伊賀
三重県は伊賀
三重県は伊賀
琉球王朝は、薩摩とメインランド日本にいわば植民地化され
沖縄と名前までつけられた。
宮島へ渡った
修行と修練を感じ感動した。
不思議な事がまた起こる
今日
久しぶりに目黒不動尊と忍の祖の役行者と、滝の行場で
真言を唱えた。
すると今、伊賀赤目のお寺から赤目不動尊の御影が届いた。
聞けば古い版木は文化財に指定されている為
昔に刷り師の方が摺った15枚存在する1枚との事
同じ日、300年前にこの寺に来たご先祖の御朱印をたよりに
その足跡をたどる岡山の方にも1枚贈られたとの事
住職曰く、ご縁の深さと、遥か遠くでこの伊賀赤目不動をお祈りいてくだされば、それが最良の場所だと感じたから と
お堂でもないスタジオに大変なものが届いた
出会いがそもそも縁なのだが
その昔から人生にあたかも配置されていたような現実。
数ヶ月前にふと立ち寄ったあの時間から始まったと思っていたが
実は今の住職のお父さんは、伊賀から
ここ目黒不動尊で約60年前に滝行をしていたとの話し。
これからも素人ながらセージを焚き
海で龍と不動尊と行者の真言をとなえ
独り神仏習合の祈りのまねごとを
世界の海に手向けさて頂こう
山伏ならぬ海伏として生きなくてはいけない。
波の中で生きたいと願う時間と
一枚の写真が教えてくれた大切な数々
天然の地球への感謝と祈りの為に人は存在する
美しい時に埋没し,心が揺さぶられる時を
いかに過ごしたかで
人は自然にALO HAとなる
祓えたまえ清めたまへ となる
(一人りの大先生の教科書を崇める一神教や、現存する大先生に寄付する新興宗教は論外として)
とにかく感じたらそのまま進む!
波から教わった時間である
伊賀赤目不動,毘沙門,千手観音を祀る
個々の動物や魚にあるような、この地球の強さと感応する何か
が人間にもあったはずで、今も奥深くに眠っていることを忘れてはならない
先日あるラジオ番組で「海って何ですか?」と問われたが
どうもそのときは言葉が見つからなかった
おそらくマイクを前に言葉を探し、きれいな言葉を見ようとしてしまったからだと気づき反省!
で改めて
海は恐ろしく美しい
ま〜恐ろしいにつきる。
帰ること,帰れることの確率がないなら行く場ではない
己の力量の正直さが命を守る
どうかなっては既に遅すぎるから、慎重に大胆に感じ
嫌な予感がしたら、とにかく引き返す
闇が迫り、体がどんどん冷やされ、心が流されていく前に
足がつく海岸に戻らなくてはいけない
山は休憩も、腰も下ろし,地図をひろげ、水も飲めるが
海は容赦ない
休憩も座ることも出来ない訳だから
そもそも人間のいる場ではない
NHKや科学は母なる海などと教えるが
とんでもない
鬼子母神である
一瞬で雨が降り,稲妻が光り、波が迫る
海も地球は全て一瞬で周波数が変わる
一瞬の判断と心の乱れでもってかれる
断固として苦しさや、恐怖から逃げてはいけない
実は逃げているのは自分の心だから
呼吸を整えお地着かせるしかない
地に足が着かない場でこそその本領が試される
こつは自己暗示をかけ,勇気をたたえ、あきらめない!
あとはどうなるものか、すっきり生きる事。
海で裸で泳いで知った事とは
やはり図工と水泳以外は学校の勉強はなに1つ役にたたない
なと思いました。笑
化け学と呼ぶ科学や学校の数学やI am tom が海外でどんなに役にたったか
日本の文部科学省と学校教育の窮屈さが、自由な子供の自信を潰してはいないか?
テストはすべて記憶力大会だから気にすることは無い
集客力とプロパガンダにたけた学校にはいるためのテストなのだからと先生は言っておくれ。
地球に教えがある訳だから,オーストラリアのようにサーフィンの授業や地球のことを教えなくてなんになるのか。
果てしない金持ちだけが行く宇宙の前に自分の庭だろと誰もがわかる。
海で溺れ、川に流された時、テストの記憶力や因数分解が何になる?
学校が嫌いでした?
滑舌よく はい!
束縛感と理不尽な強制が嫌でした。
例えばスポーツ?スポーツ?
そうルールに囲まれ初めて成立しますね。
例えば試合という「試し合い」はルールがあり、まった!も休憩もある順番を決める競争です。
例えば海や山は「果たし合い」であり刀の切り合い同様、一瞬で不具になるか死。
有名な宮本武蔵は強い相手とやらないから剣豪であったと書いた本、山の民俗誌 高須茂さんの言葉を憶いだす。
集中力と見えない何かをつかんだ者が記す領域がある
それが地球と人の純粋な掛け合いと修行であり、これこそ自然に修験道や忍道や密教やアイヌ、ハワイのカフー、ネイティブアメリカンやイヌイット,アボリジニの思想になっていくのだと信ずる。
コンクリートと檻の中の政治利用も出来るパンダ
マークを独占し募金だって集めるWWFという環境保護団体
狭いアクリルの箱の中のシャチや深海魚
本来いるべき場所じゃない場所にいるだけのまるで置物だ。
これまた荒っぽい名前の(動く物の園)に(水の族の館)
地球のボスは人間様!だというコレクションを見ている。
こんな漢字は亀甲文字にも彫っちゃいない。
人も所詮「物」なのだが
これは魂の入れ物である
日本の学校も天然自然に生きた魚や木々に触れさせる時間がいかに大切かを、授業にとりいれて欲しいものだ。
学者先生もわかっているほんの数千年の歴史を見ても、おのずと地球を謳歌し、美を感じ、尊ぶ時間があり今がある。
純粋に水が流れるような祈りの行為の中に
人間は生かされていることを知っていた時間があり
今のこの僅か100年があると知る。
今、人はまるで電気じかけの水槽にいる。
電気で動く酸素のブクブクを買いに自らを飼う為働くのか?
地球の強さと怖さを忘れようと,海や川や山を埋めてきたおかげで、こうしてパソコンで「アホー」なこと書いている「おかしなゆとり」が生まれる。
町の人々は生きてるようで,この地球に生きてないとも言える、地球の中の水槽にいるのは実は魚ではなく、我々の姿見
だ。
自然やアウトドアと呼ぶおかしな日本語の欺瞞を正当化した暮らしの中で、地球が始まって以来、一番のジャンクなゴミは人物だろうなと思った次第。
いい人仏になれるよう今生を頑張れねば
来世なんてどうでもいい
今なのだから
だか
激流の流れリバーマウス
火山の黒岩と黒砂の混じる濁った海
濁って何も見えない海は気持ち悪い
こういう濁った河口にサメが集まる可能性が高いのも海のお決まりだから、すこし心配だったが、今のところは大丈夫なようだ。
「いるいる、きたきた!」褐色の肌と褐色の木の板と褐色の海に
パランと言う木で作ってもらったという
フィンもリーシュもない本当にただの木の板を持つ子供達が
村の子供達は長い波をのっては、歩いて沖の波へ
カニの甲羅のような公園と呼ぶ人工的な養殖場のような場で遊ぶ町の子供達とは
で、今回の旅はどういう仕組みかを発案したニューギニア人とイギリス人のクウォーター
1 村にはきれいなサーフィンの板や服をプレゼント。
2 宿の宿泊代から一人あたり一日につきたしか12ドルほどが、サーフポイントの村だけに1 後にお金として渡される仕組み。サーファーが来ても来なくても公平に分配されるから
3 観光局を通じ年間約300人で1週間で12人程度のローテーションで現在は4カ所のポイ ントで乗れるらしい。
4 勝手に独りで来て乗れるのか?
答えは可能。
しかしポートモレスビーをはじめ、治安もまだ不透明な部分もあるか らニューギニア政府 観光局とSTWさんのツアーが結局は安全。
使用方法の知らないネイティブな彼らに
戦争やキリスト教のような余計な教えとゴミを置き去りにしないようにしなくては意味が無いと思うのは俺だけか?
一神教のうまい言い分で
アニミズムや自然崇拝をはじめ地球感が失われてきた島々
島国日本とて同じ状況がすでに起きている事実も忘れてはならない。
アメリカもイギリスも,ソ連もドイツも島なのだが
何が素晴らしいのか?
何が大事なのか?
皆その何?を感じたくて,旅へでるのだろうけど
じゃここに今日からずっとここにいて
彼らの食生活とヤシの家で暮らせるのか?
掘り下げれば、僕たちは飛行機でのりつける都合のいい観光客な訳だから
こうしていい部分だけを,形よくのせている自分がださいかもな。
と考える。
真実の地球を目の当たりに
戸惑いながらも、こうして記憶の引き出しを開いてくれたこの地
実は海風の吹きすさぶこの海に生きる彼ら
の自給自足の暮らしは厳しくも過酷な訳だ
安全な奇麗な箱の中に住む我々は
トイレットペーパーに香りをつけたり余計なことをやる 笑
身勝手きわまりない我々は
このままでいてほしいと思うのは純粋な部分でありながらも
都合のいいことを忘れてはいけない
原発も電子レンジも防波堤も、文明が過剰な便利に進んだ我々の過ちのシンボルであり、日本の姿である
数億年かけ自然に出来たものを壊すのは簡単だが
2度と人にはもとに戻せないのだが
ま〜魚や珊瑚や鳥,動物,風や石など人間以外の万物を
なめた結果だ
馬鹿にすんじゃね〜ぞ!っていつかひっぱたかれないと駄目ですね?
で僕も
こうして電気仕掛けのジャンクなおもちゃで,記事を書いている
まずい!
でむすびは?
カメラのレンズは単玉で
撮りたいと感じた心の先に自分の足で
近づくき、泳いでいく
望遠レンズや、ズームレンズははパパラッチだと思う
そして最近のカメラはしょせん電気製品です
何年後、何十年後まで1枚は語り続けます
映像慣れしている現代人
流れない流されない1枚をよく観ること
子供達も海も山も嘘はつきません
そのジャンクな文明の、ずるさと嘘を落としに僕は旅をする訳だ
延々と道がうねる
海は沖縄地方のニライカナイに続くと信じられる
うたきと呼ぶ特別な場所があるように、人々は視覚を
超えた部分と部分で特別な場所に心に象形文字を刻んだ訳だ
先日ラジオのDjの方に海とはなんですかと?と問われたが
言葉がまったく降りてこなかった。
帰りの電車から風呂の中から寝るまで、ぶつぶつ自問自答した
水面は恐ろしさと美しさの狭間だ
足がつかない外洋の沖
水に足をつけた時から、戻れる確率と戻る意識を常に持ち
危ない感じが少しでも知らせたらすぐに戻る勇気。
ここはまったく別な世界であり、死の入り口だ。
山と違い、ちよっと休憩も水も無い生きられない場だ。
雪崩のような波の下、太陽がなくなる暗黒の水の中でも
慌てず、落ち着くには何が必要なのか?
あの波の動きの中に溶け合うにはどうすればいいのか?と
南の島の海から戻ると、海の吹き付ける薄暗い小屋で
そんな言葉を考えては書いていた
波が崩れ水中で転がり,息ができなくなり、ここが改めて別な世界だと知り
宇宙と地球の全ての時間を見てきた水
あるときは水蒸気となり風となり旅をする
雨となり山から海へもどるもの
雪になり山にしみ込んでいくもの
川になるもの,瀧になるもの
地球自体が水球といってもおかしくない。
ここがただの水たまりだと思ってはいけない
あきらかに有機的で生きている。
そこで全てとのつながりを理解し
礼をつくす人を海は知っている。
Ocean need Mountain