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七面山

今年も9/17からしばらく山の宿坊で滞在しようと思う

大昔の事らしい

今から1200年くらい前
麓の瀧から今でこそ険峻な登山道で4時間〜5時間

道すらない当時
抜け道として,獣道として
ある人々が通った尾根のとある場所

そのうちの誰かが
この山の頂きに
この景色と領域に何かを感じ
大きな池に龍神を見

祈り始め
受け継がれてきたのが始まり

目には見えない地球との約束の場であり
人が人として生かされていると知る領域

やがてここにお堂が作られ
神仏が安置された訳だが

理由がなければ

風もおきず
波も立たず

無の静寂だけがつまった空間である

その
理「ことわり」
のもとで
その「ことわり」に気づく事

見ていたが観えなかった時間や自分

誰にでも
静かな風は遠くからやってくものだ

Fire King Cafe

不可思議なご縁で始まったファイヤーキングカフェの個展も
振り返ると
今年で11年目

残暑にまみれて秋の兆しを感じ

あ〜今年も良い作品がたまたま撮れて
良かったな〜
皆さんに地球のありのままを観て頂いて
嬉しかったな〜と
憶いに浸り

俗に言う
「感慨深い」ものです

早いもので
波に向かう修行は15年

恐ろしくも美しい世界中の波の中を泳ぎ
我を捨て、命を思い
勇気と根性で切り抜けた「あかし」

何度もあの世にいきかけ
最後の一押しの冷静さと
おそらくは例の「逃げ技」で
海岸に戻り
さっきまでの別次元の
恐ろしい海を眺める日々

毒のウニを30針踏み抜き
サメに睨まれ
暗黒の波にボコボコに巻かれ

あ〜
生きててよかった!

生き甲斐を感じ

今を悔いなく
生きてる自分に満足する

同じ時間
この事を知らずに
もし、この場にいなかった自分が怖い

ありのままの手加減ない地球で
金、物,者ではない
孤高の時間が心を開く瞬間に
自力で立ち会い
呼吸する

息を止め,息を吸い
生まれ変わるように
見てはいけない美しい時間に漂ってきた

ちっぽけな頭では予想もつかなかった
波の裏の世界

きっと今もあの島もあっちの島も
波が崩れ、鳥が海原を飛び交い、潮の飛沫が島を包む命の連接が懐かしい

ま〜
そんなとこです

胸のおもむくままに生きること

まるで養殖場のような学校の人工の箱ではなく
行けば全てがわかります

頭で考えすぎると
きまって厄介な事になると

イヌイットの話を憶いだす

水が流れるように
ある日を境に自分の海岸へ
行き着くものです
その境は自分で気づく事
怖さを知る事
身の丈を包み隠さず見せる事

バーン!と行けよ

と言う訳です

大東亜戦争の穴

パラオはスペイン、ドイツの長い植民地後ドイツが第1次大戦に負け
日本が統治委託という名前で第2次大戦で負けが決まる迄
日本でありパラオであった

伝統的なパラオの
自然宗教は尊重しつつも
日本式の教育や天皇,神社、仏教、慣習、食べ物、言語にいたるまで
輸入し教えた訳で
植民地であるが
日本人とは良い関係の時間だった名残りが今もある

ハワイやサイパンも同様
観光で来た日本人がこうしたお墓に立ち寄る事は
まづない

しかし戦火と時代と国令に翻弄され
1銭5厘で呼びつけられた普通の人々が
ある日を境に軍人に軍属になり
縁もゆかりも無い遠い異国で
無理に命を潰した事実に
心を手向けて欲しい

理(ことわり)であり
由(よし)である

食べ物も無く
武器も無く
家族と別れ
故国を偲んで

大本営の命に
菊の御紋に
陸軍特有の命に
東条英機の戦陣訓に

翻弄された命

ここパラオも2万近い日本人が亡くなっている

忘れたら
あまりのかわいそうだ

パラオへ


今から33年前ある一軒の家族の家に
3日だけ泊めてもらい、島々へ連れて行ってもらった

パラオで最初のガソリンスタンドを経営し、長く政府関係の仕事や警察署長を務め、アコヤガイの養殖や貝の輸出をしていた
Raymond Akiwo 親父
大丈夫?OK~?と
ここは君の家だと思いなさい
冷蔵庫の中も好きに飲めば良いからね と
(たしかマウンテンデュー、スプライトが山のように)

こんな初めてあった外国でこんなに優しくしてくれる人が
いるんだ〜 とショックを受けた

満面の笑顔でいつも気遣い
海へ自らが操縦する船で岩山(ロックアイランド)へ連れて行ってくれた

そんな親父が他界してはや13年
あれ?
息子のパトリックが深夜の
空港に来てくれていた

再会である

やりすぎ


神様とは誰なのか?
いや一人ではないはずだ
日本書紀や古事記に書かれている証拠により
様々な色んな神様がいるらしい

書物を書いたのが人間ならばそれはフィクションの物語なのか?
それても見てきた事を紙にドキュメンタリーとして忍術書のように記したのか?
本当ならホピ族のように初期のご先祖や神様達が書いた石盤や
写真が1枚でもあればいいが

寺には仏は座って「いる」が
神社にはよりしろが代わりとなり(通信場)いつでもスタンバイしているが
じっさいには神様はその付近にはいるがその場には「いない」

よくわからないが
その昔はい石や木々や海を崇めてきた人々が
時間と共に成長し知的になり神社という
祈りやすい建築物ができたのだろう

明治政府により天皇のご真影と教育勅語に頭を垂れさせる、国家神道にズレて行き
東郷神社、乃木神社のように陸海軍の息のかかった,護国神社が神と入れ替わるが

いまだ僕たちはあまり理解してないまま、普通に神社へ行く
だからうまい具合に緩やかに神社は争いもせず
増えてきたのだが

例の檀家がいないから,参拝者が多くお守りが売れたり,寄付が少ない神社は建物をはじめ
その維持が厳しいのが事実である
田舎になると兼務している神社が多いため
荒れ放題の神社もある

鎌倉から江戸時代に宗派せいにさせられた我々

死ねばどうせ同じところへいく
どんなに高級な国産の石の墓は生きてる者の見栄だ
と言ったら夢が無いが
法然も,空海さんもその手法の差の違いはあるが
同じ峯に向かうルートの差である

荒行の坊様が
瀧もシャワーも一緒です
と笑っていたのには妙な説得力がある

東京をはじめ大都会の坊様はいい
地価が高いから、墓地の土地代がもらえる
坪単価は日本一の銀座の鳩居堂より高い!

いつのまにか長男しかはいれない独自のルール
で檀家が「ねずみ算」のように計画的に売れる技

あの言いづらいお布施や
言い値の戒名や
新しい釣り鐘が欲しいな〜とうつむき

贔屓の石屋や葬儀屋から
ありがとう!代がまわってくるから
牛や馬の車に乗れるチャンスがくる

インドから仏教が輸入され様々な僧侶により
独自の解釈と教えが作られていきながら
今でも様々な新興宗教がその教えの独自のルールと
集金方法を塗り重ねている

日蓮とて当時は幕府から
民衆をたぶらかす悪い宗教者として死罪になりかけた訳で

何かの1つの仏や誰かの(1人の生きた存在)に頼らせるのには
いずれその齟齬とズレが大きくなる

なぜって
人が考えて作った物だから

地球にはかなわない
地球に備わり
則して生きて行くしかない人間
あらがう事も無理で意味が無い
そこに色んな神様がいるらしいなと感じ
おのずと自然に正しく生きて行き
自然に祈るのが本来の人間なのだが

どうも金儲けに夢中になりすぎた
あらゆるものをぶっ壊し
もはや車でない、営利目的な自動運転の車
ジャンクな洗剤や、イサギ悪い電子レンジを売りつけれる

なにはともあれ
つべこべ言わず
その美しくも怖い世界に身を置く事で知る

人間が現代の技術で八ッ場ダムや海岸線を存分に破壊は出来ても
元の同じ姿は作れない事実

俺たちやりすぎだな・・・・

いつか天罰がくる

消えて行く時間

何かがある
と感じた訳で

理が生じ
由があとからついてくる

カメラも文字のなかった時間
その何か伝えたく
その場にとどめておきたかったから文字が生まれたように

その場に
少しでいいから
他の人々がわかりやすい
よりしろ があればいいのだと
鳥居や社が生まれた

那智大社と青岸渡寺
神仏習合の正しい日本の昔のままを
この地で伝えている
建物は大事だ
建物はコンクリートビルより昔ままがいい
という都会から来た都合のいい我々
実際に維持をするのは大変な事です

やはり時間が染み込んだ,風景に佇む建物は美しい

そんな風情と絶景と下界を見晴らす山に
2000年に渡り,数十億人の日本人に祈られ
受けつがれてきた何か

色々な地球へいってみたが
どうしても日本のような
つつしみ深く
清廉な祈りの何かが
留まる場は

この地球上に滅多に無いと知る

自然という言葉を強制される以前から
あった山々と海と瀧と川
その美しくも怖い地球の中で
感得し感じた人々の5感以上の直感で
こうした聖域が自然発生してきた日本

地球と共に?地球のわずか後に?
神様が来て?物語が作られて?
仏さん達が輸入されてきたのだろが

実は
人間がイメージした人間の形をしていない
ネイチャーの何かに絶妙でかすかすかなエナジーや
気配や波動を感じた訳でしょう

社は気持ちが持続しやすい
イメージの物体で
そのおかげで普通の僕たちも
忘れずにお参りしやすい訳です


玄人の人々が
この山や瀧にこもり修行し
極楽浄土を目指し小舟で海へ流れ
たおかげです

日本はそうした
いわゆる修行者が過去数千年に渡り
他国にくらべ抜群に多く存在し

その地球を観察し一体化する中で
抜群な感性と観える力や描くことを
錬磨し
渡来系の情報や技や密教とも
絶妙に溶け合いながら
来た今はある意味祈りの絶頂期でなくては
ならないが

電気仕掛けのジャンクな物に操られ
町の暮らしで失ってきた時間や心

怖く美しい地球を忘れた我々は
そうした畏怖や力を毎秒失っている

数千年の祈りの技のともしびを
この僅か100年で消そうとしている日本人

日本を破壊しているシロアリは日本人そのものかもしれない

それでもこうした山にも
特殊な力を持続し
特別な祈りを森羅万象へ捧げる
人々がいる事実を
忘れてはならない

那智の滝とクライマー佐藤裕介。

遥か昔
今から2000年前から
この瀧を目の当たりにした
ある人が
ある人々が

抱いた畏敬の念

そんな純粋な祈られてきた
わずか130年前のある日
無理矢理力づくでその時間を,日本人の信仰心や憶い出を引き裂き
自然という人造の「線」が
明治政府により引かれた

政治家は
修験道廃止、様々な古武道、呪術や骨接ぎの禁止、廃仏毀釈など
近代化という名の元
西洋の工作員のいいなりのプードルである姿は変わらない

2012年7/15事件が起こる
そんな日本人の祈りに護られたご神体の瀧に
金具を打ち込み登りそこなった馬鹿3人
ゴールドウィンのスポンサーも受けていたプロクライマー佐藤裕介と大西良治と宮城公博が
逮捕される

日本の数々の山で、同じような愚行と奇行を繰り返してきた佐藤祐介
今でものうのうと山岳ガイドをし、WEBまである図々しさに
知性のかけらもない

那智大社の朝日宮司のお怒りも
地元の方をはじめ,世界中の怒りを
未だわからない佐藤

このご神体に傷を付けながら登るなんて
恐ろしい無知な3人

あまたの修行僧や修験者が民衆が徒歩でここに佇み
命を掛けこの山にこもり
瀧に打たれた信仰の染み込んだ領域
世界遺産というブランドとは別な次元の尊い場

京都御所の侍、文覚がおなじ京都御所の侍の妻と恋に落ち
ある夜「かけさごぜん」がワザとその寝間に寝た為、誤って殺めてしまった。

その日から彼は人生が変わり修行に出る
真冬の那智の瀧に打たれ2度死んだが

不動明王の使い、矜羯羅童子、(こんがらどうじ)制?迦童子(せいたかどうじ)
に助けられたという逸話が
国芳から弟子の芳年に受け継がれ
明治20年(1885)の浮世絵にもなっている

筋彫りまであり、おそらくみじんのズレも許されなおそらく7〜8枚の櫻の版木が
1885年神田鍛冶屋町の名人 刷師 長谷川常次郎のもとで刷られた

その数年前の明治17年には、木曽御岳山の池に住む龍王の託宣により25歳で
出家し、木の葉の衣装をまとい大峰山で16年もの修行生活をした、荒行の行者 林実利(はやしじつかが)
がの瀧に身を投じ捨身入定(しゃしんにゅうじょう)した。

ユダヤと明治政府のそうした、見えない力や先人の祈りを排他し
宗教の合理化の愚行に反発した身を以て伝えた結果なのかもしれない

今の日本は
地球の恐れを
地球の畏れを
忘れている

ひねれば水が出
スイッチパチリで電気がつき
いかす植木を部屋に置き
奇麗な公園を見せる犬と散歩し
正月や都合のいい時だけ自分勝手な願い事

佐藤祐介もしかり
日本は今乱れている
から

こうした天然の古来の人々が崇め
護った聖地に囲まれた日本を
もう一度よく観るべきだなと
改めてこの飛瀑の前で感じた

文覚さんを始め
この地に住む天狗 那智滝本前鬼坊さん
龍神様へ
言葉と祝詞を捧げた

神倉神社

清水の湧き出る
急激な岩の階段に佇む磐座の神社
古代の人々がここを
祀った事実を
純粋に感じる事が出来る磐座である

神が降臨し
ある種の太古の地球と宇宙を知る
この石が発する力に
圧倒された

速玉大社


しいの巨木と掃き清められた那智白の
静かな地元の根付いて来た風合いが
色濃く残る聖域である

キリストによる浸食

千葉に広告の撮影へ
朝と夕暮れの数日間

存分に海の力できれいになった
瀧行と通づる
感覚であるが
サーファーがもし
幾ばくかの
祈りの言葉を心にのせたなら
海との深遠な繋がりを
海もサーファーも感応し合え

その場や水さえも浄化され
聖域とよべる鳥居のない神社のような場に
生まれ変わるとおもう

夢中で
無心で
波に乗る
この行為こそが
地球との美しくも恐ろしい連接を
知る

オリンピックでサーフィンが選ばれた
ようだが

サーフィンは英語であり
新島の波乗りがその昔木の板で遊んだ
ヘイナル なる語源からも

サーフィンは競技でも競い合う事でもない事は明らかだが
例の厄介な金に汚染され
サーファーはサーフブランドの衣装で海岸に現れ
サーフィン大会なる奇妙なルールあるスポ?ツに溺れる

こうして海への祈りを失って行く姿は
キリスト教を押し付けられた南太平洋の島々の現状に似ている

例えば
本来は自然の神への祈りごととチャントと呼ぶマントラを
人知れず唱えた行為ハワイの祈りの舞

日本人によりブームとなり
アメリカの51州目の国に占領され
どうしてあそこがアメリカ?なのか
と歪み続けながら
アロハシャツなる妙を生み
フラダンスなる言葉にかわり
カリフォルニアの砂を輸入し作った
人工海岸ワイキキでパンケーキを食う時代

ワイキキを筆頭に
古来の祈りの聖地の多くの海岸や環境が破壊されている

もともとはネイティブでアニミズム的な純粋なハワイの祈りの舞
フラは実は歴史が浅く250年前後前,例のマゼランやザビエルのバテレンと並び
地球の伝統的な祈りや国を破壊し旅したユダヤの工作員クック
がカラカウア大王からどうにかして騙して譲り受けた
チャントの経本がニュージーランドで近年見つかったらしい
つまり文献としては江戸時代程度

その歴史は忍の技のように
奥義であり秘伝であり
口伝であるから
一子相伝的な伝説により
その時間つまびらかではない

本来は森羅万象への感謝の行為が
キリスト洗脳工作員により一時は禁止され抑圧され

日本では月謝制の教室となり
フラダンスと名を変え
アメリカ人が考案した派手な花柄の衣装をまとい
おどるのだが

ラトビアの寿司屋で
白人がはちまきをし
寿し風の妙な寿しを
まるで日本のままの雰囲気で
騙して食わせるのと
同じ香がする

ハワイの舞もこの100年で
フラダンスになり
古典的な色を残した舞カヒコが純粋な流れなのだが
これは個人的な相当な修行のような訓練がいる為「教室」に成り立ちにくいから

集団で踊る手軽で
お気軽なサークル的な芸となり
本来のハワイの文化を破壊している事実

良いとか悪いのではないが
長い時間のなかで生まれた
純粋な行為と地球への所作の作法が
年々失われ
地球をないがしろにする人々が自然に増えている

日本とて
伊勢神宮の手水を口につけて飲んだり
帽子やサングラスのまま
願い事をしてみる人々をみると

どうなっちまったんだ?
数千年間に渡り
先人達より手渡しで
精魂こめて受け継がれてきたこうした
行為が
明治政府の工作のわずが130年で破壊され
国そのものまでも解体されつつある

天皇陛下の意味
君が代の意味
八咫烏の神話など

毎秒毎分
日本も浸食されている事を
忘れてはならない

真珠利権とユダヤ汚染


伊勢から結局鳥羽に泊まる事にした

パラオににた、岩山とラグーンの海
いくつもの川から集まる栄養が
アコヤガイに核を埋め込む真珠や、牡蠣の養殖に成果が上がる

真珠はその昔、例の世界の人種差別や奴隷制度やキリストを置き土産にした
コロンブスがみつけ
当時はダイヤより高価な為、競って潜りあさった
バハマの漁民はコロンブスとスペインの過酷な労働(潜水病など)で
種族が絶えたという
ペルシャではその後穫れなくなり、石油ビジネスへと転嫁していく
美しいばかりに、利権と金に塗られていった真珠

キリスト教のおかげで,純粋な南太平洋の人々を謀り
おおくの美しい島々の伝承と環境が
破壊されたか、事実を知ってほしい
キリストが一番で自然はどうでもいいという
思想により大事にしなくなった結果が今だ。

キリシタンから日本や天皇を護った事は本当に大事な事だった
日本の磐座や瀧をはじめとするある場所や
神社の思想は「あさはかな人間 ひげじじい]の強制やルールに従わない物への殺戮など
とんでもない新興宗教だ


そんな世界を牛耳るユダヤがしきるダイヤモンドと,全てのスターウォーズグッズ(ジョージルーカスがユダヤな為)

アフリカで奴隷として売られた子供が何か教えられないままに穫らされるカカオ(チョコレート)や金
フィッシュバーガーの白身フライ、タンガニヤ湖のナイルパーチなど

奴隷のような搾取と争いの煙の先に隠しつつ
奇麗なショーケースで法外な値段で売られる事実

子供を塩漬けにした恐ろしいシンタクロス(サンタクロース)とキリストが裏で手を組み
いつの間にか12/24.25をクリスマスと命名したプロパガンダは意味が分からない
馬小屋で生まれ?、はり付けになり?、なんで塩漬けのじじい?でお祭りなのか?
日本はぐちゃぐちゃだ
戦争に負けたある日を境に
数千年もの間、神に捧げ,神様の衣装になり,神の薬草大麻が禁止になった事実
今でも,神社のお札だけは大麻と呼ばれ名残が残っていますが

地球のあらゆる物も空気も水も
もとはタダなのに・・・・・
不思議ですね

話は戻るが
やがて明治に日本のミキモト氏が養殖に成功し
巨万の冨を得るが、白人の利権にまつわる攻撃を受け流し
現在に至る
光と闇に輝く真珠の魔力

養殖は、マグロやハマチやカンパチ,高級魚ハタや
海に病原菌や藻を殺すためホルマリンを撒くトラフグなど
社会問題化されてきた。
卵から基準サイズ〜売値迄、ホルモン剤や薬品に管理され
た「にわとり」ブロイラーやネグポンと同じ計算された人工の魚風である

環境のダメージは図りし得ないが
地球の天然資源をイナゴのように食い尽くす我々

美しい海に、繋がれた筏は地球の未来を漂っている

伊勢

昔はこの五十鈴川で禊ぎを(沐浴)して清め
神域に入ったというが
何千年と続いた行為は僅か100年で消えてしまった

それぞれに
それぞれの

何かを見つけにここにいる事だけは
変わらない

内宮


実は9月に写真集Blue Forestがご奉納させて頂く由
あまりの、お伊勢さんの勉強不足に
ご挨拶に詣でました

外宮から内宮まで車で10分だが
昔は歩いて1時間

こちらは参道も食べ歩き自由の
観光地となり

厳島神社と同じく日本中の参道が「神様の道」の
ルールを外れた
おかげで観光業はピカイチ。

純粋なお参りでお賽銭に財布を開くのではなく
観光地として商売のため財布を開かせる
技が冴えている

やはりこれだけの広大な土地と、建造物、庭師,神職の
維持は大変なな事だから

例の赤福ではないが
多少の光と陰がなければ
数千年にわたり
維持出来ないのかもしれない

ここまで人気になると
ディズニーランドじゃないですよ

神様の場でのマナーを伝えないと
いけない次期かもしれません

Gegu Ise jingu


生涯に1度はお伊勢参りを
と願われてきた
ほんの140年前

今では、交通網の過剰なスピードと
自然の破壊で数時間で行かれる事実

同時に過剰な情報網で
観光客は増えたが
本当の意味での参拝者は
昔に比べ減った訳です

それなりの年齢の方が
手水の柄杓で口を付け水を飲み
注意すれば喉が渇いたから
と言い
参拝を前に一組づつ
真ん中に並んでしまう行列

帽子をかぶったまま
お辞儀をしてみて
願い事をする大人

来た気持ちは素晴らしいが
間違えがわからない今

本殿の写真を撮るなと言う
お役目の警備員よりも
参拝者への指導員が必要だ

早く便利に来てしまったおかげで
ゆったりとこの森と祈られてきた不思議に
畏敬というと、難しいが
相手や他人の場に
気にかける
気持ちが薄いのだろう

それでも
数千年同じ地に佇む神様の
不思議な場である事は間違いがない

この日本の秘密が
隠された森に
人々が護り
魅了された謎を
僅かでも感じたい

自然な流れ

日本の波の裏より

透明な水
太陽の位置

この兼ね合いが仲睦まじい場を
探すのが難しい

風、時間、雨など
地球にまつわる宇宙現象が
さらに難易度を増す

長くいれば撮れるものでもない

不可思議な偶然とミスにより
それを起こさせる何よりの原因

大事なのは
今からその点に
行こうと感じたまま
動く事

頭ではなく
胸で・・・

自然に呼ばれ

撮れる時は撮れる
撮れない時は撮れない

何も心配も
問題もヅレもない

事物や今起こる事は中立であり
そこに意味をどう与えるのかは
インドカレーのスパイスの差異であり
たいした事ではない

人間がそこにやっかいで,身勝手な心配や焦りを
勝手に調理しこじれる訳です

つまり例の
意味もない
味もない,匂いもない
という宇宙の法則を上手にまとめた
般若心経に通づる


それとて人間が思いつき
考えだした人工のお経であるから偏ってはいけない

自然より
個人的には天然のほうが原始的な意味あいを含む

天に気道があるようにと
寅さんが言っていたように

人がどうすることもできない
宇宙と地球の海の力
そこに添って生きて行かねば
生きらえない刹那である

無限の自由なドアが待っている

胸のあたりで感じたままに
生きる事が
自然と地球を尊び生きる海の道です

アユン川


1993年ウブドのアユンリバー
毎日何か写せたらいいな〜

宿の近くの川を歩いた
俺は何処へ向かうのか?
写真家ってどうしたらなれるのかな?
なんて考えてた24歳

鳥の声と瀧音さえ閉じ込められたような
美しい小さな渓谷の川

子供の声がするほうに行くと
川エビを釣りに来た兄弟がいた

流れに流されないよう
お兄ちゃんの跡を追う弟

なんだかむかしの田舎の日本なんだろうな〜と
渓流の音の中
岩に座り見ていた

フィルムの旅

1993年のバリ島

渓谷と山に包まれた
まだまだ田舎だったウブド
不思議なここのエナジーに魅了された

今から23年前
彼女はどうしてるのか?

あてもなく海辺のオーストラリアに住み
4ヶ月後9時間だけ立ち寄ったバリに衝撃を受けて以来
数ヶ月おきにしばらく朝はどこも決まってフルーツ入りのパンケーキを出す
ロスメン(民宿)滞在していた

Fire King Cafe


代々木上原ファイヤーキングカフェ
オーナー阿部さんの人生のセンスが濃縮された
空間と味

光と空間の雰囲気に
この暖かな艶やかな時間に
お客さんが訪れる

展示をさせて頂いて11回目の夏
写真は一昨年と,昨年です。

今年は光と陰の集大成
を日本の真冬に撮影しました
7/19~8/21
代々木上原ファイヤーキングカフェ

www.fk-cafe.com


7/19〜始まる、代々木上原ファイャーキングカフェ
での展示にむけ

神楽坂の現像場で作品選考

しかし今は決めれず
昔とあまりに変わった
隈研吾さん設計の赤城神社へ参拝し
月曜日に最終決定に

いつも何が写るか?
毎年のファイャーキングカフェさんに
ふさわしい一枚が集まるのか?

天然の自然をよく見て
泳いでみるしかない
とにかく海へ行くしかない

それを胸がソワソワする
と表す
ちょっとしたミスや無理が
機材の水没や命とさよならに。

昨年展示が終わった秋から今まで
海外に行く気になれず
ひたすら日本を巡った

日本の夕暮れの海
やはり美しき時間
不可思議な場に密かに輝く場を
古来の人々は今の我々よりも
胸で感じる事が出来た
時間がここにもあった。

昔の方達が
その純粋な心で地球を
敬い国の鎮護を祈った
形状が神社であるが

その聖域と祀る家には神様が必要だった
のではなく
神様が先で
もっと言えば
石や滝などの独特な雰囲気の香りを
嗅ぎ分けれたのです

我々はそんな
金では買えない
胸で感じたままの
美しき物語に生かされている事を
よーく知らなければならない
沖縄で無理に命を潰した方々に
阿部さんの紙に考えて誰かが書いた原稿は届きません

今回は僕自身も
近くを
自身を
観るという

内観の結果の現れがこの

「陰陽」

1つで2つ
2つで1つ

光と闇に今があり
その今とて
既に影である

誰にもある影を観ること

飯道山

紀元前219年徐福とともに伝わった技術が忍のはじまりらしい
日本では587年に聖徳大子に仕えた甲賀の大伴細人が
志能便と名付けられ
いつしか忍に

書物ではなく口伝で歴史を観てきた彼らの事は
今となっては永久にわからない
書物があったとしても
伊賀者を全て殺戮しようと企てた信長に焦土にされたため
焼かれた為

きっと旧家には伝承され隠されているが
表には出てこない

太平洋戦争で、政治利用された楠木正成も忍であり
その家系は能の観阿弥、世阿弥にまで届くという

もともとは渡来人である伊賀甲賀の忍が積み重ねてきた
名誉も地位も関係ない
己にかした、はかない思いを背負い
村の人々や君主の義と勇気と無念に
心を打たれ

生きる術を探した彼ら
そのネイティブな不思議な忍術にひかれ
海で祈り、いまでは彼らの地で祈るの日々
父方は龍や天狗を祀る広島県の風早の祝詞八幡神社の血が流れ
母方は近江や甲賀の木挽きだったのも何かの縁と因果であろう

漢字では心に刃だが
忍とは
全てを認識すること(悟)
一切は空で、実相である

真理の上に心に安じ不動であるのが 法忍
その時々と因と縁の組み合わせ
それがありのままであるから
受け入れる事

歯を食いしばり忍ぶのではない
おそらく当て字だと思う
実際は
生きる事も
滅する事もいとわない
正心がかられの元

独自で感じた真理のもと
自己が受けとるべき人生を認める事

一切のものは不生不滅と認めると
書いた比叡の僧 鎮源

名声も地位も望まない
光と陰の両方を見据え
生きる日本人の誇りと矜持だが
今の政治家や大人達には蚊帳の外

伊賀忍とは数百の砦を構え小競り合いを繰り返してきた地侍である
無理矢理な大きな力に対抗する為に、三重の山中で生きる術として
独自に自然に育った訳で
密教や修験とも絡み合い
実際には生きる為の姿勢と,精神にその重きを重ねて来た

わかっている範囲では
外的に対し伊賀では12人の頭が(伊賀上野城の前にあった平楽寺や、寿福寺(今も現存)に集まり会議をし
その時だけは一致団結したという

甲賀では53の忍や修験者の家系で「惣」そうと呼ぶ
団結と決まり事で、毒蜘蛛を飼うことを禁止したりとした、管理する組織があったという
レジスタンスである。
今でも甲賀は火薬や薬の産地として有名であり
製薬会社や置き薬は甲賀地方に多い

ここは甲賀の修験道の聖地「飯道山」
最盛期の勝手に神仏分離を強制した明治になる前迄
宿坊も40近くもあったという
熊野から勧請された神を祀り
独自の山岳信仰と修験道の足跡が染み込んだ山道と磐座である

この山には不可思議な自然な岩穴や鎖場の地形があり
ここで士豪「忍」が修行をしたと伝えられている

九字切りをし般若心経をとなえ
お酒とお塩を撒いた

皆様のおかげで
今の日本があります。

花は咲き
散って土に還り
また花となる

無生法忍とは生死も超越し煩悩を離れ涅槃の境地に至る
同様に涅槃寂静ともいえる 
そんな心の境地をしめすのが忍だと信ずる

とらわれない心の自由
地球を感応し呼応できる修行を積み
地球にあらがう事なく
地球に時々の環境に時間に則しながら生きる道

宗教を越えた世界間が
どこかの威張った殿様や武将に
媚びてじはりつくサラリーマン侍ではない

己の信念と真理に沿いながら生きる
生き方があれば戦争を起きないのだが

原発や金が大好きな大人達に埋もれた地球を
そんな彼らの精神が救うはずだと信づる

集団ではない個の強さで繋がる惣をもう一度

人間を捨てる


Works の写真を一部入れ替えました

遥か沖の海
岸から400~500メートル沖迄
片手と両足で泳いで行く

片手というのは右手は4〜5キロのカメラケースを握っている
海では浮力のおかげで重さは感じないが
水の中でもその抵抗はすごい

手首が逆にねじれ折れそうになった事もある
あまりの水圧で、ナイロンのひもが切れた事もある

シュノーケルもつけない
あれは事故になる上、波の抵抗で水中メガネがちぎれる為だ

15年前酸素ボンベを捨て
なるべく簡素な道具だけで行く事に決めたから

問題が常に起こる状況で
余計な問題を呼び込まない為にも
口で肺に吸い込んだ空気が全て

巻かれても,引きずり込まれても
ひたすら息を止める事
この約束を破ると海水が肺に入り
溺れ死ぬ

物理的な道具と体の問題なのか?
それとも精神的な問題なのか?
瞬時に知り臨機応変に対応したいのだ

すごく臆病であり慎重でいながらも
瞬時に決めたら迷わず力一杯向かう事

透明な水が瞬時に轟音とともに全身に圧力と
暗黒の闇に包まれる

経験は大事だが
経験がその恐怖を呼び起こす

空が見えなくなれば
急いで沖へ向かい鋭く潜る

泡の中で何も出来やしない
ただひたすら頭が上に向くまで待ち
暗闇から光が見える水面へ向かうのだが
気を失いそうになる程苦しい

空気を吸いに口から水面へでると
大波が頭上から降り掛かる

これを受けたら背骨が折れるから
アゴを引きながら,瞬時にひねりながらジャックナイフという潜り方で
体を斜めにしてその力を逃がしながら
ひたすら潜る

正直
相当水に慣れ
それなりの覚悟と
強い気持ちがないと

身も心ともバイバイだ

ありとあやること
ありとあやゆる術
ありとあやゆる言葉で

地球に頭を下げ
無になる

無になろうとすると
無になれない

撮ろうとすると
絵をこねて
人間臭い気持ち悪い写真が誕生。

気持ちを強く持ち
自分から逃げない事
大波から心を逃がさない事

きみまろじゃないが

ハワイで気道が閉まる程溺れて
あれから15年

地に足がついた世界で
怖いものなんてなくなった

命のやりとりに
光を探した・・・

あまたの政治家先生のように
「記憶にない」なんて
恐ろしくて言えない。

嘘と人間を置いてこい。

生きたいと願う事
精一杯好きに生きる事しかない
と知る

理論や科学の向こう側
学校という畜養生け簀の外であり

教科書を暗記した大人の
教室や机では絶対に教われない

人の道が
地球との義が海にはあると
信じている

個展

杏橋幹彦 個展 
7/19火〜8/21日
「陰陽」 Onmyo

代々木上原ファイヤーキングカフェで
今夏で11回目となる個展です
今回のテーマは光と影

太陽を波の裏から写し15年
日本の波は撮れないと思い海外へいってましたが
昨年と今年は日本の海に挑戦してきました

日本の波の裏側
周囲には神社と深い森がある冬の日本で
写してきました

当初から変わらない
一切の色加工もない
ありのままの1枚1枚です

よろしくお願いいたします。

霧の粒


よくもこんなの石段を組み上げたものだと
感心する
山頂には2000回,3000回とこの山に登った方々の石碑がある

雨と霧と風に包まれる鳥居をいくつもくぐり
まるで天国のように彼方まで続く階段

祝詞を捧げ
地球の力と美しさを
人々が今一度思えるように祈る

この地に佇み1300年
幾億人もの今は亡き人々が観てきた
この景色は全てを見
全てを知っている

キリストは教だから
教徒しかいないが
日本には古来からこの地球とともに存在してきた
「ある何か」と神様達とも
上手に溶けあったインドの仏達が
その脇をかため,奥行きをかもしだし

一人の唯一無二の,十字架にくっついたひげのじい様の偶像崇拝とは異界なる
日本では、人には強制も強要もおしつけない
自由に独り山の中に住みながら修行をかさねたひげのじい様

神様は石や風や水であり、先も後もなく
もっと純粋でおおらかな森羅万象で
真理をわしづかみにした
民間信仰とともに育まれてきた訳だ

こうした地球と溶け合いながら護られてきた
聖域を読む力に感心し,感謝した。

うちつける雨も風も受け入れてきた
山岳信仰の美しくも厳しい時間が
霧の1粒1粒に含まれながら
全てを物語る

ゆっくりと時計をはずして
海に山へいくといい

結界へ


標高は900メートルで4キロ先の頂きにその神社はあるという
その昔は、伊勢神宮の五十鈴川をはじめ全国の神域の前にある瀧や川での清めの儀式と同様に
この清滝川で沐浴をし身を清めた 
のだが
今ではだれも神の住まう神域に
そのしかるべき行為はしなくなった

神仏分離と廃仏毀釈の追い風で
130年前にそれまで1000年以上継承されてきた行為も
消え
高速な移動手段と時間に縛られた
高級な登山服で身を守る我々現代人には
寝耳に水のような物語なのか?

雨に包まれ光を放つ山のなか
何処迄も続く険峻な山道に
口で呼吸した

愛宕山へ


京都にいる
朝から小雨が降りしきる

昨夜かねてから天狗の太郎坊さん住まう
京都の西、愛宕山へ行くつもりだったが
大雨の予報に流され比叡山に行く事にした

宿から時間ギリギリのバス停へ
何を思ったか
駅の反対側に走り
戻るも乗れず

なにげなく
バス停を徘徊すると
仙人のような胸迄あるヒゲの方がいらした

もしやと思いお尋ねすると
愛宕山へいくと言う

仙人がいるのも不思議で
こっちに来い!
と「仕組まれた」な

思わずひっそりとにやけた

ガラガラのバスに揺られる事50分
緑に包まれた不思議な場所に着いた

古い時代
おそらくは781年 和気清麻呂(わけのきよまろ)と慶俊僧都(けいしゅんぞうず)が
山城の阿多古神社を山頂に移したのがはじまり

天台、真言の修験者達が自然に集まり
火防ぎや天狗信仰とあいまり
民間習俗の中に広まった

日本中のプロ,アマの人々の
純粋な信仰が染み込んだ山道

頂上迄50丁目という石塔があり
当時は各町目ごとに茶店があったというから
ぜひ1つでも再現してほしいものだ

今では石垣だけが残る
寂しげな道だが
当時の参拝者の人々の足音が聞こえそうな
不思議な空気が漂っていた

大雨の中、山頂にある愛宕神社を目指す

ここは全国の天狗の親分 愛宕太郎坊さんの住まう山
霊験深い聖域である

あまたの人々の足跡を知る山道へ

Fire King Cafe

今年で11回目となる

代々木上原のファイヤーキングカフェの夏
期間は7/19火〜8/21日

今年は日本の波

祝詞を捧げ
無念もふくめ忍の義と正心を
日本の社寺で祈りながらの旅と海

関係がないようで
実は日本の大切な時間。

タイトルは光と陰
「陰陽」Onmyou

馬鹿な物


フィジーの宿
宿はお客を呼び込む為に
相当な資金と覚悟で絶景の場を宿にする風潮があるが
現実では海や環境のダメージも大きい

ここでは珊瑚の岩にコンクリートで小さな土台を作り
あとはすべてティンバーで出来ているから
最低限の破壊

トイレは巨大なタンクにため
日本の海辺ようにバクテリアで分解しつつ
川や海ではなく、土に吸い込ませるらしい

水は山の水
歯磨きや石けんのシャワーはそのまま地表から海へ
土は白く変色していた

しかし
あまりに遠く
強烈な波と珊瑚礁だけの島に来る人はすくなく
数年前にクローズ

村人の知り合いの家に泊まるしかないが
ここまで誰かの小舟でないといかれない
スーパーも電気もないほぼ
自給自足の昔話の島と
妖精の住む
霊気と霊験ある山と海

2002年にここに来ていなければ
今の写真も
今のように祈りを捧げてなかったのか?

今はもう過去
その今が数年後数十年後教えてくれる時間がある

過密で過剰な物質社会から
逃げ出して
原始の姿の地球と
そこに寄り添わなくては生きられない村人に
何が大事なのかを教わった

殺虫剤?
風呂用洗剤?
匂いとりスプレー?
除菌?
なんだよそれ

おかしな世界だ

命の関わるおっかない地球と
限界のない美しい地球を
体感しないと

ますます人間はジャンクな商品を作り
ジャンクな魂になっていく

地球を魚達を虫達を馬鹿にしすぎという訳だ

いまさら皆で洞窟に住んで木喰という訳にはいかないから
馬鹿はバランスよく程々にする事だ

このままでは
人間改め馬鹿者
と未来の人に書かれる

でも
そう思う人が増えたらいい

もう十分だ

もう十分破壊し
便利になったじゃないか

知足という事

タヒチ


タヒチのランギロア島1998年頃
この頃はダイビング機材を背負い
宿から交通機関やら海やらの取材
なんにも情報がないまま、潜り、ドライブし
島々を駆け巡る
今では考えられない無茶な仕事

この後中3日でカリブのグランドケイマン島からバリ島へ行く
ひと月に3カ国行ったハードな時代

旅先で買ったアジアンな格好のせいもあり
税関職員にいじめられ
ずいぶんと鍛えられました

海辺の宿で住み込みで働く家族と兄弟
テーマパークもコンビニも、ゲームも必要ない島の暮らし
都会の日本の子供は本来なくてはいけないものがない

そして笑顔で水に慣れている子供達

様々な事を憶う

デジタルはデータであり電気がないとみないが、
フィルムはいつでも当時へいざなってくれる

良いか悪いか?は蚊帳の外としても

フィルムの方が難しくも、気持ちが焼き付いている

歩いてきた前後の写真や風にそよぐ風景から
当時の人達との会話
その時の自らの気持ちなど

人生の物語りがよみがえる
歩いて,泳いで撮ったものしか
計り知れない時間があるから

いいものだ


波動でうねりながら水の水素結合した塊が,一番大きな時点で波になる
波は一つの物ではありませんが,サーファーは一つの波に乗っています。
でも正確には一つの波動に乗っているんです。

「波」という一つの形に人は思いがちです
北斎の版画絵のように水面ではそう見えるのが
当たり前ですが
水中では違います
15年も水中で波を観察してきた僕の見立てでは
水中で迫る波は透明な力「エナジー」です
水は波に置いていかれてます

波なんてないんです

何度も言いますが
沖の水は岸に来ちゃいない。
サーフィンでも沖から盛り上がる水が自分のところに来た!って時にパドルしますが
実は来たのはエナジーで
沖の水ではないのです。

今からお風呂に水をはりスーパーボールを浮かし
手で水面を自分の方に動かしてみてください

どうでした?

スーパーボールは同じ位置です。

手のあたった感触が水の密度です
密度が高い程(水素結合力が高く水の分子が濃密に集合)
水は固く感じます
でかい波になります


水をゆっくり押してみたら どうですか?
水を勢いよく押しては?
手をお椀のようにしては?

手に当たった水はこちら側に一滴もきていません
動いているように見えるだけです

高速でパラパラめくるマンガの原理です
つまり 微細な1コマ1コマの瞬間に水が離れては違う水とくっつき
又離れているのです
これが水素結合の繰り返しです

水素は一つの水素に,約150度で均等に二つの酸素がついて移動してます
一つの状態では気体として空や泡に
2つ、3つとくっ付く程重くなり
水となって見えます

空の雲は水です
海の雲も水です

周波数の差も生まれているかもしれませんが
これはうまく説明出来ないので 次回として

謎めいた
馬鹿な科学でわからない伝承や伝説は
こうした人々が強い天然の地球で感じた物語です

わからなくていいんです

全ては絶対に人間にはわかりません

仏教や神道も地球ができた後に人間が作った訳で
より地球を尊ぶ為に
わかりやすくした手法や偶像であって

特に他宗教を認めず殺し合う
おひげのアーメンなんてのは人間じゃないですか

きなくさい!

生きた人間の教祖様の新興宗教など
人が病んでいる証拠です

本当は人間が考えた宗教はいらないんだけど
なんて言ったら元も子もないですが
純粋な祈りの思いと心があれば
神様は感応してくれます
きれいな神殿でなくても、石でもいいのですが
正心が迷うから
方向性とモニュメントとして必要かもしれません

拝みやすい,感情が入りやすい雰囲気も
大事です

とどのつまり
海の音を聞き
波の中を泳ぎ
たまには溺れ
ウニに刺され
魚を捕まえて
捕まえられず

新鮮な魚を食べたら

正しい道へ
いや道なんてものもなくて

正しい地球との約束の日々を
普通に暮らせると思います

おかしな環境保護なんてしなくていい
ゴミなんか拾う必要がない世界

太陽の動きにあわせ
その潮流に生きる生物の暮らしこそ
完全なる世界です

人間様が
随分と地球で
大手を振りながら
ふんぞり返った結果が今の世界の状況です。

日本人は古来から
修行をして見えない自己を
地球や宇宙の森羅万象と匠に
浸透させかさね会わせてきた
すごい感受性の高い繊細な民族です

修行僧、行者さん、侍や忍者など
あまたの方々の、地球と命にかかわる行為と修練で
今の日本があるはずです

もう一度
日本人に生まれてきた今生を
静かな森や海辺で感じてみてはどうでしょう

海はいいものです。

個展情報
代々木上原ファイヤーキングカフェ
日時 7/19~8/21
今年で夏の恒例11回目となる個展です
今回は「日本の波」

オーナー阿部さんをはじめ、スタッフの皆さんの
お気持ちに感謝いたします!


こんか景色に埋没したら
絶好な幸せ感に包まれる
海は逃げずにいつでもみなさんを待ってます

限度のない美しさと
怖さを保ちながら

受け身の振りをしている海ですが
実は生きています。

迷ったら海へいけ!

伊豆稲取 ホテル浜の湯

浜の湯さん,ロビー大改装にあわせ
3メートルの巨大な1枚ものの写真を所蔵して頂きました

職人さん方のお力を借り
2階の吹き抜けに、それこそ力技で引き上げ設置しました

浜の湯 鈴木社長
五洋建設 熊本さん、大倉さん始め皆さんに
この場を借り,御礼申し上げます。

海の写真が海の目の前に飾られました
海と海を挟むかたちでホテルロビーにお越し下さったお客様をお迎えします

果たし合い

同じ時間を生きている
のだろうが
見知らぬ世界へ自から旅へ出れば
まったく予期せぬ景色に
突然ぽつんと投げ込まれた小石だと知り
謙虚になる

命がそこにかかれば
なおさら
見えない事象を読む力を総動員

日本では修験道でも
禅にしろ
庭にしろ
仏教にしろ
神社にしても

不思議なある領域を感じ
そこに独特な畏敬の心があると知る
手段が様々ある

世界でこんなにも、様々な方法で
自己と地球や宇宙を見つめる道がある国はそうはない

ほんとうに遠い島

飛行機がなければ
生きている間には来れなかった未知の世界
テーマパークでも電気仕掛けのねずみの国でもない

太古のままの水と珊瑚礁に生きる生き物だけの世界
余計な物も
余分な物も
ない完全なる天然の自然の世界に
そっとよりそい生きる人々がいる

その場を穢さず
壊さずに

人間の都合だけの防波堤もなにもない海は生きている

一人この轟音と光と闇で
すべては浄化され
ふつふつと生きる元気と生きた甲斐を知る

都会のビルの隙間や
人工の公園や海岸では
知らないままでいた自分が怖くなった

同じ時間生きているが
抜け殻からぬけた訳で

本当の自分ではなかったな

なんて
1枚の写真は時を越えながら
教えてくれる

動画は電気もスクリーンも機械もいるが

写真はいつだって電気もいらずに自由に見れる

映像は2年間で一切辞めた

やはりこの場だからこそ
海や地球をダラダラ撮るのではなく
1枚の瞬間に心を込めて写すのがいい

こんな果たし合いのような
嘘もズレのない世界がたまらなく好きだ

ホノルア


2002年頃のマウイ島ホノルアベイ
インターネットもまだ不十分で、感で探し
感で泳いだ日々
毎日ホーキパの偶然見つけた宿から
車を飛ばし1時間
島の最西にある
サボテンと赤土の崖の海ホノルアベイ

沖では頭〜ダブルの延々と盛り上がる
レギュラーの波が生き物のように走り

ローカル達が思い思いにチャージしていた
そんな沖からかならずでかい1本に乗るローカルがいた
笑顔だけで全くしゃべらない真剣な姿勢に
やはりサーフィンはスポーツではないと感じた
そんな聖地の独特な風と波まで
幸せだった

波を駆け落ちてくる
彼らに怒られないよう
邪魔にならない程度に
溺れても極力笑顔で話しかけた

泳いで崖を登り
フィルムを詰めては
又泳ぎ
1日5時間泳いでいた

宿に帰るころにはもう夜になっていた
途中町のバーガーキングにより

塩漬の道具と体をぬるいシャーワーで洗い

部屋でマカデミアコーヒーを落し
飲むのが1日の終わり

たまにやっている菊TVの
奇妙な英語字幕の暴れん坊将軍が楽しみ

つかのまの日本はやはり
木枯らし紋次郎や時代劇である

懐かしい時代と再会した

木の板にのる人

以前パプアニューギニア政府観光局さんの
御はからいで行けたニュ?ギニアの海

「撮れるかどうかわかりませんが、ぜひおいで下さい!」と
2回もご招待くださった政府観光局の山田さん
感謝です。

ここは
第二次大戦の激戦地ウエワクから飛行機で1時間
悪路を3時間
太平洋に面した島の真ん中あたり
地球誕生以来の
美しいそのままの景色と人々

電気も水道もない昔のくらし
もちろん油まみれのハヤリのラーメンにも汚染されず
洗剤もない為
海の砂浜と海水でこすって終わり
夜になれば波音と風音に
あちらこちらの浜辺でおこされる
たき火のオレンジの炎がちらつく

1つだけ残念なのは村の目の前の海岸がごみだらけ
よそから輸入されて来た,ビニールや缶や瓶のゴミはその辺にポイ!
なぜか紙おむつ(主にオーストラリアや中国から輸入)まで

この辺は教育というか
捨ててはいけない理由を説明出来ていない
パプアニューギニアの今がある

椰子の実、バナナの皮はその辺にポイ!で
何百年ときた生活が正しいのだが
地球に還れない
新たな石油製品が地球を破壊している

我々とて
分別をゴミ箱に捨てたつもりでも
実際には燃やせない場合や(間に合わない、ダイオキシンがでるから燃やせないおかしな法律)
の結果は、東京湾のゴミの島に押しつぶす現状

目の前から消えたようで
実は地球からは消えてない

法律的可能投棄のようで
実は倫理的不法投棄

なのである
まーフィルム写真(いわゆる銀塩)
の銀を含んだ有害な現像液も小笠原沖で流せば良いという
おかしな法律
しかも個人的に焼く場合や、写真事務所はそのまま垂れ流しだった事実

放射能を流すのと同じな訳だ

インドや中国が,化学物質や石油製品の不法投棄で
海洋や大気がとんでもない事になっている今
どうするんでしょうね?

白黒テレビが映り始め
韓国人力道山の空手チョプで湧き

因果関係を認めなかった
小和田雅子さんの祖父の会社チッソの垂れ流しによる
海洋汚染と水俣病
まるで高度成長期の日本である

昨今の何がエコで
サスタナブルやらエシカルやら

ニューギニアの田舎に来たらそれが
少しはわかるかもしれない

太陽と、海と緑の地球にそいながら
たくましく生きる彼ら

十分なよそ者がいないから
汚染度は低いのだが
数十年後にはどうなっているやら

彼らだって
洋服も携帯も欲しいと思うだろうから
もうこの景色はないかもしれない

地球の海の透明度はゆっくりと
濁り始めている

大きな水たまりだから
一見汚れてないようだが
目の前から,汚れがあっちに流れた
だけである

地球という限りある
青い水のボ?ルの中で生きているのだ

そう
写真は偶然会えた
おじさんサーファーと木の板に乗る子供

ふいに泳いでいるのかな?と思うような浮力で横に現れた

今年で7歳
お父さんが山の木で削り
バケツのフィンをつけてくれたんだ

と心温まる話し

プ?ル

海底は数億年前に生まれた
小さな珊瑚の集まった固い石灰の岩盤だ

波が激しく
ここでは枝状の珊瑚は皆折れて育てない

地球が海が
自然にその力のなかで
生物の棲み分けをさせている

強い地球や海に即して
生きる事が本来の関係性なはずだったが

人間は海や山を埋め立て
生き物達が数十億年かけて育んだ入り江や
瀧を破壊し生き埋めにしてきた事実を
忘れてはいけない

人間は地球との約束を忘れ
都合良く駄法螺を吹いている訳だ

生身一つでこの沖まで30分以上かけ泳ぎ
誰もいないこの外洋に漂う

完全な覚悟と
完全自己責任の嘘のない世界

この完全な世界に
勝手に飛び込んだ害虫だな俺は・・・・

南太平洋の離島で

都会の人間の暮らしが
美しくも厳しい地球から身を守るために
まるでシェルターのような蟻塚に住まう
様になれば、朝日も夕陽もみないまま
夜になる

スイッチをパチリとTVを観賞

そりゃ心が自然に離れてしまう

子供も大人も平等に降り注ぐ雨に濡れ
波の中で太陽を見た日から

ちいせい事を頭で
考えていたな
と気づく訳だ

感じるのは頭ではなく
心であり

受験術で競い合う
四角い机の学校でも
四角い塩素のプールじゃ
ないってことさ

誰にも平等に
無限な可能性の光が
あたっている

一番や二番の順位ではない

地球の美しい景色に順位がないように

無限な美しさに包まれるように
なっている

間を受ける

崩れる間を「絵」を待つ訳です

波間に漂いながら
沖の盛り上がる波動を読み
一番崩れるであろう場へ泳ぎ
肺に詰めこめられるだけの空気を吸い
息を止めて
崩れるであろう真下に潜って水中で待つ

待つといっても
ほんの数10秒で

頭の上を巨大な水の壁が移動し

さっきまでたいらで透明な水面が
急に縦になりながら
見えない角度で崩れ落ちてきます

そこをすれ違いながら
シャッターを押す
これも36枚フィルムでしたから無駄に押せないので
自然に決め撃ち!でした

すれ違うとは
波は岸へ向かい高速で動いて行くので
僕が水中でホバリングしていてもいいのですが
大きく速い危ない波は
僕の沖へ向かう力と
沖から岸へ向かう波「波動と水流」の
すれ違いになります
その時僕に波に負けない、もしくはかわせる術と力がないと波に絡められ
引きずり込まれます。

もう無重力で
海底に叩き付けられ
運良く怪我をしなくても
それは苦しいなんてもんじゃないです
しばらく体がぐるぐると暗黒の泡から出られません

動いている水と
動いてない水
これから動く水を感じて
瞬時に判断しその線のような場ですれ違うのです
なるべく体力と無駄なエネルギーを使わず
かわすんです

仙人の域ではないですが

これは古い武術の間であり
呼吸であり気当たりとの様なもので

遠くても近すぎても駄目なんです

なんてづっーと後になり気づきました
本人はとにかく夢中でとにかく体で覚え
恐怖に勝つ心臓を作るのが大変でした

だから人間界だと
そう怖い事はなくなりました

地に足が着いていますし
呼吸も出来ますからね

そんな危険でミステリアスな場が海であり
それ以上に美しい感覚で心が揺さぶられます

皆さんも
美しい感覚に生きていますか?

美しい物ではなく

美しいと感じる間です

都会では忘れがちな人間に本来備わっている
フリーダム

自由です

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