北大路魯山人 白崎秀雄 著 文芸春秋 昭和46年発行
を今は亡き陶芸家でジャーナリストの父を持つ
アメリカのビンテージカーを輸入販売されていた友人で先輩
本人 安江武士古より頂いたのは今から3年前
お父さんから古武士のように生きろ!と命名されたと聞いた
美しい魯山人の描いた文様のケースと
オレンジがかった丁寧な装丁と独特な字体
それは不信というタイトルから始まる
当時の魯山人が経営し,素材のままの味と
器まで一体となった名物はグルメや知識人から絶大な
評価を受けたが
最後は、骨董品収集やその言動で自身が追い出された
赤坂の星岡茶寮「ほしがおかさりょう」
素人であれだけの作品や派手な影響力と
結婚7回を含めた
そんないで立ちで
多くの正統な修行を通過してきた同業者、業界人らから
賛否揶揄されていた時代
料理は器から自分でその料理や自然感にあわせたもの
出なくては、駄目だと行き着く迄の時間を
魯山人亡き後に,魯山人の作品や当時関わりのあった膨大な人々の
インタビューへ流れる美しい文章
ピカソや日本画家 河合玉堂をはじめ
他に対して甚だしい誇大妄想的な言動の多く
はじめは瀬戸や加賀から焼き物職人を連れて来て
他人がこね焼いたそれらに絵付けをし
自分の作品だと言う詐欺まがい
しかし魯山人没後(たにしがもとで病気とも)
白崎さんは
ある場所で出された
伊賀シノギ皿に驚嘆する
「私はある料亭で鮎の塩焼きを出され、笹の葉を敷いてそれをもった四方の皿との配合の良さに
思わず箸を置いてしまった。
黄釉の陶板の四方をうねらせ,変化を付け、横へ数条の溝を抉り(えぐり)
そこにガラス化した緑色の釉が、せせらぎの岸辺の水のようにたたえらえている
その上に横たわっている鮎はいのちあるものの様に鮮やかだった
いや,それは単なる料理を盛る器物を越え、明らかに鮎料理そのものの,味覚の1部を形成していた。」
中略
洗わせて手にとる
その皿には、要するに圭角があり(丸いのだけど角がある意味)
角が立っていた。思えば魯山人の藝術は、その基本となす書や扁額にしても
いわゆる和風を尚んで日本的な柔らかみをたたえているものでも、ただ柔かいと
言うだけではなかった。常にどこか鋭く屹立(きつりつ 険しくたつ)する圭角をひそませていた
魯山人が生前
昭和8年刊行 魯山人作陶百影解説の序に
なぜ作陶を志したか という一文に行き当たった
魯山人はここで魯山人は今まで上絵だけつけて魯山人作の銘をつけて来たのは
「一種の詐欺行為であった」と記し
つづけて「制作の全てに当たらねばならぬ」と覚悟し
「そこで手元に窯を築き,轆轤場(ろくろ場)を設けるにいたったのだ」と述べていたのである
すると魯山人は鎌倉に築窯してからは
全ての作業にあたったというのであろうか?
魯山人はそうとは書いていなかった
読者にそうとしか思われぬように書いて
実はそうではなかったとすれば、この表現の狡猾(こうかつ=ずる賢い)
さはきわまっている
その心事は,又頗る(すこぶる)わたしの興味をそそるものだった〜
奥深いな
北鎌倉の円覚寺のすんでいた,変わり者のひいじいさんも
魯山人とあったのか?聞いたら
現在86歳の息子は知らない
と
にべもなく
かけいのある 庭を見て
そうだ
むかし横須賀の議員秘書だった若かい小泉首相とは
横須賀線車内で酒飲んで仲良くなり
友達だったな〜
それは知ってるが
なんだ魯山人とは関係ないのか・・・・
しばらく
して
おまえさん
そこに魯山人の皿がちょっとあるから見てみろ〜
何だ!あるじゃないか!
ちょっと
関係をかすった話し
やはり確信しました
写真もその場で
覚悟を決め
大胆に見ないで押す!
頭で考えぬいた気持ち悪い構図や
写真家の気持ち悪い念や想いは
策者である
Photoshopで合成加工し
いじり倒した
こずるい写真
の蔓延した
写真機が出来100年の今
写真でなくグラフィック作品と呼んでくれ
撮れてないの
撮れた風
は
弁当の鮭はにじますなのに鮭と書き
いわゆる天然風ブリや
大分産ブリ
すしざんまいの本マグロ(天然とは書いてない)
と同様に
狡猾である
そんな狡猾な日本人が増えた事に
侍や忍者はあきれています
日本人は絶滅したのか?
何処いった?
考えず行動
つべこべ言わず
感がえて
勘えて
やってみること
四角い学校や塾の競い合いや記憶力順位の意味の無い
事を知り,子供達は自身を取り戻すように!
大人が自分が自分を
養殖マグロにしてしまう世相に
上野動物園の動物は幸せか?を
よく知る
影と光
を生き抜くこと
1枚の写真は人間界を越えたその証明です
そんな事を憶いました