Uncategorized
水の惑星
海に真っすぐ
有機体
よく
砂は元々岩や珊瑚が
果てしない時間、摩耗してできた粒
その作品に風が砂紋を作る
波も風と水自身がつくる
水自身とは妙な言葉だが
水は1つでなく、いくつもの水素の集合体
理屈はともあれ
砂も水も同じ波模様になる
海底の砂も同じ波になる
地球のものは四角いものはなく
全て丸くなる
円運動で回転する
トーラスであると言われている
永久的なエナジーの繰り返しが
さらなるエネルギーをうむ
風、月、潮の干満、低気圧など
湖面の様な海も
瞬時にいや,やや遅れながらドミノ倒しの様な
エネルギーの連続で変化する
そうでないと
ずっと海は荒れている
永久に海が荒れ
太陽がでなければ
地球の生物は死に絶える
その美しくも厳しい地球は
常にニュートラルであり
環境に反応しているだけだ
受け身とも言える
しかし
地球の池である海が
このわずか100年の排水や石油製品やプラチックゴミ
さまざまなゴミの海洋投棄や防波堤工事で
いずれは埋め立てられてしまうかもしれない
人間の欲は止まらないものか?
陽光
禊ぎ
謹賀新年
予感
魚が知能がないなんて
嘘だ
明らかに海を知り尽くし
海流や波が危険な事を知っている
絶対に波の崩れた場所には
いないようにしている
実は観察し魚から波の抜け方を
教わった
タヒチの横で
帰り道がわからなくなると
魚の群れ現れ教えてくれた
これは本当だ
昨今の狭い水槽に金魚を詰め込んでみせる
アート?程
ひどいものはない
透明な水槽でライトを横や下からあてるのは
ストレス以外のなにものでもない
水も悪くなる劣悪な
おせちの様なぎゅうぎゅう詰めの箱
魚は光を背を向けるようになっている
海で逆さまに泳ぐ魚はいない
あれは皮肉な事に実は
人間の欲と傲慢の現れをさらしている
無理に無理をかさね
命なんて何とも思ってない人間の証だ
協賛する企業も
地球を俯瞰してみなくては
マイナスのイメージだ
鯉の滝登りは
落下する水の分子の
普段より固まった水の固さを利用して
ヒレと体でぐいぐい登る
波の中に体があっても
足ヒレが水面にでたら
空を切り
その場から動けない
逃げる事もできない
あえて大波が来たら
その懐にいきよいよく
潜り込んで逃げる
あまりの波のルールに片足が空中を蹴る事もあるが
慌てず体をくの字に折りながら頭から水中へ沈み込む
この写真を撮る以上に
何百回も潜っては浮き上がる
繰り返し
水を感じる体術的な技術と感覚がなにより
どんな波に巻き込まれても
あきらめない心
健康第一
心身清浄
道具は一流
海を楽しみ
わくわくする自分に自画自賛!
あとは無心で押すだけ
海はいつでも待っている
包み込み
美しく
厳しい
ただそこにあるだけ
いつでもいい
静かに海を見にいくといい
波音のあとに
予感を海は連れて来るから
やがて
音ずれの中に
光がみえるから・・・・・
なんでも黙ってやってみる
流れる
近江八幡
以前から気になっていた
ご先祖の地
わかっているのは江戸時代から
明治にここ近江八幡の永原町から
どういう訳か大正はじめに築地の波除神社の前に
一族郎等大移動した
戸籍謄本でみて訪れると
朝鮮街道とも石碑のある1本の道の両側に、黒い杉板の家々
このどこかにご先祖がいて,この琵琶湖に近い平らな地
昔、朝鮮から人々を招いてもてなしたようで宿泊の地であったようだ
その2本隣の道にひいばあさんの実家があったらしい
が何処だかはわからず
県が助成金をだし
昔のまま風に維持しているらしいが
これが一昔前の何処にでもあった日本
東京は震災と空襲により
おかしく変身したが
ここは戦災にもあわずに昔のまま
和菓子でっちようかんと、宮司の関係である和菓子の包装から味が美しい「たねや」さんを
境内に抱える「ひむれ八幡宮」と水郷を中心に
通りが碁盤の目のように走る
この辺りの大小関わらず,先祖がお参り下であろう
寺社を
見つけ次第御参りした
ご先祖を知っているのは
神様とこの社や木々や水郷の水であろう
先祖から水と関わりがあるようだが
近江商人の血はどこへやら
ひいひいじい様は江戸時代 水口久兵衛というらしい
会いたいな〜
魅力
明け方
琵琶湖と比叡山を模して
松尾芭蕉の句碑もある上野の忍の池と寛永寺を作ったのは
伊賀の瀧寺を菩提寺とした,徳川のお伽集、元津藩 藤堂高虎
その無足人(地侍)は松尾芭蕉の父
祖父は信長と戦い討ち死に
裏では徳川を操作する天界が作らせたという
藤堂高虎の江戸屋敷は
駒込南谷寺(なんこくじ)
赤目不動を祀る
江戸時代には井伊藩にこちらの忍び40名を返せと書状も残る
が
それは1581年の信長の死ぬ1年前に起きた伊賀の乱
この日を境に伊賀の民や地侍や忍達の人生は
変わらざるえなくなる
神社,仏閣が焼き払われ、女子供も容赦なく切られたと
そして全国に伊賀者、忍は身を隠し
傭兵として雇われ散って行く
その藤堂高虎の位牌があり
徳川に背を向けるように位牌を
祀るのが伊賀の赤目滝にある
天台宗延寿院
ここが忍の基地であると
感づいた信長に焼かれながらも
灯籠だけは当時を知る
最後に伊賀の人々や忍が
ろう城した
柏原城もすぐ近くにある
最後は全滅ではなく
徳川に現況を書きつづった
服部家
そして何らかの工作の上
猿楽師により信長もあまりに抵抗がすごく
降参しない伊賀忍に手を焼き
毛利達の動きも心配になり和睦したという
話は飛びましたが
信長が比叡山に火を放ち
700〜800人の僧侶,女子供を殺戮したのは1571年
琵琶湖にも
湖畔にも伊賀町、甲賀町があったそうです
京都の北東部、鬼門にあたために最澄建てようと!と言ったのが始まり
そもそもは大山っっっくいのかみ (山神)を古来から祀っていたが
788年に中国系の薬師如来を根本中堂を建ててから安置
日本の中心,日本式仏教の編み出された地
当時の最澄さんを先導に
鎌倉時代以降は法然、日蓮、栄西,親鸞が修行したのに
日蓮宗と天台宗は口喧嘩を越え闘いに
群れになると
よろしくないいいのか?
当時のあまたの仏教考案者のあこがれの地
なんらかの彼らを
惹き付けざるえない時間と
何かがあるようです
今の延暦寺はどうでしょうか?
夜光虫
延暦寺
雪の舞う
延暦寺へ宿坊は新しくなった
延暦寺会館
一杯か?と思われるような
予約係の話しとは裏腹に
3人しか宿泊客はいない為
静かだった
根本中堂はただいま修復大工事中
僧兵が自然発生した背景も
日蓮宗と戦いや
信長の殺戮と焼かれたことは
どこにも書いてなかった
天台法華経
日蓮宗は法華経
と,強固な独自の考え方でせめぎあった経緯は
ともあれ
当時はまだ新興宗教だった各宗派の
マスター達が修行した聖地
よくもここまで
歩いて登り
この地にお堂を建てたものだと
彼らに
ここを選んだ理由を聞いてみたい
中国から来た最澄さん
空海さんも仲良くあの世で
足をほどいていることでしょう
平和がなにより
根本中堂の薄暗く
数段低くなった薬師如来を安置し
祈る場は独特だった
何かが集まっている
聖域であり
よく来てくれましたね
という暖かな感覚だった
古い祈りを吸い込んだ
古木と薄暗い不思議な空気でした
なんだか
夕方もう1度行きたくなり
独り静かなお堂で
お祈り
琵琶湖
景色に溢れる人
Kyoto
amino
楽しみ
守山さん
丹後 あみの 守源 Syugen at Tango Peninsyura
丹後
少し未来から
過去と未来
人物の撮影依頼が増えて来た
人はは波と同じく
一瞬
玄人のモデルではなく
いわば普通の人を
まわりこんで
すれ違い様に写す
一瞬
どうも波と同様
少し先を写す事と知る
今は
もう過去だから
ストロボはなるべく使わない
あるがままの光を読む
しかしポラロイドもいらない
昨今の電気製品なカメラ
もはやデジタルカメラは写真機ではない
フィルムも買いにいかず
現場でフィルムも用意せず
ポラロイドもきらず
露出計も使わず
大事に持ち帰らず
現像もいらない
便利と安易
しかしながら
かわらないことはある
この辺りを1枚から教えられる
嘘をつけない彼らの目
写真の過去と未来
懐深い写真の魅力
日本に来た
沖縄戦や水俣病を写したユージンスミスが
日本で撮影したプリントや
撮影を共にしていた
我が師 柏原誠
「おいおい
きみきみ
所詮写真機は道具よ」
おまえさんの気持ちでバーンと!
行けよ!
と言っていたのを憶いだす
この写真はTED長尾さん
数々の著名なアーティストの荒波のプロデュースを
こなしてきた顔
和太鼓 林幹と我々を異次元へ
誘い込む業師である
Tedさんいつもありがとう!
来年は一緒に展示イベントをします!
寒中
謎
小部屋
日本離れ
留まり続ける祈り
1200年
高野山
作品について
このところ
お客様より展示会の時でしか
販売はしてないのですか?
とご質問が寄せられています
芝浦のオンワードさん始め企業様以外にも
一般のご家庭にも飾って頂いております
こちらのご案内不足で
今迄は波と同じく一期一会で個展中か
一度ご購入してくださったお客様しか
知らない入手方法でした
現在はWEBでこれ!とご指示くださるか
当方のデータカタログのようなシートを見て頂き
選んで頂く方法です
来年6月に向け都内にギャラリーを
数年前ご一緒に展示させて頂いた
隈研吾さんとのご縁で御願いしています
そうなれば皆様にいつでも見て頂けると思います
ちなみにこの写真は
真冬の伊豆の海の御来光
波よりも
早起きと気絶しそうな寒さとの戦いです。
昨年伊勢神宮にご奉納させて頂いた写真集を
お持ちのお客様のご自宅へ
まるで飾られるように
待っていた様な場所でした
「かざってから
家の中がなんだか空気が変わりました」と
うれしいお言葉
カメラを覗いて撮らず
色もいじらない
ありのままの姿です
海の神社と海で祝詞を捧げ
海中に漂いながら
九字切りという海への浄化と
いつまでもこの自然がありますよう
人々がその物語りに気付きますようにと・・・
人は小さなものです
海原に漂い
きらきらと輝きながら
全てをお見通しの朝日の中は
古来のままの地球ともう一つの宇宙のです
メインのサイズはW900×H600ですが
W750など場所によりサイズはいかようにも出来ます
無理に大きくしてもお部屋の流れを駄目にします
又このように写真を吊るギャラリーレールも施行できます
業者に頼むと高いですが
材料費で施行させて頂いてます
額装や実は未公開の写真もありますので
ご興味のおありの方はメールをくだされば幸いです
お気軽にどうぞ
作品にはシリアルとサインを手書きで御入れし
展示した場を祝詞と九字切りをして祓い清めます
実は僕の広島の海の先祖は風早にある
祝詞八幡神社の宮司の家系で
きっとなにか繋がりがあるんでしょうね
虚
最近の若者は!ではないが
最近のカメラマンはPhotoshopで色付けし
撮れてないのに撮れた風に
自分風に書き足して修正してしまう
もうこうなれば写真ではない
そもそもカメラは人間が作った
不思議な時間を止められる機械だが
実は大事なのは印画紙
こんなものを実験し
現実化し過去を止めておくなど
宇宙人ではないか?と思う程の発想力
で現実は
酢酸臭い暗室から流される
現像液は銀を含んだ猛毒である
その昔、90年代の終わり頃
町中のカメラマンは自宅や現像室からそのまま
下水へ川から海へ
師匠の暗室や自宅を締め切り
やってはみたが、ずるい事に現像作業は好きでなかった。
大量に焼くプロの現像所は一応
その全部は無理だが
その猛毒の廃液を
フグの内臓を捨てる業者しかり
その許可のある業者に売り渡す
すると現像もしない役人の描いた基準で作られた
東京湾の遥か沖なら流しても良いという
「基準とルール」に
船でバラまかれてきたのが事実
あれれ〜
美しい自然を撮りました!
といいながら、その裏面は水に流してきた我々
今ではカメラは電気製品とメモリーなるものに記憶
するから猛毒は現像時にはでないが
カメラやリチウム電池の生産過程ではでる仕組み
ならまだ地球に優しいのか?
すくなくともカメラメーカーも
数年ごとに,本当は数年前に開発したのに
あたかも新しい物として
ちょい出しして
売りつけるのは
数年後壊れるように作る車メーカーと同じ
泳がないと死ぬと勘違いしている今の経済
偉そうな人間の目で見た、地球の色が正しくないこと
人間が作ったカメラの方が正直な皮肉
日本の夕暮れの一瞬
この海を護る神社で祝詞を詠んでからパチリ
のファインダーの奇跡の瞬間
色々考え
教わります
泳力の彼岸
この日も大雨
基本的に天候は選ばない
クローズといって波がもう
ぐちゃぐちゃに爆発した時は行かないが
ここは沖から4〜5発のセットが来る
セットとはある感覚でまとまって来る数本の大波を言う(サーファー用語)
空が隠れたこれに巻き込まれた
胸に恐いアドレナリン潮が引くように集まる
ここで気持ちが引くと負けて腰の力がぬける
沖へ向かい片手でクロールするが
が間に合わず目の前数メートルで
崩れた6mの波
もう潜るしか無い!
ド〜ン!と
暗黒の泡と絵も言えぬ力に巻き込まれ
焦らないようにしたいが
水面方向に見える光の穴のへ向かう
水面で息を吸うが浅瀬にもってかれ
さらに巨大な波が崩れ
暗黒の洗濯機へ
頭が上を向き
なんとか口から水面に上げた瞬間に頭の上に波が!
もの凄い轟音と闇
空気をあまり吸い込む時間がなく
水を飲みながら巻かれ
水中でもがいてしまう
本当に苦しさと
恐怖で胸が潰れそうになる
片手にカメラだから
片手で水中を泳ぐ
4発目が来たら
もう肺にも体にも酸素が無いから
まづい!と感じるが
4発目は来なかった
ぜいぜいしながら斜めに右へ右へと
水面を片手でクロールした
身を以て知った時間は
忘れない
海はわざと命を奪おうと
した訳でもなく
あるがまま
ありのままの地球と海
に小さな人間が間違っていただけ
半端なく喉が乾き
心臓がドクドクしている
泳力の彼岸で・・・・
忘れ得ぬ今
心配のたね
水の隙間がきれいに並び
ゴミなどがない透明な水ほど
水同士が絡み合い、動きに反応する
これは水の分子レベルの話し
たぶん日本のゴミや汚れが水の中に(水の分子に絡む)
と水同士が水素結合しにくくなり
波もすぐに崩れたり
大きく空へ持ち上がれない
つまり腰がない波
だと思います
フィジーの離島の流されたら終わり
の外洋の水平線から常に奇麗な水と
波動を受ける場所は地球から日々絶滅していく
人工が増え過ぎ
人間が過剰な便利と過剰な欲により
原始的な地球に人間の都合のいい暮らしや、電気製品を
持ち込む程、その地球には必要ない
人間の便利と快適さが むしばんで行く事実
バリなんか良い例だ
海も汚れ
田舎の田んぼの真ん中に
今迄そこにはなかった高級ホテルとテレビが持ち込まれ
そこから眺める景色が素晴らしいと売り込む始末
自然と人間界のせめぎ合い
ホテルから見る景色は素晴らしいが
反対から見た景色は最悪だ
思った程早くに、このままでは青い海も
青い地球もいずれは絶滅して行くに違いない
地球の海に垂れ流している、汚水は
徐々に遠くに流れ
その離島にも他の国から余計な
電気製品やビニール袋をはじめとする
島にはなかった石油製品が輸入され
海と島から汚れている現状
どうしたものか?
どうすればいいやら?
昭和30年代の環境を考えない破壊と汚染をした日本が
世界の島々で繰り返されている
50年後この海も
村もどうなる事か?
目先の心配のタネをまく人間達
自動掃除機なんて馬鹿だ
電気に依存する暮らしはうんざりだ
といいながらパソコンを使う俺
在中
実感
沖合300m
クック諸島ラロトンガ島
満潮の1時間しかはいれない
一か八かの場
美しい神様の住まう海
海の神社を祀り
しめ縄と結界があってもいい
不思議な場
泳いで片道20分
浅い体一つ分の海の隙間へ
鋭く潜る
常に刀の刃をくぐり抜ける感覚と
意識と集中力と7感を使い
襲い来る波を
人間界の時間を少しずらして動く
何を言ってるやら
わかりませんが
とにかく
日常の都会の感覚とは別次元へ
見ているものを信じない
見えて来る時間を信じて動く
無でなくてはいけない
怖さを持ち合わせてなくてはいけない
怖さに丸め込まれては行けない
この表裏一体の間に
身と心を傾ける事
海岸に戻ると決めた時
海岸に戻れたときの嬉しさと
安堵感
精神的にどっと疲れる
が充足した心地よさに
生きてるぜ!
と
笑う
明滅
太陽が明滅するのではなく
波動が動くたびにその水素分子の隙間や
狭間に光が反応する
光はただそこのあるだけだが
地球が動く事で
常に一定の光量がある太陽が
徐々に赤くあたることで
人はその現象を「日の出」と呼ぶ
日の出というもの
は存在しない
その方が新しい感じがする
もっともこの冷たい水中でも
その光の訪れに
暖かさを感じるのは
野生に生きていた時間の記憶が照らされるのか?
いずれにしても
世の中のものは人間が勝手に名付け
勝手な解釈でそもそもの色を
濁らせている事を忘れてはならない
その場で
その時間と
そのときの自分の心で振動した
全てこそが正しいと
忘れちゃいないか?
たいせつなこと
実は微細な風のかけら