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絶滅する伝承

夕暮れ迄には1時間程ある為
波のある海岸を探しに行きかけるが
途中夏の個展で撮れたあの1枚1枚を想うと

やはりいつもの海に戻ろうと感じ
ハンドルを回した

直感という具合だ

そうしたら
やはり写った

なんでも
やってみないとわからない

言葉でも
頭でも
テストの結果でも
会社の成績でもない

そんな事が生きる上で
何の役にたつことやら

なんでも
頭で考えたって
ある枠からは出来れないのを知っているだろ

エスキモーの言葉を憶いだす

頭で考えると
決まって厄介な事になる

だから独りで遠くへ
旅へ行くしかない

まだ見ぬ世界に包まれている
まだまだ知らない
知りきれない世界がこの地球の
あちこちで起きている

同じ風景を見ていても
見ていない
見えていない事のがどんなに多いか

忙しくしない
急がない事

ゆっくりと
潮騒に心を傾ける事

忘却の間
を忘れずに

もう十分人は豊かじゃないか?

先進国が武器や銃を作り展示会をやりながら
戦争反対なんて馬鹿か

戦争もない平和な世界はもう不可能だ

それぞれに国の文化と伝統を慈しみ
地球と自然界の見えない力を確信し

ヒゲのキリストや、マリアさんに
携帯電話で願い事をしない日々に
戻れるように望む

みてみろ
マゼランやクックが輸入したキリストでフィジーも,トンガも、サモアもパラオも
太平洋の島々は,それまでの自然と行きた原始的な祈りも
その伝承もを忘れ
破壊され
飲んだコーラのゴミを海や山に捨てている始末

宇宙の人工衛星のゴミと同じく
海洋も地球を巡る訳だけど・・・・

地球で一番の厄介者は放射能ではなく
人間だ。

隙間から

この周辺を鎮護してきた竜宮の神様へ参拝し
人もまばらな海へ

いづこから届く波動を水中から見るひと時は
本当に時間を忘れる
ファインダーは見ないで
感覚で押す事にしている

見て押したら
絵を作り
作為の入った
きな臭い写真になるのは明瞭だ

水中で水を感じ
命を感じ
見て感じ
音で感じ
温度を感じ
波の隙間で
闇を知り
光を探す

誰もが見て感じて
頭に入れて
構図を決めて
人差し指でパチリと押すと

どうしたって
一瞬の光陰は永遠に知らないままでいる

フォトグラファー
カメラマン
なんていい加減な商売である

試験も何も無く
免状も無く
言ってしまえば誰でもカメラマン

だが
写った1枚に
何かが潜んでいる写真は
見た者の心をつかまえる訳だ

それが何かを知りたくて
自分が本当にいいなと感じる1枚を探し続けている

旅は終わらない
自由であれ
テレビもコンビニもない世界で
好きな時間をたくさん過し
静かな好きな場所で目をつむる

誰だって
自然に気づく
忘れていた
僅かな光がまっている

お〜寒い
回転して久々に水中で酔った
どこかの温泉へいこう

スタジオでの展示とお話し

上から下までまっぷたつ
つまり断面に答えがある

木の目 
つまりこの流れは水の流れであり
節が波の目のように
太陽に向け天に向かい
水分を吸い上げ自らの体を作る訳です

そんな
不可思議な木

当たり前だが
まさに吸い上げた水の道が
この波動が化石化したような
木の目


いつもお客様に
夢中で波を語りすぎ
反省してます


11月頭から中頃までに
今の工場であったスタジオが立て替えのため壊されます

そこで
数日間だけ今手元にある作品20〜30点と(出すのが大変ですので見たい方は勝手にだしていただき)
スライドショーを開催しようかな?と

日時はおってご報告します

夢中な時間と
独りで見ては行けない世界を見てきた
感がありまして

命がけの地球と自然の神様からのご褒美でしょうか

場所は東京の目黒不動の近くです

DMは作る暇がないので
初めての方も,お一人でもお友人をお誘いくださり
どうぞ
ご縁のある方と緩やかな時間を
都会に引き寄せ合う波のような
海岸にできたら幸いです

伊豆へ

瀧の中から
山の雨の中にいる
海の中にいる
垂直に天から降る水が瀧
水平に矢衾のような水が波

いずれにしろ
水に海に包まれている人間
隠しようの無い事実と摂理

地球のボスだと言わんばかりの
人間がジャンクな物を売りつけては
東京湾に埋めては土をかける

10万年消えない放射能のゴミを地中に安置のインパクト
に消されがちだが
燃えないゴミに分別したら
なんだかエコな感じで正しい事をした気になる

しかし実際は野埋め
土をかぶせて重機で押しつぶす事実

裏も表も知る事
しかしながら真理は一つである

それを知る方法は幾万通り
幾億通りある

仏教徒Monk がインドやネパールの須弥山や霊鷲山に
光を探したように
その方法は様々

同じ波が2度と無いように

今もまほろばであり
既に過去であるから

久遠実相

山梨の身延山は久遠寺
1274年
佐渡に流罪になり戻った日蓮が鎌倉に戻ると
この地の時頭 南部六郎実長に呼ばれ生活をし
この元は真言宗と修験の山を
日蓮教団の最高の聖地とした
武田信玄をはじめ多くの武将の庇護を受け
周囲の山間には宿坊がいくつも立ち並ぶ
昔のまま風の聖地である

285 段もよくも積んだ石段の先には
ベンガラの5重の塔をはじめ
お堂の天井には加山又造の龍図が睨み
まさに妙法の妙の漂う山である

ある山梨の高野の阿闍梨に
龍をまとめてるのが弁財天であり
その統括は不動明王とも聞いた

神仏は輸入されながら
上手にブレンドされ
なんであれ、あまたの師のイメージした
平和と安穏の教えと自己成仏を行で
修めた人々がいた

この石段の1つ1つは
人の命よりも長く長く
その願いを記憶している

山あり
海あり
風あり
雨あり
鳥あり
魚あり

彼らの絶妙なバランスを崩さぬように
人間達は遠慮しなくては行けないはずだが


伊豆稲取

どこから
ともなく
透明で目には見えない
海の中に風が起こっている

地球を巡る

伊豆白浜神社

ついに
こんな馬鹿な看板を
つけない事態に

怖さを知らないから
やらかす輩

以前から夏に目の前の海で
遊んだ人々が
手水に足を入れ洗ったり
と水を抜いていた時期もある
白浜神社
龍神様を祀るとも

日本がわずか70年で
アメリカ化し

ジーンズを履いて
手でハンバーガーを食い
コーラで流す

日本の神話や神様も
地球の後に来たのだが

2016年
地球を馬鹿にした
今の社会や国や政治家や人々

地球と人々を傷つけあう時代が
今までも4度起こり
その都度地球はリセット
されてきたと言う

広島、長崎に原爆も
1000年前の言い伝えに残っている
ホピ族の予言では
第五の世界がくると
言われている

一度リセットしないと駄目かもな

教える事じゃない事を
教え

おかしな看板を付けなくては
いけない事実

人口が増え過ぎ
仕事が増え過ぎ
街ですれ違う人々と金を交換し過ぎ

地球の破壊でいまの街があり
スーパーで採れもしない魚を買う

後戻りはしない現代人の過剰な暮らしが
日々、地球や海や伝承や伝説を
絶滅させていく

科学や物理を超えた
見えない力
感じる何かに
委ねる時

次元が変わるわけです

古来の人々は
ゆっくりとした
静かな自然に包まれ

その境地を楽しみ
活かしてきたわけです

雲の上

あの奥に富士山があるのだが
雲に隠れている

それでも抜群に美しい時間が
雲の流れと共に秒刻みで目の前で起こる

雲の上の寺から

絶海の山

年に1度の靖国 詣で〜
集まる〜仲間は少ないが〜

鶴田浩二が歌ったが

ここは大観衆である
いや大にぎわいである
なんと719回目の祭りである

動物の子が
違う親でも育てるとその慣習に従うように
おさいころ、爺さん婆さん、親が
教え、これを信じて拝みなさいと
言われたら
そりゃなんでも信じてしまう

生まれる環境は危うくもあり
大事である

祭りと言っても
ここには寅さんのようなテキ屋はいない
登れないのかもしれないが
カルメ焼きも,金魚すくいも、しじゅうからが木の建物から咥えてくるおみくじも
あの発電機の音とオレンジ色のライトに照らされ
怪しい大人達の,子供騙しの手品まがいの夢はない

まんとう と呼ぶ
五重塔に飾られた美しい飾りと
め組の頭ごとく纏をふるい
ちんどんやとは違う金物をちんちんならして
歌う

どこかなごやかで
どこか厳かな神事である

井上瑞雄 総務さん  
奥野御上人
今年8月からの別当 望月御上人

こんな凄い3人と40人以上の修行僧の読み上げる経文が
この山に響き渡るこの日
 
中でも
井上さんの法力なのか
お年を重ね、何万回も読み上げてきた修行から
自然に創られた憂いあるお経とお声は
毎年,参詣者のお待ちかねであり
音叉のようにいつまでも深く長く
この場と人々の奥底へ浸透する

太陽が富士山のてっぺん?だから
写真を撮りにくる富士山おじさんもいるが

てっぺんだろうが何だろうが
どうでもいいなと
誰もが思う八景

この日
この絶海の山で
皆さんと同じ時間を迎えられる事が
素晴らしい

修行僧達の
ある言葉と想いを
存分に吸い込んだ

ゲート

山を曲がると大きな結界
和光門が現れる

誰もがこの美しい門をくぐり
ようやく ついた ・・・・

ふーっと一吹き
に安堵がこもる

延々と続く山道は
森の中な為、景色が見えない

富士山のような観光地に変身した山でないから
ド派手な山ガールや中国の旅行人もいない

延々と4〜5時間
お年寄りで6〜7時間
お坊さん2時間半〜3時間
の人を阻む山

この山の一番の謎で
誰もが思い、口にする言葉
きっと秘密の道があるに違いない
誰もいない日には七輪でバーベキューをしているに違いない

現に頂上に車があるから
裏道があると言う信者もいる

ある夜、大広間の畳の上で隣にいた
30年も秋田から来てる人が耳元で
うれしそうに
「実はここにはお坊さんだけの裏道があるようです・・・」
ささやいた
・・・・・

なんだか幸せな夜である

途中で心が折れ
登らせないよう神様が仕組むらしく
実際に結構上までいったのに(19丁目)
下山する人にあった事がある

でもこんなところに
ロープウェーでも出来たら
興ざめだ

荷物用のリフトが出来る20年前迄
すべて強力さんと呼ぶ運び屋さんが
全てを荷揚げしたから凄い

敬慎院が出来た719年前
今の建物で280年らしいが
ピラミッドじゃないが
どうやってこれだけの木材で作れたのか不思議だ

50丁と呼ぶ
目印の50個目の灯籠で到着
標高約1000m
だが本当につらい山

海とは違い
ちょっと待ったも,休憩も,腰をかける事も水も飲めるが
重力に逆らう移動は辛い

ここで修行するお坊さんが
歩いて来たのか?は
謎のままでいい

伝承と伝説に護られ
護ってきた山だから・・・・・

まだ何が欲しいんだ?

ここは定かではないが
おそらく日蓮宗の寺院ができ719年
その昔から,ある種の何かを感覚的で直感で感じた
地元の猟師や山人により小さな祠が建てられ

やがてその噂は風にのり
紀州方面の修験者(修験の本家は吉野金峯山寺だが)達による
法螺貝の音色と真言が唱えられていたのだと言われている

吉野の葛城に住む
あの忍者が崇拝してきた
仙人の魔法使い「役の小角」えんのおづぬ=「役の行者」を祀っていたという

そんな脈々と繰り返されてきた
命がけの旅をした
彼らの尊い祈りの記憶を含んだ霧に包まれた

問題の七面大明神という龍の神が
いる前か?いたのか?

伝承は2つ
日蓮さんが鷹取山で奇麗な女に化けた龍に出会い
その龍が七面山に住む者だと言い
日蓮の死後、弟子のにちろ上人と仲間がこの池でお経を唱えていると
719年前の明け方に、お堂の裏にある池で見た

また広島の厳島神社の弁天様に病の姫を助けてほしいと
願った京都の公家が
弁天様(龍族をまとめている一人)に尋ねると
七面山の7つの池で水垢離をすれば治ると
言われ、姫が遠くこの地でその病は完治し
そのまま池に飛び込み龍になったとも

いずれにしろ
伝承はいいのもだ

日本中にあるその聖域や神社のある場

いまよりチャクラと自分の心の信念が独り立ちしていた彼らが
何らかを感じた事は間違いない

写真も何もなく
「彼らが見た」という
これだけの事で719年も、いやもっと昔から
ここで祈りが続けられてきたことが
やはりすごい

この山道に彼らの足跡偲び
染み込んだその真摯な心を探し迷い
そんな何かが我々を後押し
頂へ向かわせる訳だ

今でこそ麓まで車で行かれるが
当時は今のような参道もなく
究極の行きにくく困難な山であったろう

日本中その昔は全部徒歩である
馬もあったろうが
馬はそれなりにお金と手間がかかる

ネットも地図も何も無い時代に
超感覚とその筋から聞いた「噂」により
来たのだから大冒険である

寝る場所も,雨具もなく
昔の人々は地球の過敏に反応しながら
その強さから身を心を護ってきた訳だ

結局明治の前までは、そうした命の関わる生活が身近にあった為
ごく自然に民衆の間で祈りが地球の
山へ海へ川へ大地に捧げられてきたのだろう

今に日本人に消えかけた
「地球へ捧げられずにはいられない感覚」

そうした意味では
修験者や地元の,ただならぬ何かを感じた彼らがいたからこそ

その力と共に、その場の持つ祈祷場として噂は事実となり
それを聞いた日蓮のお弟子により継続された事実も忘れてはならない
自然を崇拝する古来からの山岳信仰から
インド〜中国から輸出入をし,日蓮という「人」により
練り上げられた法華経信仰へ塗り替えられた
特に日蓮宗系の新興宗教は他の宗派に比べ断然に多い
鳴り物があるからとも言われるが
どうしてなのか?

日蓮とて当時は悪いものを流布する新興宗教として
国が判断し島流しや死罪になりかけた逸話も「奇跡』
を呼ぶのかもしれないが

時を越え日蓮の間に,上手にすっと入った
新興宗教の教祖「人」では生臭い
これが普通の感覚

だから僕はここで法螺貝を吹く
古い時代の記憶が
この空間に僅かでもあれば
彼らとその何かへ僅かながら伝えたい

すぐに記憶がなくなる国の指導者である政治家達と
地球を破壊しまくる人間の馬鹿さ加減を伝えたい

もう十分じゃないか・・・・

まだあと何が欲しいんだ?

一人で立てば宗教はいらない
一人で波を泳げば宗教はいらない

余計なものは捨てておいで

結界


運の良い事に1台車がでたので
茶がえるを止めた

入り口のおばあさん達は
山が厳しく登れないので,降りてくる仲間を待っているという

ここから4〜5時間
出来るだけ荷物を減らしたいが
6日間の着替えやら,雨具やら,カメラやら

さ〜
結界に
六根清浄 懺悔である

雄滝へ

結局車を止めるところ探しているうちに
宮武さんとすれ違い,杉林から満面の笑みでもう浴びました〜と
あれ〜 

しかたなく怖いけど一人でいく事に

雌瀧(通称おまんの瀧)から奥の雄瀧へ足を踏み出すと
ふいに子供の蛇が足下に現れた! 

本当に山で目の前を蛇が通過する事がよくあるのだが
これは龍神様の眷属が現れた歓迎の意味だととらえている

森の中をつづら折りの登り
弁天堂でお参りをしたご
その先に轟々と落ちる瀧が開けた

塩と酒を体に瀧に振りかけ
大声で龍神祝詞と九字切りをし
瀧の中で般若心経をとなえる

昨年の水量の
半分くらいでほっとしたが
独特な霊気と
変な気持ちで来たらやられる
あの海の感覚が瞬時に現れた

前回は大雨の中浴びた後に
巨大な黄色い石が滝壺に落ちてきて
宮武住職は龍神様だといい
大事そうにその石をお持ち帰りになっていた

それに以前には見知らぬ行者が4人現れ
宮武さん達にどけと言わんばかりに
ろくな作法もせず瀧に入ったが
石に組み付いた瞬間
手が離れなくなり助けてくれと

結局3人の高僧を呼び計4人で
お経を上げ龍神様に祈ったという
その行者達は手がさけて,低体温症(ハイポサーミア)になり
救急車で運ばれた
宮武住職がいなければ死んでいた。

なんて聞かされていたので
怖い!

しかし無事
瀧から石も落ちてこず
戻れた

なんともいえない爽快感は
波のと同じ感覚だ

雌瀧へ

ブログの日にちの順序は前後しますが
そのときの思いのまま書く事がいいのでご了承ください
これもそれもそのときの自分という訳です

9.17
七面山へ来た

昨年瀧で濡れた白装束を乾かして頂いた御礼に
地元の祈り堂で宿坊の岩田屋さんへ行くと

あの日偶然に昨年瀧ですれ違うようにであった
大阪から来た宮武玄澄住職の息子さんに逢う
聞けば大祭に向け,予定より1日早く来たといい
雄瀧を浴びにいくので
一緒にいく事にし

まづは1の瀧と呼ばれる麓の雌瀧へ
古来から参詣の人々の作法にのっとり
瀧を浴び禊ぎをして登る事がいいのだと感じて以来
勇気をだして一人で巨大な瀧へ

雨はやんだが
先客が数十人
瀧だけを岐阜から浴びにきたという

1時間程時間をつぶし
塩と酒をまき
龍神祝詞をささげ九字切りをし入った
大粒の瀧に打たれながら無心ながらも
石が落ちてきませんように と祈る

いにしえの修験者をはじめ
あまたの人々が見
感じた景色は当時と変わらず

幾億の人々の真摯な祈りを
穢さぬように
入った

うまくは言えないが
なんだか
透明で内面が軽くなった気がした

夜光


光とは
暗くなくては
見れず

後ろから来た光が物体にあたり
反射し見えるから

我々が透明な水に住んでいたら
魚がまるで
鳥が飛んでいるように見えるが
鳥は飛んじゃいない
鳥が飛ぶのではない
魚が泳ぐのではない

波は沖から来ちゃいない

たしかに何らかの
摩擦とズレなより
動いているが
そのものは動いていない

アインシュタインの相対性理論じゃないが
昼間も見えるが
夜しか見えない星の輝きは
10億年前の爆発を
ようやく届いた光を
今見ているだけ
つまり
今は無い物を見ている

我々は物を見ている様で
実は時間差で反射を見ている

光が前からだと影を見る

この静寂の龍が住む池と山寺に
夜光を探す蛾のように

下界から来た我々は
黙々と頂きを目指し1000年?

体とズレのない
自分の影は見れないのだが

なんとかそんな
一条の光陰と
本当の影を確かめる為に

里や町を離れた
大自然の中で
寂静な祈りが必要だったの
かもしれない。

我々は夜光に集まる蛾と同じく

引き寄せあう
光と影に全てを投じる訳だから・・・・

七面山 山寺


雨の中にいる
雨は古来から
龍神がもたらすと
伝えられた

修行僧達の毎夜の
精一杯の純白な経に
心を打たれない者は
ここには来れない

雨に韻を含んでいる

落ちる姿

海に弾けながら戻る音

その姿に美を感じるのが
侘び寂び
かもしれない

下界から
のこのこ都合のいい日だけ
登って来る俺たちは

夜光に集まる蛾だ

それぞれに
一条の光明を探して

それぞれに
過去の光の道を照らし

衆生を精一杯生きてみる

間違えないのは
来世ではなく今

日蓮さんも言う

今がなけりゃ
来世はない

当たり前の事ながら

功徳を無理に背負う
時点で
作為の功徳になる

頭でなく
自身の胸で感じたまま
生きたらいい

南無妙法蓮華経でも
アビラウンケンでも
南無阿弥陀仏でも
いい

何故なら
目指す光の集まる場所は
同じだから

御来光とて
言われなくても
太陽はちゃんと毎日来る

太陽が昇るのは
誰かのおかげではなく
宇宙と地球の摂理である

あー美しいな
ありがたいな

でいい

畏敬というと堅苦しいが
誰もが平等に感じる
絶対的ないい感じと
人間の奥底に寝転んだ美意識を
くすぐる訳だら

これは海や山にゴミを投げれなくなる
投げないのと同じ

人間に備わっていた事を
単に憶いだすのが日々であり

誰かの、押し付けや唯一の教えではない
日々に感じる景色と心象現象を重ね合わせ
溶けあう日々を
この山寺の御堂にかかげられた
「感應」かんのう
と結ぶ

戦国の世の後

知らない国へ探検に行った
日本の仏教家の彼らや
今のネパールや中国から帰化した彼らだが

幼い頃、祖父母に手を引かれ
鳥居をくぐり、高天原にかみずまる
日本古来のやおろずの神々に
ぺこりしたのかな?

本来なら日の丸を掲げ
天皇陛下にならい
祝詞を捧げるのが日本国
である理由であろうが
その辺りカオスな日本

神社庁なる会社ができる
もっと昔から
祈りの手法や所作はあったろうが
文字が生まれる前
カメラが生まれる前
だから
記憶が曖昧だ
組織になると
その曖昧を利用してないか?

凄いお経を
朝晩聞いてるせいか
明け方から
ぐだぐだ書きましたが

1日を思いの丈のまま
無心で祈る
七面山の彼らのように
避けては通れない
雨に打たれながらも
互いに光を探す日々

日本人の地球との呼吸と
呼応しながら

自らを密にし
生きるすべを

僅かな光が示してくれた気がした。

山寺

山梨の七面山にしばらくいる
さだかではないが、1000年前から
山人か猟師からの聞き伝えで
修験者達が紀州から徒歩で
役行者を祀り
密かに護られていた池と御堂があった

やがて身延を中心に縄張りになった日蓮宗により
719年前に龍神をみていらい
日蓮宗のお坊さんが
ここに敬慎院をたてたと言われている

何故か山門から太陽の光が
千葉の一宮の神社から
山梨のこの御堂の龍神様から
光は出雲大社を射抜くと言う不思議

今でも麓から四、五時間かかる山に
どうして来たのか?

いずれにしろ
脈々と地球と日本の安泰を願う
遥拝所を
護った僧達がいた訳だ

麓には2つの瀧があり

昔その瀧を浴び禊をしてから
この聖域に来たと言う

どんなホテルにもない
昔ばなしのような
時間が
この深山に留まっている

大自然があって
石や瀧を崇めたのが
宗教という言語より古く大切な真理を
忘れないよう
風が吹く

目の当たりの情景とつちかわれた時間に
ごく自然に胸騒ぎがする世界観と感覚を
忘れた都会の人間にならぬよう

地球は人に無量のゲートを見せつける

ここの御堂にかかげられた
「感應」かんのう
ということに繋がる

美しい人間には作れない大自然あり
各種神社
各種仏教あり

記録

男達が溢れている
喜怒哀楽のるつぼが
1年に1度
満月に集まる動物のように
あのキラビヤかな神輿に集まる

おのおのに
とびきりの粋なお洒落をし
汗だくで神輿に取り憑かれる

辺りが暗くなると神様の御霊(みたま)を神輿に移す儀式
御霊(みたま)入れがおごそかに行われる

祈る人
担ぐ人
神輿を運び組みたてる人
全体を見る人

この夜だけは日常とは別次元

神様が地球やこの土地と人々の繋がりを
忘られないように仕組んだ
古い時間から長きにわたり男達の熱気を
記憶したこの神社の空間と
この夜に魅了された人々が
継承してきた
得体の知れない何かを

どうも撮りたくなる男達を
撮りたいから

毎年来るのが俺

それぞれの憶いが
永遠と次世代へ記録されていく事を切に願う

日本に宿る神様

その昔、江戸の名瀑に数えられた瀧があったが
今ではマンション工事などでその姿は
ホースでチョロチョロ

しかし
数千年と変わらず
氏子達、地元民衆に,宮司に護られ
祈られた時間は変わらない

誰のためでも
金のためでも
なく

神様とこの土地に宿る全てに
数千年の神社の歴史の中
自分たちの生きる時間がある限り
彼らは続けていく

何億人もの祈りを
吸い込んだこの土地と空間を受け継ぐ事

これが日本であり
日本人である

漂泊

2006年
サモア諸島の夕暮れでの事

2002年に初めて訪れるフィジーの離島へ向かう為
5時間程空港で乗り継ぎを待っていた

そんな時空港で出会ったボディーボーダーのハワイアン達
聞けば偶然にも同じ島で同じ日数滞在

なんだか同じ飯を食い
同じ波に向かった

やがてそんな彼らが波の旅に行かない?
と誘ってくれるようになり

彼らのハワイの家に泊まり
共に5時間と1泊し
ジャングルを2時間

川の横に立つサモアサーフキャンプの小屋についた

フィジーもしかり
よくもまあ彼らは辺境の波を探すものだと感心した

遥か沖の波迄は600mはあるため
小舟で沖から回り込む

船は横波をくらうと転覆するから
随分とは慣れた場所で皆海に飛び込み
ポイント迄泳ぐのだが
深い海溝を泳ぎ浅い海底に行く迄が気持ち悪い(サメがいそうで)
ここは年中水が濁り海底がいまいち見えない
浅瀬は奇麗なのに川のせいか濁り

とにかくサメが怖かった
実際に深い場所を泳ぐと
嫌な予感がしたので
振り向くと大きな魚が数匹
足ヒレの泡に反応し青い深みから
一気に足ヒレを狙い泳いできた!

コラッ!というと逃げるが
しばらくすると又狙いにくる

これだけ大自然の中で餌を口でとるには
そうとう鋭利な感覚がなくては
餌にありつけないのだから
仕方ないと知るが

俺はルアーだなと
笑う

このころはフィルムで撮影していたので
36枚に凄い集中していた

これもその最後の1枚
みんなが夕暮れで船に戻るが
僕だけ30分程
なんだが気になり
サイズダウンした波間を漂っていた

そんな時
沖から来た波を水面で
なぜか後ろ向きに
太陽に向かい反転し
押したら写っていた1枚

現像後
最後のゴールドの1枚を見て
驚き
あ〜これを撮らされたんだな〜と
独り微笑んだ

気になる事があれば
そのまま気にする事

他人がどうじゃない

何か感じたら
そこにゆだねてみる事

すると
今迄の常識や狭い良識の規格外の
嬉しい新たなドアが待っている

間違いない

信念を持ち
結果を気にせず

漂う事

12年間
毎年新作が奇跡的に写り
なんとか展示をしてきました

過去の展示写真はPCがある日燃えて
なくなり,間違えて消してなくなり
それも自分で、2度と無い海模様と同じで
それもいいな〜と

感傷に浸る
とはロマンチックやら
女々しいやら
よくわかりませんが

静かな自然の中で
遠くを見てしまう事は
人に大事な事です

美しい景色と水中に包まれたら
誰もが幸せで
嫌でも大事にしようと思います

環境保護の枠の外です

5感とか幸福感とか
最近,気持ち悪い妙なセミナーや講演が
巷にちらほら見かけます

そんなもの
地球に分け入り
静かな時を過ごせば
一瞬でわかります

平和それが人間の魂の内側にもたらされるのは
その人が自らの宇宙の
そしてその宇宙の全ての力との関係を自覚し
それらと自分が一体である事を悟った時である
その者達がこの宇宙の中心に
ワカンタンカがお住まいになられている事に気がつけば
宇宙の中心は実はどこにでもあり
我々のひとりひとりの内側にも存在する事が
得心されるのである

ブラック エルクの言葉

出会い

フィジーのホームグランドならぬ
ホームオーシャン
海へ頭をペコリ
岸から400m沖へ泳いぐこと2〜30分

ハワイ風の洒落たサーファーなし
人工ビーチなし
車なし
電気なし
ライフガードなし
手加減なし

遊泳禁止の海のキング!

数億年前から変わらない景色と水
海原を鳥達が舞い
最高な美しさと神々しさが留まってきた
聖域であろう

こんな遠くの拝まなければならない
海の神様の住処で泳いでなければ
今の自分は無いだろう

独りが大事だった

珊瑚にぶつかった傷を治し体をケアし
夜は星と波音で心の平安に浸る

海は珊瑚や魚が村人が
しのぎを削る弱肉強食の正しい世界

溺れかけても誰も助けちゃくれない
絶海の海で
幾度も胸が潰れる思いが充満した

平静を装うには
心が大切だ

もう一人の自分にパニックにさせない事
なりかけたら

強制的に戻す事

太陽に助けて欲しい

泡の隙間から刺す太陽の水面へ向かい
泡立つ水面に顔が出ると
東京のビルの隙間の太陽とは違っていた

なんて書いたが
始めはまったくこの大波に近づけなかった
分厚く高速に迫る波動が周囲の水面を吸い上げ
あっという間に2階建て

沖の水は一滴もきちゃいない
例の透明な何かが
空をも隠しながら迫り来る訳だが

あの2階からの水がくだける轟音と水量と
海底の鋭利な珊瑚や
ウミヘビやサメ

俺は完全なる邪魔者である

原始的な地球は
人間にとってはあの世の入り口である

だからこそ
存分に生きないと
死にきれなかった

死が怖いのではなく
死ぬ迄の経過が未熟な事を
避けたかった

思い切り行く!
退かない!
やめるならやめる!

海から足のつく海岸につくと
その満足感は今迄に知らない感覚だった

心技一体

プールの競争ではなく
波にとけ込む事
許される事

掛け値の無いこの場が好きだ
嘘ややましい心があれば、戻れない気がした
所詮地球は1000で人は1の力

夜はぐっと冷え込んだ波音と風音
風で揺らぐように明滅する10億円前の爆発の星

様々な古来からの祈りの作法と
心の模様を無色にし
目をつもり
考え

呼吸をしていた

思いたつままに動く素晴らしさを
改めて先日感じさせて頂いた

人も万物の出会いは偶然と言う名の必然であるから
不可思議な人生の旅路ですれ違う一瞬だが
その深度はそれぞれ

過去があり今ある
過去の旅が今を彩る
でも今だから出逢うよし
絶妙で完璧なタイミングの点と点

それはネイティブアメリカンが伝えてきた
ビジョンクエストの旅だから

終わりない足跡

さっきまでいたはずに
場所と
まるで
ちゃぶ台返し

アレ?

線をこえた?

心が折れそうになる
とよく言うが

折れたらこの世から逃げる羽目に
折るのは弱い自分だから
正確には折る だ

暗黒の波に引きずられ
気絶する程呼吸が出来なくとも

水面の光に向かうしかない
鰓がないから
酸素が欲しい

どうするもこうするも

生きたいか?
死にたいか?
しかここにはない

余計な思いも
物欲も全て捨ててきた
つもりだが
やはり所詮は人間様のつもりでしかなく

今迄の経験も頭の考えも
あくまでも世の見積もり

淡々と地球は無視し
待った無しの攻撃

試合は試し合いのスポーツのルール
待った無しの果たし合いこそ
本物が潜んでいる

片手に握ったカメラケースを前に
まるで信じられない光景に立ち会う
漫画の様な今の自分を笑う

まー
幸せな事は間違いないです

人間界の探り合い
人間界の欺瞞も
自分への嘘も
置いてこないと
一瞬であの世へバイバイ

わかりやすいじゃないか

儚く
美しく
消えて行く

地球と宇宙を巡る水の冥道
を目の当たりにし

等しく誰もが
胸の辺りで感じる

優しく電気がはしったような記憶

記憶は曖昧でいい

見ているが
見えない色

見ていたが
見過ごしていた音

海の中では音は空気中の10倍もの早さで
届くという

遥か沖で独り漂う紺碧の海
波の崩れた瞬間より
わずかなズレでその轟音が全身を包む

経験が邪魔をする
これだけ波の中にいても
いまだに怖い!と感じない時はない

限度無い恐ろしさは
いったい体の何処に潜んでいるやら

随分と体や頭の隅々から
捨て去ったつもりだが

どうも胸のあたりに
その濃縮されたそいつが集まる

修行とは
地球の中で
行いを修めていく

実体感と実体験に勝る物は無い

溺れるかもしれない?
死ぬかもしれない?
戻れないかもしれない?
頭が邪魔をし続けながら

頭は畳の上の水練

遠くの波を見つめながら

「とやかく言うな」

「黙って行け」

と自分の胸を押す

背中は他力であり

自ら決めるのは胸である

正心を探し
名誉でも地位でもなく
うつしよの命にどう「けり」をつけるか
仲間と郷土と先祖へ義を尽くした
甲賀と伊賀の忍達

全ては鎮護国家と平和の為に

様々な記憶と想いが旅をする訳だ

寂静

魔王降伏の法場
鎮護国家の勝地

村里遠くにして無傾動なり
人倫離れて自ずと寂静たり

人里離れた静かな聖域な場は
心が揺らぐ事無く

人間界とかけ離れた静かな聖域で修行すれば
心が満たされた完全な悟りになる

伊賀は赤目48瀧を護る
天台宗延寿院 松本住職より
お聞きした

七面山

今年も9/17からしばらく山の宿坊で滞在しようと思う

大昔の事らしい

今から1200年くらい前
麓の瀧から今でこそ険峻な登山道で4時間〜5時間

道すらない当時
抜け道として,獣道として
ある人々が通った尾根のとある場所

そのうちの誰かが
この山の頂きに
この景色と領域に何かを感じ
大きな池に龍神を見

祈り始め
受け継がれてきたのが始まり

目には見えない地球との約束の場であり
人が人として生かされていると知る領域

やがてここにお堂が作られ
神仏が安置された訳だが

理由がなければ

風もおきず
波も立たず

無の静寂だけがつまった空間である

その
理「ことわり」
のもとで
その「ことわり」に気づく事

見ていたが観えなかった時間や自分

誰にでも
静かな風は遠くからやってくものだ

Fire King Cafe

不可思議なご縁で始まったファイヤーキングカフェの個展も
振り返ると
今年で11年目

残暑にまみれて秋の兆しを感じ

あ〜今年も良い作品がたまたま撮れて
良かったな〜
皆さんに地球のありのままを観て頂いて
嬉しかったな〜と
憶いに浸り

俗に言う
「感慨深い」ものです

早いもので
波に向かう修行は15年

恐ろしくも美しい世界中の波の中を泳ぎ
我を捨て、命を思い
勇気と根性で切り抜けた「あかし」

何度もあの世にいきかけ
最後の一押しの冷静さと
おそらくは例の「逃げ技」で
海岸に戻り
さっきまでの別次元の
恐ろしい海を眺める日々

毒のウニを30針踏み抜き
サメに睨まれ
暗黒の波にボコボコに巻かれ

あ〜
生きててよかった!

生き甲斐を感じ

今を悔いなく
生きてる自分に満足する

同じ時間
この事を知らずに
もし、この場にいなかった自分が怖い

ありのままの手加減ない地球で
金、物,者ではない
孤高の時間が心を開く瞬間に
自力で立ち会い
呼吸する

息を止め,息を吸い
生まれ変わるように
見てはいけない美しい時間に漂ってきた

ちっぽけな頭では予想もつかなかった
波の裏の世界

きっと今もあの島もあっちの島も
波が崩れ、鳥が海原を飛び交い、潮の飛沫が島を包む命の連接が懐かしい

ま〜
そんなとこです

胸のおもむくままに生きること

まるで養殖場のような学校の人工の箱ではなく
行けば全てがわかります

頭で考えすぎると
きまって厄介な事になると

イヌイットの話を憶いだす

水が流れるように
ある日を境に自分の海岸へ
行き着くものです
その境は自分で気づく事
怖さを知る事
身の丈を包み隠さず見せる事

バーン!と行けよ

と言う訳です

大東亜戦争の穴

パラオはスペイン、ドイツの長い植民地後ドイツが第1次大戦に負け
日本が統治委託という名前で第2次大戦で負けが決まる迄
日本でありパラオであった

伝統的なパラオの
自然宗教は尊重しつつも
日本式の教育や天皇,神社、仏教、慣習、食べ物、言語にいたるまで
輸入し教えた訳で
植民地であるが
日本人とは良い関係の時間だった名残りが今もある

ハワイやサイパンも同様
観光で来た日本人がこうしたお墓に立ち寄る事は
まづない

しかし戦火と時代と国令に翻弄され
1銭5厘で呼びつけられた普通の人々が
ある日を境に軍人に軍属になり
縁もゆかりも無い遠い異国で
無理に命を潰した事実に
心を手向けて欲しい

理(ことわり)であり
由(よし)である

食べ物も無く
武器も無く
家族と別れ
故国を偲んで

大本営の命に
菊の御紋に
陸軍特有の命に
東条英機の戦陣訓に

翻弄された命

ここパラオも2万近い日本人が亡くなっている

忘れたら
あまりのかわいそうだ

パラオへ


今から33年前ある一軒の家族の家に
3日だけ泊めてもらい、島々へ連れて行ってもらった

パラオで最初のガソリンスタンドを経営し、長く政府関係の仕事や警察署長を務め、アコヤガイの養殖や貝の輸出をしていた
Raymond Akiwo 親父
大丈夫?OK~?と
ここは君の家だと思いなさい
冷蔵庫の中も好きに飲めば良いからね と
(たしかマウンテンデュー、スプライトが山のように)

こんな初めてあった外国でこんなに優しくしてくれる人が
いるんだ〜 とショックを受けた

満面の笑顔でいつも気遣い
海へ自らが操縦する船で岩山(ロックアイランド)へ連れて行ってくれた

そんな親父が他界してはや13年
あれ?
息子のパトリックが深夜の
空港に来てくれていた

再会である

やりすぎ


神様とは誰なのか?
いや一人ではないはずだ
日本書紀や古事記に書かれている証拠により
様々な色んな神様がいるらしい

書物を書いたのが人間ならばそれはフィクションの物語なのか?
それても見てきた事を紙にドキュメンタリーとして忍術書のように記したのか?
本当ならホピ族のように初期のご先祖や神様達が書いた石盤や
写真が1枚でもあればいいが

寺には仏は座って「いる」が
神社にはよりしろが代わりとなり(通信場)いつでもスタンバイしているが
じっさいには神様はその付近にはいるがその場には「いない」

よくわからないが
その昔はい石や木々や海を崇めてきた人々が
時間と共に成長し知的になり神社という
祈りやすい建築物ができたのだろう

明治政府により天皇のご真影と教育勅語に頭を垂れさせる、国家神道にズレて行き
東郷神社、乃木神社のように陸海軍の息のかかった,護国神社が神と入れ替わるが

いまだ僕たちはあまり理解してないまま、普通に神社へ行く
だからうまい具合に緩やかに神社は争いもせず
増えてきたのだが

例の檀家がいないから,参拝者が多くお守りが売れたり,寄付が少ない神社は建物をはじめ
その維持が厳しいのが事実である
田舎になると兼務している神社が多いため
荒れ放題の神社もある

鎌倉から江戸時代に宗派せいにさせられた我々

死ねばどうせ同じところへいく
どんなに高級な国産の石の墓は生きてる者の見栄だ
と言ったら夢が無いが
法然も,空海さんもその手法の差の違いはあるが
同じ峯に向かうルートの差である

荒行の坊様が
瀧もシャワーも一緒です
と笑っていたのには妙な説得力がある

東京をはじめ大都会の坊様はいい
地価が高いから、墓地の土地代がもらえる
坪単価は日本一の銀座の鳩居堂より高い!

いつのまにか長男しかはいれない独自のルール
で檀家が「ねずみ算」のように計画的に売れる技

あの言いづらいお布施や
言い値の戒名や
新しい釣り鐘が欲しいな〜とうつむき

贔屓の石屋や葬儀屋から
ありがとう!代がまわってくるから
牛や馬の車に乗れるチャンスがくる

インドから仏教が輸入され様々な僧侶により
独自の解釈と教えが作られていきながら
今でも様々な新興宗教がその教えの独自のルールと
集金方法を塗り重ねている

日蓮とて当時は幕府から
民衆をたぶらかす悪い宗教者として死罪になりかけた訳で

何かの1つの仏や誰かの(1人の生きた存在)に頼らせるのには
いずれその齟齬とズレが大きくなる

なぜって
人が考えて作った物だから

地球にはかなわない
地球に備わり
則して生きて行くしかない人間
あらがう事も無理で意味が無い
そこに色んな神様がいるらしいなと感じ
おのずと自然に正しく生きて行き
自然に祈るのが本来の人間なのだが

どうも金儲けに夢中になりすぎた
あらゆるものをぶっ壊し
もはや車でない、営利目的な自動運転の車
ジャンクな洗剤や、イサギ悪い電子レンジを売りつけれる

なにはともあれ
つべこべ言わず
その美しくも怖い世界に身を置く事で知る

人間が現代の技術で八ッ場ダムや海岸線を存分に破壊は出来ても
元の同じ姿は作れない事実

俺たちやりすぎだな・・・・

いつか天罰がくる

消えて行く時間

何かがある
と感じた訳で

理が生じ
由があとからついてくる

カメラも文字のなかった時間
その何か伝えたく
その場にとどめておきたかったから文字が生まれたように

その場に
少しでいいから
他の人々がわかりやすい
よりしろ があればいいのだと
鳥居や社が生まれた

那智大社と青岸渡寺
神仏習合の正しい日本の昔のままを
この地で伝えている
建物は大事だ
建物はコンクリートビルより昔ままがいい
という都会から来た都合のいい我々
実際に維持をするのは大変な事です

やはり時間が染み込んだ,風景に佇む建物は美しい

そんな風情と絶景と下界を見晴らす山に
2000年に渡り,数十億人の日本人に祈られ
受けつがれてきた何か

色々な地球へいってみたが
どうしても日本のような
つつしみ深く
清廉な祈りの何かが
留まる場は

この地球上に滅多に無いと知る

自然という言葉を強制される以前から
あった山々と海と瀧と川
その美しくも怖い地球の中で
感得し感じた人々の5感以上の直感で
こうした聖域が自然発生してきた日本

地球と共に?地球のわずか後に?
神様が来て?物語が作られて?
仏さん達が輸入されてきたのだろが

実は
人間がイメージした人間の形をしていない
ネイチャーの何かに絶妙でかすかすかなエナジーや
気配や波動を感じた訳でしょう

社は気持ちが持続しやすい
イメージの物体で
そのおかげで普通の僕たちも
忘れずにお参りしやすい訳です


玄人の人々が
この山や瀧にこもり修行し
極楽浄土を目指し小舟で海へ流れ
たおかげです

日本はそうした
いわゆる修行者が過去数千年に渡り
他国にくらべ抜群に多く存在し

その地球を観察し一体化する中で
抜群な感性と観える力や描くことを
錬磨し
渡来系の情報や技や密教とも
絶妙に溶け合いながら
来た今はある意味祈りの絶頂期でなくては
ならないが

電気仕掛けのジャンクな物に操られ
町の暮らしで失ってきた時間や心

怖く美しい地球を忘れた我々は
そうした畏怖や力を毎秒失っている

数千年の祈りの技のともしびを
この僅か100年で消そうとしている日本人

日本を破壊しているシロアリは日本人そのものかもしれない

それでもこうした山にも
特殊な力を持続し
特別な祈りを森羅万象へ捧げる
人々がいる事実を
忘れてはならない

那智の滝とクライマー佐藤裕介。

遥か昔
今から2000年前から
この瀧を目の当たりにした
ある人が
ある人々が

抱いた畏敬の念

そんな純粋な祈られてきた
わずか130年前のある日
無理矢理力づくでその時間を,日本人の信仰心や憶い出を引き裂き
自然という人造の「線」が
明治政府により引かれた

政治家は
修験道廃止、様々な古武道、呪術や骨接ぎの禁止、廃仏毀釈など
近代化という名の元
西洋の工作員のいいなりのプードルである姿は変わらない

2012年7/15事件が起こる
そんな日本人の祈りに護られたご神体の瀧に
金具を打ち込み登りそこなった馬鹿3人
ゴールドウィンのスポンサーも受けていたプロクライマー佐藤裕介と大西良治と宮城公博が
逮捕される

日本の数々の山で、同じような愚行と奇行を繰り返してきた佐藤祐介
今でものうのうと山岳ガイドをし、WEBまである図々しさに
知性のかけらもない

那智大社の朝日宮司のお怒りも
地元の方をはじめ,世界中の怒りを
未だわからない佐藤

このご神体に傷を付けながら登るなんて
恐ろしい無知な3人

あまたの修行僧や修験者が民衆が徒歩でここに佇み
命を掛けこの山にこもり
瀧に打たれた信仰の染み込んだ領域
世界遺産というブランドとは別な次元の尊い場

京都御所の侍、文覚がおなじ京都御所の侍の妻と恋に落ち
ある夜「かけさごぜん」がワザとその寝間に寝た為、誤って殺めてしまった。

その日から彼は人生が変わり修行に出る
真冬の那智の瀧に打たれ2度死んだが

不動明王の使い、矜羯羅童子、(こんがらどうじ)制?迦童子(せいたかどうじ)
に助けられたという逸話が
国芳から弟子の芳年に受け継がれ
明治20年(1885)の浮世絵にもなっている

筋彫りまであり、おそらくみじんのズレも許されなおそらく7〜8枚の櫻の版木が
1885年神田鍛冶屋町の名人 刷師 長谷川常次郎のもとで刷られた

その数年前の明治17年には、木曽御岳山の池に住む龍王の託宣により25歳で
出家し、木の葉の衣装をまとい大峰山で16年もの修行生活をした、荒行の行者 林実利(はやしじつかが)
がの瀧に身を投じ捨身入定(しゃしんにゅうじょう)した。

ユダヤと明治政府のそうした、見えない力や先人の祈りを排他し
宗教の合理化の愚行に反発した身を以て伝えた結果なのかもしれない

今の日本は
地球の恐れを
地球の畏れを
忘れている

ひねれば水が出
スイッチパチリで電気がつき
いかす植木を部屋に置き
奇麗な公園を見せる犬と散歩し
正月や都合のいい時だけ自分勝手な願い事

佐藤祐介もしかり
日本は今乱れている
から

こうした天然の古来の人々が崇め
護った聖地に囲まれた日本を
もう一度よく観るべきだなと
改めてこの飛瀑の前で感じた

文覚さんを始め
この地に住む天狗 那智滝本前鬼坊さん
龍神様へ
言葉と祝詞を捧げた

神倉神社

清水の湧き出る
急激な岩の階段に佇む磐座の神社
古代の人々がここを
祀った事実を
純粋に感じる事が出来る磐座である

神が降臨し
ある種の太古の地球と宇宙を知る
この石が発する力に
圧倒された

速玉大社


しいの巨木と掃き清められた那智白の
静かな地元の根付いて来た風合いが
色濃く残る聖域である

キリストによる浸食

千葉に広告の撮影へ
朝と夕暮れの数日間

存分に海の力できれいになった
瀧行と通づる
感覚であるが
サーファーがもし
幾ばくかの
祈りの言葉を心にのせたなら
海との深遠な繋がりを
海もサーファーも感応し合え

その場や水さえも浄化され
聖域とよべる鳥居のない神社のような場に
生まれ変わるとおもう

夢中で
無心で
波に乗る
この行為こそが
地球との美しくも恐ろしい連接を
知る

オリンピックでサーフィンが選ばれた
ようだが

サーフィンは英語であり
新島の波乗りがその昔木の板で遊んだ
ヘイナル なる語源からも

サーフィンは競技でも競い合う事でもない事は明らかだが
例の厄介な金に汚染され
サーファーはサーフブランドの衣装で海岸に現れ
サーフィン大会なる奇妙なルールあるスポ?ツに溺れる

こうして海への祈りを失って行く姿は
キリスト教を押し付けられた南太平洋の島々の現状に似ている

例えば
本来は自然の神への祈りごととチャントと呼ぶマントラを
人知れず唱えた行為ハワイの祈りの舞

日本人によりブームとなり
アメリカの51州目の国に占領され
どうしてあそこがアメリカ?なのか
と歪み続けながら
アロハシャツなる妙を生み
フラダンスなる言葉にかわり
カリフォルニアの砂を輸入し作った
人工海岸ワイキキでパンケーキを食う時代

ワイキキを筆頭に
古来の祈りの聖地の多くの海岸や環境が破壊されている

もともとはネイティブでアニミズム的な純粋なハワイの祈りの舞
フラは実は歴史が浅く250年前後前,例のマゼランやザビエルのバテレンと並び
地球の伝統的な祈りや国を破壊し旅したユダヤの工作員クック
がカラカウア大王からどうにかして騙して譲り受けた
チャントの経本がニュージーランドで近年見つかったらしい
つまり文献としては江戸時代程度

その歴史は忍の技のように
奥義であり秘伝であり
口伝であるから
一子相伝的な伝説により
その時間つまびらかではない

本来は森羅万象への感謝の行為が
キリスト洗脳工作員により一時は禁止され抑圧され

日本では月謝制の教室となり
フラダンスと名を変え
アメリカ人が考案した派手な花柄の衣装をまとい
おどるのだが

ラトビアの寿司屋で
白人がはちまきをし
寿し風の妙な寿しを
まるで日本のままの雰囲気で
騙して食わせるのと
同じ香がする

ハワイの舞もこの100年で
フラダンスになり
古典的な色を残した舞カヒコが純粋な流れなのだが
これは個人的な相当な修行のような訓練がいる為「教室」に成り立ちにくいから

集団で踊る手軽で
お気軽なサークル的な芸となり
本来のハワイの文化を破壊している事実

良いとか悪いのではないが
長い時間のなかで生まれた
純粋な行為と地球への所作の作法が
年々失われ
地球をないがしろにする人々が自然に増えている

日本とて
伊勢神宮の手水を口につけて飲んだり
帽子やサングラスのまま
願い事をしてみる人々をみると

どうなっちまったんだ?
数千年間に渡り
先人達より手渡しで
精魂こめて受け継がれてきたこうした
行為が
明治政府の工作のわずが130年で破壊され
国そのものまでも解体されつつある

天皇陛下の意味
君が代の意味
八咫烏の神話など

毎秒毎分
日本も浸食されている事を
忘れてはならない

真珠利権とユダヤ汚染


伊勢から結局鳥羽に泊まる事にした

パラオににた、岩山とラグーンの海
いくつもの川から集まる栄養が
アコヤガイに核を埋め込む真珠や、牡蠣の養殖に成果が上がる

真珠はその昔、例の世界の人種差別や奴隷制度やキリストを置き土産にした
コロンブスがみつけ
当時はダイヤより高価な為、競って潜りあさった
バハマの漁民はコロンブスとスペインの過酷な労働(潜水病など)で
種族が絶えたという
ペルシャではその後穫れなくなり、石油ビジネスへと転嫁していく
美しいばかりに、利権と金に塗られていった真珠

キリスト教のおかげで,純粋な南太平洋の人々を謀り
おおくの美しい島々の伝承と環境が
破壊されたか、事実を知ってほしい
キリストが一番で自然はどうでもいいという
思想により大事にしなくなった結果が今だ。

キリシタンから日本や天皇を護った事は本当に大事な事だった
日本の磐座や瀧をはじめとするある場所や
神社の思想は「あさはかな人間 ひげじじい]の強制やルールに従わない物への殺戮など
とんでもない新興宗教だ


そんな世界を牛耳るユダヤがしきるダイヤモンドと,全てのスターウォーズグッズ(ジョージルーカスがユダヤな為)

アフリカで奴隷として売られた子供が何か教えられないままに穫らされるカカオ(チョコレート)や金
フィッシュバーガーの白身フライ、タンガニヤ湖のナイルパーチなど

奴隷のような搾取と争いの煙の先に隠しつつ
奇麗なショーケースで法外な値段で売られる事実

子供を塩漬けにした恐ろしいシンタクロス(サンタクロース)とキリストが裏で手を組み
いつの間にか12/24.25をクリスマスと命名したプロパガンダは意味が分からない
馬小屋で生まれ?、はり付けになり?、なんで塩漬けのじじい?でお祭りなのか?
日本はぐちゃぐちゃだ
戦争に負けたある日を境に
数千年もの間、神に捧げ,神様の衣装になり,神の薬草大麻が禁止になった事実
今でも,神社のお札だけは大麻と呼ばれ名残が残っていますが

地球のあらゆる物も空気も水も
もとはタダなのに・・・・・
不思議ですね

話は戻るが
やがて明治に日本のミキモト氏が養殖に成功し
巨万の冨を得るが、白人の利権にまつわる攻撃を受け流し
現在に至る
光と闇に輝く真珠の魔力

養殖は、マグロやハマチやカンパチ,高級魚ハタや
海に病原菌や藻を殺すためホルマリンを撒くトラフグなど
社会問題化されてきた。
卵から基準サイズ〜売値迄、ホルモン剤や薬品に管理され
た「にわとり」ブロイラーやネグポンと同じ計算された人工の魚風である

環境のダメージは図りし得ないが
地球の天然資源をイナゴのように食い尽くす我々

美しい海に、繋がれた筏は地球の未来を漂っている

伊勢

昔はこの五十鈴川で禊ぎを(沐浴)して清め
神域に入ったというが
何千年と続いた行為は僅か100年で消えてしまった

それぞれに
それぞれの

何かを見つけにここにいる事だけは
変わらない

内宮


実は9月に写真集Blue Forestがご奉納させて頂く由
あまりの、お伊勢さんの勉強不足に
ご挨拶に詣でました

外宮から内宮まで車で10分だが
昔は歩いて1時間

こちらは参道も食べ歩き自由の
観光地となり

厳島神社と同じく日本中の参道が「神様の道」の
ルールを外れた
おかげで観光業はピカイチ。

純粋なお参りでお賽銭に財布を開くのではなく
観光地として商売のため財布を開かせる
技が冴えている

やはりこれだけの広大な土地と、建造物、庭師,神職の
維持は大変なな事だから

例の赤福ではないが
多少の光と陰がなければ
数千年にわたり
維持出来ないのかもしれない

ここまで人気になると
ディズニーランドじゃないですよ

神様の場でのマナーを伝えないと
いけない次期かもしれません

Gegu Ise jingu


生涯に1度はお伊勢参りを
と願われてきた
ほんの140年前

今では、交通網の過剰なスピードと
自然の破壊で数時間で行かれる事実

同時に過剰な情報網で
観光客は増えたが
本当の意味での参拝者は
昔に比べ減った訳です

それなりの年齢の方が
手水の柄杓で口を付け水を飲み
注意すれば喉が渇いたから
と言い
参拝を前に一組づつ
真ん中に並んでしまう行列

帽子をかぶったまま
お辞儀をしてみて
願い事をする大人

来た気持ちは素晴らしいが
間違えがわからない今

本殿の写真を撮るなと言う
お役目の警備員よりも
参拝者への指導員が必要だ

早く便利に来てしまったおかげで
ゆったりとこの森と祈られてきた不思議に
畏敬というと、難しいが
相手や他人の場に
気にかける
気持ちが薄いのだろう

それでも
数千年同じ地に佇む神様の
不思議な場である事は間違いがない

この日本の秘密が
隠された森に
人々が護り
魅了された謎を
僅かでも感じたい

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