道で修行する方々
または1人で山をあるき祈る人々
山寺で修行祈祷される僧侶達
日本は凄いです。

頼まれるわけでもなく
日本中で朝夕とわず、心を尽くす祈りを
行き渡らせている

感情移入しやすい構造物で
依代を表した神社

またはその場に
神様が出現されたり
降りたり
したのかも知れない

過去の有名な書物や
数字や頭では永久に届かない

日本の美しく今も変わらない何か

海は神社のような場所
姿形はなくとも

常世の世界や
黄泉の国
龍宮の入り口がある

独り海で
心身を海へ溶け合わせていくと
ある日、夢を鮮明に観たり
感覚が研ぎすんでいく気がします

古武道の動きと精神性と
同じだとも思います

それが海の道

自然美

展示が続き
伊勢神宮から熱田神宮に流れ

海もなかなかタイミングが
来ません

撮れるときは撮れる
という訳で

色々固めてから海へ行きます

絵には描けない美しさ

とはよく言ったもので

人間の作為も思念もない
自然の美は飽きることがありません

オーム岩

小泉さんを経済的にも支えた
やまじさんと来ていたという

古代人の祈りば
オーム岩へ

車でも大変や山の中に
突如現れた岩壁

ここで古代の人は
様々な時間を観ていたのだろう

海の底にあった岩が隆起して
海中から空間へ

伊雑宮

もと伊勢
伊雑宮

ここが本当の伊勢神宮とも言われる
謎めいた場所

剣の達人で霊力をもつ
小泉大志命さんが澄子さんと
すみくらし

地元の有志の
神武参剣道場を開く

日々、裕仁天皇のため、呪詛を祓うために

この地に呼ばれ、鹿島神宮で篭り行をし
武神タケミカヅチの力と溶け合い

刀を1日3万3千回
振り続けた聖地

最後の元勲で政界のドン
西園寺公望の依頼だという

しかし西園寺の秘書
原田熊雄はフリーメーソンで
山縣有朋が昭和天皇に、御用邸にお出ましの際に
婦女子を近づけ、原田も良子女王殿下に
不純な行為を及ばせようとしたため

国粋主義運動家の
渥美勝さんと仲間が
影ながら皇室を護っていたという

敵の対日謀略には警察も軍も
当てにならず

自分たちでお守りするほかないというのが
蝦夷の流れの本流である

(渡辺悌治 ユダヤは日本に何をしたか)より

何が本当かわかりませんが

熱田神宮の剣が最終的にはここに
戻るとも噂される

旅へ

海の撮影になかなかいけずに

バレエの撮影や個展
伊勢神宮〜出雲大社など
権禰宜さんはじめ、皆様のご縁を結ぶ旅を
落ち着かせてから

海へ

海は逃げません
バタバタしないように

24歳の時カメラを首から下げて
オーストラリアへあてもなく行ってから
独り旅が始まりました

南の島々の旅もこの数年いけず
7 年前からふとはじまった
日本の聖地の波の撮影の旅へ

来月機材を積んで
撮れるかどうかは別として
新たな海を探しに行きます

チャコット撮影

Chacott

チャコット代官山での
フォトシューティング2日間は終了し
来週また撮影いたします

最終日25日の金曜日
毎回満員御礼なのですが

不思議と終日3枠がまだ
ご予約が空いています。

チャコット代官山ホームページより
ご予約が可能です。
ぜひ!

日本の海は美しい
昔海でしったかやサザエをしこたま取り食べた
たまに赤くよで上がったヤドカリがいて
子供ながらごめん!と謝り
ようじを、蓋のしたに差し込んで
くるりとかいを回して
パクリ

どこの海でも
いいってものじゃない

こればかりは
難しい

初めて入って
すぐに写るとは限らない

何が写るかわからない

写真を撮る人は見えるものに
予め
目星をつけ

旅の時間や予算や
構図までも決めていく

馬鹿な話ですが

今やネットで
誰かが写した景色を
見てから、写しにいき
さらにファインダーを見て押す

時間が経ち過ぎです

コピーです

頭にイメージがあり
初めていくのに
初めての景色ではない矛盾

そんな人口写真には
絶対に足りないものが
自然に出ます

海は自由です
旅は独りです

独り波の隙間で常に挑戦と冒険

流されても泳ぐ
波に巻かれても泳ぐ
苦しくても泳ぐしかないのです

ゴニョゴニョしても
浮き輪も、誰も助けてくれません

生きたいのか?
死にたいのか?

ある日、フィジー の離小島の
また300m沖で雨の大波に飲み込まれ続け
気付きました。

気持ちは自分と一つ
やるしかないです

単純明快!
幸せの必殺技
は海へじゃぼん!

嘘ついたら死にます

冷たい海水は
光がいつもと違う気がする

いつもと違う
とはそもそも
同じ景色や形が無いのが宇宙と海
なのだけど

どうしたって凍りつく

気合!とはよく言ったものです

嘘のない世界

もう一つの夫婦岩

もう一つの夫婦岩
はその先に干潮時だけ現れる

地元で海水を汲み
薪で塩を作る旅館岩戸館の方にお連れいただいた

不思議なことに
たまたまの大潮

海の中から現れた
ほこらの中で祝詞を捧げた

神聖な場を
感じれた昔の人々の優しさと
直感力が数千年、人から人へ護られていることが
日本であろう

泳げる場所を探しに海岸線を歩く

夫婦岩

祈りという言葉
は大事かもしれないが

いにしえ
から
誰もが願い思う事は同じ

神様とて
遠い遠いご先祖だと
思われたらよかろうて

二見ヶ浦

二見ヶ浦の夫婦石
沖には猿田彦が現れた岩盤の島があったが
安静に地震で沈下して
海没してしまった

人を寄せ付けない
宇宙と海は常世の国

昨日
伊勢神宮の禰宜さんと久しぶりお会いできた
ふと
杏橋さん

海も同じです
鳳凰や龍や御眷属はいらっしゃいますね

なんだ
やはり知っていたか

満月の前
伊勢二見ヶ浦の月

江戸時代はここでみそぎをしてから
伊勢神宮へ詣でた聖地

古来の人々の信仰心と呼ばずとも
宇宙の摂理に胸を傾けた
おぼろ月が
言葉のいらない時間をあの当時と変わらず
照らしている

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