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芯忘却せず

闇から光
山に埋もれたままの忍者たちの魂が
家族のもと仲間のもとのに戻れるようにと
一人山や玉砕した城跡へ、お酒や食べ物を持ち
祈り始めたのは丁度、この写真を撮り始めた頃

ある日
ある偶然で撮れ始めたのだが
それだけではなさそうだ

間違った姿で伝わる忍者や地侍
派手にトンボを切り、手裏剣を投げ
ミステリアスでかっこいいと
漫画や海外で火がついたのだが

本当は自然や神仏、道教や儒教を柱に
呪術や体術は心である
と修練していた人々である

自分達にも正義があるが
敵にも正義があり
目の前の敵を切り倒さなければいけなかった葛藤

心の運び方
心の経験が武術的な一動きに
現れると知っていた

身体の導線や軸を
動かす順番に
意識と心をのせることを
熟知していた

今の日本には消えかかった大切な事
一人一人の精神性が高くなると
恐れるのは誰か?

波を泳ぐのも同じ事で
肘と指先の動き
足首と足の指の動きで水をよむ

もちろん心が真ん中になければ
怖さに飲まれ
逃げ後れるのだが

正直いつも胸が潰れそうな怖さが
ごく近くで見え隠れしている

透明な何十トンもの波の圧力を
よんでかわす
というと勇ましいですが

結局は波の裏を逃げている訳です

所詮人間の力のおよびもしない
場に身をいて修行するのは、瀧行や山伏の黙って山を歩け!と
同じ心の傾きと動きである

技は人を痛めつけるのではなく
そうしなくてもいいように、する為の修練

いよいよとなったら、必殺技をだせばいい
倒したら勝ち!の競技ではない

制するのは殴る事ではなく
気当たりの様な空間
ぶれないひかない心の鍛錬の旅スジに武術がある

忍が伝えて来た
正心であろう

正しい事をする

いや正しいというのも
おかしなはなしで

普通の事をしていれば正しいもない訳だ

空即是色
色即是空

自然の森羅万象が呼吸する時間と同じく
鳥や魚が青い風にとぶように
人間同士はもめることもないのだが

人の土地を欲しがり
そもそも地球にはなかった宗教をおしつけ
たりと、支配したがるのは何故なのか?

伊賀には3人の大頭の下
12 人衆の頭が村々と配下の侍や忍達を取りまとめいた

必ず、神社や寺で協議をかさね

伊賀をこの世から無くそうと攻めて来た
信長の様な外的を排除し
村を守って来た

信頼と暖かな人間関係、ときには裏切りもあったろうが
神仏や自然や太陽を尊んだ彼らは
今のこんな日本を見てどう思われているのか?

日本の為に腹を切って来た侍や忍び達の無念
命をとして未来の日本の幸せを願った英霊のみなさん

右とか左ではない
真ん中の話しをできる
大人が日本にはどれだけいるのだろうか?

松の木

ウブドは夜になと
各寺院で観光用ではあるが
それは訓練された、バリ独自のヒンズーの考えと

70年代にオランダ人が創作した猿の群れのケチャなど
たいまつの中、それは感動的だった
チケットは入り口辺りで、白い上下の踊りの関係者が数百円で売っていた

まだビデオや携帯、カメラのフラッシュをたく馬鹿も
もいなかったから

樹霊数百年のガジュマロの大木
自然な音だけの静寂の森に囲まれた
村人の芸術ではない神々の疎通ある舞は
すごかった

芸術の村と呼ばれたこの村には絵描きや彫刻家
舞を踊り、音楽を奏でる人々がすんでいた

ごく普通のおじさんが、すごい技をもっている

普段は普通の米を作るお百姓さんも
夜になると白い衣装に着替え
トランス状態になる

朝は当時ロスメンではやっていたのが
ジャッフルの様なパンケーキにパイナップルなどを
はさんだものと、細かい粉コーヒーが
ガラスのコップにそそがれたお湯をスプーンでかき混ぜるバリコピ

そもそもパンケーキは外人用で
現地の人はご飯と、色々なおかず
ナシチャンプルを食べる

僕もそっちの方が
現地感もありおいしいから
よく一緒にナシチャンプルの行商人から
かってもらい、一緒に右手で食べていた

右手は聖なる手
左手は水でお尻をあるらうから不浄ではないが
握手をしたら駄目といわれた

トイレットッペーパー恐怖症のいまの日本人は
何故尻を紙で拭く事が大事なのか?

どういう真理なんでしょうね?

十分で足りているという
心と
あるものでまかなえばいい訳ですが

正直いらない過剰な物質が反乱し
作りすぎな昨今
ビニールぶくろの前に
考える事があるんだと
教えてくれているのかもしれません

独り旅のように
都会にいながらも内観する

本日は東京も雨の打ち付ける情緒豊かな日

松樹千年の翠
しょうじゅせんねんのみどり

うつろい変わり続けるからこそ
変わらないものがある

よきむかし


94,95年頃のバリ島のチャンプアン川で釣りをする兄弟

この頃はまだ、日本の観光客もすくなく
欧米人の旅人がちらほら
高級ホテルもまだなく

ロスメンという安宿の生活排水がそのまま川にながされ
水は汚れ始めていたが

まだまだ昔のバリが残る
渓谷の桃源郷だった

今ではネットでホテルの写真も見れ
予約もできるが
当時は直接行くかしかなかった

ナビもないから 
バリの町の賄賂に腐りきった警官もいない
全部自分の目と足で歩いたから

分かれ道や細々な景色を覚えたもので
人間に大切な感覚や旅の嗅覚や様々
とにかく余計な情報もなく
静かだった

静というのは
けしてとりまく環境の事だけではなく

人と人の繋がりが暖かかった

旅人もわりと一人二人の旅人が多く
何かをもちながら
お互い苦労しながら同じ場所に流れ着いたもの同士

夜、裸電球の屋台でゾウムシの入った飯を食べ自然と話し合い

独り旅の寂しさがまぎれたり

なんだか今でも当時の音が景色となり
胸にのこっている

カメラもフィルムだったから
いつも予備や天候にあわせて色々持ち歩いていた

カメラはCanon Ae1 からNEW F1
シャッターを切るとチンと金属音がした本当の金属のカメラ

今のカメラはカメラではなく電気製品

古い時代を懐かしむのは
おっさんになったからだけではない

沢山の景色と無駄な?写真を写しては
捨て、歩いたあの時代から今迄の
人生のフィルムがどこかに保管されているようだから

ネットがない時代は本当によかった
過剰な便利と高速化した現世の暮らしは
地球の太陽の動きや、雨に包まれる海の呼吸や風や山に住む鳥たちの
時間にはそぐわないにきまってる

なぜなら人工的な人工的時間だから

今人間は
過剰な情報と安易に物が溢れれ過ぎた日常で
見失った景色がある

電子レンジなるものは
はっきりいっていらないのだが

スイッチ一つで電気がつき
自然の強さから逃げた都会の暮らしと溢れんばかりの物質が
人間と地球、宇宙の波動のリズムを忘却の彼方へおしやった

顛末

その人達に命を与えたものは風

わたしたちに命をあたえ

今わたしたちの口をついてでるものも風

風がやむとき
わたしたちは死ぬ

今でも指先のひふのしたに
風の道が見える

わたしたちの祖先が創られたときに
風が吹いていたことを
今に伝えている

ナバホ族の歌

北山耕平氏 ネイティブアメリカンの教えより

1992 年にあてもなくバック1つで
オーストラリアへ行く

その前の年に
仲間たちと、つらいライフガードの訓練とライセンスをとった
海岸へ戻る事だった

その海で再会を誓った友が
日本の海で死んだ
約束を果たす為だった

結局あてもなく行った上
英語も出来ず、朝一の不動産屋に行くも
帰れジャップといわれ
誰かが言っていた新聞になんか
家のレンタルはのってなく

家は見つからない

困り果てながらも
道路に座り100%オレンジジュースを飲みながら
笑った

急には見つからないと判断し

つかれたから
シャワーを浴びて寝たい
と思いモーテルに行くが鎖がかかりしまり

結局30キロはなれた 日本食マーケットのたて看板があると
去年きいたのを憶いだし

入れ墨に裸足の2人にバス停を聞き
30分ほど海沿いを北上した

2人は親切でこの辺りが
町の中心だからとおりなよ
教えてくれた

バスから折交差点へ向かうと
人ごみの中で斜め前にサングラスのアジア人のおばさんがいた

おばさんと目が合うと
あなたどこからきたの?
いつきたの?と
聞かれ

朝来ましたが
どこへいけばいいやら

あてもなくきたの?

日本食の看板があると聞いたんですが

おばさんは私について来てと
しばらく歩き、クアリアーケードに入る
水パイプやや飲食店や土産物屋のあるアジアンな場所

あの先が日本食マーケットよ
看板みえるでしょ あれよ

と指差す先に
探していた看板が!
早く行こうとすると

まちなさいよ
ここの人ならなにかしってるかもよ
とドアを開くと

白髪の角刈りのおじさんが
座りながらこっちを向いた

それが結婚式のツアー会社の社長横田さんだった

ねーこのこ朝きたんだけど
家も何もないのよ
あてもなくきたんだって
聞いてあげてよ


サングラスの魚住さんは反対側の日本料理屋さんへ行ってしまった

どこからきたの?
品川

俺高輪だよ

えー

学校は高輪の高松中学
と日蓮宗の学校

おい
俺の息子高松だ!
同じ中学か!

すると担任迄同じ奇跡

(余談だがここは、敵討ちの四十七士、大石さんの仲間が預けられた
細川藩の屋敷跡で切腹した場のとなり)

結果なんとかしてやるよと
話していると、たまたま奥に遊びに来ていた
別なおばさんが、あれ?うちの家の1部屋空いてるから
聞いてあげるようか?


皆さんの優しさに流れ
結局プール付きの家がその日に見つかった

夕方自転車に乗る自分が不思議で嬉しかった

何でも行動してみるにつきる

インターネットもない時代の旅の話し

バリにしてもオーストラリアにしても
まづは地図を買い、助手席にひろげ
レンタカーで、よさそうな宿を見つけては
交渉

事前にネットで予約など
できなかったいい時代

自分の感覚や足で歩いて
朝ついて夕方宿が見つかるなどざらで

時間はかかったけど
旅をしているな〜と
良き時間でした

話は戻るとそのオパール屋さんを経営されていた50代の女性の家の
地球の歩き方をこの後見てびっくりした本棚に
このネイティブアメリカンの本がありました

たしかそれは1992 年4月16 日の出来事

無我

身を守りたいという心は
意識分別に迷いが生じる

守り固めて交代する気持ちを捨て
無心に雲一つない意識分別に満ちた心になれば
奇跡的な力を発揮し
成功するものである

無我になると今の危機的事象の理を
明確に察知して
時折節での問題に対処可能な智略が湧いて来る
迷いを捨て
本能的な死の不安を捨てると

かえって生きて遁れることができる

万川集海
延宝4年 1676 年
江州甲賀隠士 藤林保武

伊賀と甲賀は本来仲良く
地続きなであるから

保武の先祖 藤林家(富士林家)の城とお墓は
伊賀と甲賀の境、湯舟であり
墓所は同じ道の正覚寺にある

甲賀の忍であるが
この一族は両方の特性を吸収してまとめていた
伊賀の3人の上忍の1人で
信長が焦土作戦にきた1581年後の行方は不明だが
高野山へ向ったらしい?とも
根来へ向かったとも

僕が必ず呼ばれるように参拝する場である

先の本をまとめたその子孫保武の墓は
伊賀上野の西念寺にあり

偶然なのか四谷にある服部半蔵正成の墓所も西念寺である
服部半蔵は愛知三河生まれで、松平から徳川について
江戸城の伊賀忍の護衛をまとめていた

このひとの先祖は 服部半蔵家長であり
壇ノ浦で平知盛とともに戦い
入水自害したとも
平家と忍者が手を組んで戦っていた?
(お墓は壇ノ浦の赤間神宮に)

伊賀の予野にある服部家の千賀地城に生きのびたと

実は壇ノ浦は僕の田舎で
赤間神宮の奥にあるお墓には、夏に行くとお参りをしていた

鬱蒼とした森と、耳無し芳一さんのリアルな木像が
なんだか悲しい雰囲気の場だと感じた
そう簡単には天国に行かれないのか

義を尽くし郷土を愛し
傲慢な敵にも屈しない心

神仏や自然を敬い
呪術や心の修行を重ね
星を祈った忍と地侍たち

裏切りや様々な時代にもまれながらも
信長とまっこうから戦った彼ら

間違った伝わり方の誤解が溶けることを願う

彼らこそが日本の誇りである

陸軍中野学校の授業に
甲賀の忍者の末裔をよび
万川集海は教本になった
CIAも買いにきた

そうはいっても
最後は、体験と口伝であるから

身を以て泳ぎ
波に巻かれる刹那に
光を探して…

無心

水の中は別な国にいるようだ

何が写っているのかは
後のお楽しみ

両目で見た瞬間に
考えないで押す

考えると
しゃしんやは絵をつくりたがる

あーしてやろう
こーしよう
昨今は写した後迄もパソコンで色をのせたり
いい所だけ切ったり、消したり
いじりたおす

カメラ1台フィルムをつめて
押す!気魂がない

あとでどうにでもなるから

撮り方も変わっている気がする

学校や
先生のお手本の写真や
同じ風景を三脚を立てて
パチリと写したら

生きた写真ではない

商品を撮るなら別だが

写真はその持ち運べる機動力で
共に被写体に近づいてい押す

出来るかぎり
瞬時に押す

迷い無し

少し先で自分とカメラと生きた被写体の
風が合わさる場所へ
カメラと動いて行く

この感覚は
波も人も同じだと僕は感じます

少し先を押す
迷いも入り込めない無の境地

捨身

地球は目に見えないウィルスが蔓延
原因はともあれ

実は海に「薄めて垂れ流せば大丈夫」と?ぶく
福島の放射性物質も海にウィルスを溶かす様なもの

魚や生物たち、結局はその海や自然界の生き物を食べる
人間を汚染するのだが

人間は欲深いものです

勝手な事ばかりして
都合のいい部分だけ、収束させようとしても
いかがなものか?

足ひれだけで海へ飛び込めば
すぐにわかるんですが

官僚先生
荒波へいつでもおつれします

漂流

心静かにゆるがせて(一事一物に擬滞することなく、常に流動自在な心の状態を保つ)

そのゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬように
よくよく、吟味すべし

1643年60歳で
熊本の金峰山の西の観音像を祀る
洞窟(霊巌洞)にこもり座禅修行をし
五輪書を書いた宮本武蔵

その洞窟の参籠を手引きしたのは
この洞窟にただならぬ何かを感じ
自らも修行をしていた細川藩老 沢村大学

57歳で島原の乱に参加した武蔵は
その時の縁で細川藩の手厚い憶いに包まれる

その死の間際には
友人,高弟らに形見分けをおくり
自省自戒の書 独鈷道を残したという

5月19日 享年62歳

ただならぬ何かを
胸の直感で信じ、自らの海岸を見つけ漂着した
日本人がいた377年前のお話

常々動く

改めて
泳いでみないとわからない
と知る訳だが

経験が泳がせなかった

こんな水際の波が崩れる磯で
きれいな形の波はがきたとしても
年に数度、海底の石が時折見え隠れする
浅い磯は危険過ぎ、浅すぎて
撮りたい写真は撮れないと

24年間撮れなかった海で
闇が開けやらぬまま、紅くそまった彼方から
太陽がきた

波なんて、形や言葉にこだわりを捨てて
水面が激しく動いてさえいれば
撮れるのかもしれないな

潮の流れの速い石の海はならば
水は透明なのではないか?

経験と考察や予測の
塩梅は自由にしておく

人間からみたら
自然は予想だにしない美しさと怖さで
ありのままそこにある、海が荒れようが
魚も海鳥もその真理にそっていきるしかない

太陽と海だけが、大昔から変わらない景色を見てきた
古老のような佇まい

人間が唯一
その不文律をぶっ壊している

自然災害は又自然に戻る
壊れても自然物だけだが

めまぐるしい開発という破壊の末の今の暮らしでは
ひとたび壊れたら、放射能や毒の汚染がはじまる

寄せ手は返していた美しい蛇行する海岸が
コンクリートの真っすぐで無機質な壁になり

ペットボトルや釣り糸や空き缶や様々な
人間が作り上げた末に、ゴミになったゴミ
は邪魔ものあつかいで放置され
やがて海に沈んで行く

それでも海は文句も言えず順応してくれたが
海の神様も文句をいいたい時がせまる

今迄陸地から見ていた
目の前の龍宮神社の景色が
風音に吹き流された

覚悟をきめて行く

戻れる可能性も戻れない可能性も
後悔しないように

単純明快な自然の摂理にしたがい
たまには見えないやおろずの神様や
生きている海の時間に頭をさげること

日本人が古来からごく自然に
日々おこなってきた朝のコーヒーのような祈りさえ
絶滅しそうだ

自然美

書にはかならず(美)がなければならぬ
達者とか立派だといっても
人品賊しきものには自然美という(美)は
そなわらない

風流とか雅とかいうようなものがなくちゃならぬ

そういうものは
どこから生まれて来るかといいますと

やはり俗欲のない所からうまれてくる
俗欲の旺盛なものは、いわゆる俗人であります
簡単にあれは俗物だからといいますが

そういうものから
雅とか、美とかいうゆなものは生まれて来ない

俗人というものは、自然美なんかに刺激される所は少ない
ようであります

自然美にみとれて
物質我欲を忘れてしまうというようなことは

ま俗人にはできない
出来ても程度問題であります

ところが常終始俗的なことに余り感興をもたないで

とにかく自然美をみつめている
自然に親しむ機会を望んでいる人が
本当の風流人であり
また雅人であるように思われます

至った人というのは
自然美に対して注意深い人である

北大路魯山人 魯山人書論 平野雅明編より

観る

自灯明

じとうみょう
自らの内面を正直にみつめ
自らが決めた判断にブレずにしたがう

暗夜、誰かの灯火を頼りにするのではなく
自分の力で自らの灯火を照らす
誰かいたとしても、いなくなった場合も想定する

自分自身は自分で支える
精神力の強さ正直さにもつながる

内観

偏見や予測だけの頭ではない
その時々に自らを会わせ
他者になるべく迷惑をかけない様
冷静に生きる

なるようになるわけですから
大丈夫だと

個々がしっかりする。

海で1人
誰も助けてはくれません

遊泳禁止の蚊帳の外は
太古のままの天然の海

荒磯の明け方
真っ暗だった海が
太陽の鋭い光線により
光が差し拡散する

死ぬ可能性
怪我をする可能性
戻れる可能性
戻れない可能性

可能性を読み
自らの泳力と心を自ら
おし続ける

いつの日からか、四角い人工の塩素水のプール
ができたおかげで、水泳がタイムを競い合うスポーツ競技に変質した

水泳の醍醐味は本来は海や川で味わい
命の危険を感じ、魚を捕り
瀧を浴びて修行と行った具合に
自然との対話と生きる知恵の育成にある

流れを掴み
波動を感じ
泳いで潜り
石や波をかわす
魚たちを覗き
たまにサメに睨まれ
体温が奪われる

正直な泳力

生きる力を
いやおうなしに観る訳です

それだけで
人間は地球の美しさと怖さの2つを知り
自然を大切にするようになる

水泳競技では知り得ない
宇宙のおすそわけ

競い合う事では絶対に知り得ない
大切な事を、海や山は教えてくれる

生涯忘れない美しさで
海はあなたを待っています

お金払って泳ぐなんて
昔の人はびっくりです

松尾先生

伊賀で信長の伊賀殲滅に際し
戦い討ち死にしたといわれ
その息子は伊賀赤目不動を信奉した藤堂の無足人(地侍)
その息子は芭蕉
18の時には伊賀の服部の親戚につかえたとか

芭蕉はイマイチ謎がおおい

伊賀では吉田兼行も庵を結び、その後その種生の山も
伊賀の地侍、忍者、農民と信長の激戦地に

能の観阿弥世阿弥も伊賀である

渡来人の流入もあり
秦氏の末裔は服部家とか平家とか
間違えないのは
先祖は平家につき壇ノ浦の赤間神宮に墓がある
一説には生きのび伊賀の予野のちがちに
住んだとも。城跡あり

松尾さんが忍者説はあるかもしれません

そんな謎めいた松尾さんは
深川のあばらやにすみ

最果ての海辺を旅した昨年
帰ってんばかりだけど

ちぎれたくもをみていたら
なんだか
道祖神やそぞろがみが呼んでいる
ようで
松島の名月がみたくなったな〜
旅へ行きたくなっちゃったな〜

と大胆にも
3/27に家をひきはらい
弟子と俳句をのこしながら旅へ

馬か?籠か?

本当に?延々歩いて月山、湯殿を参拝しながら
北陸〜大阪〜長島へつくのが9/6頃

1日数十キロあるくただならぬ健脚と
資金、あれだけ見たいといった松島は1泊だけで俳句も詠まず

栃木黒羽に13泊したりと謎な行動を5ヶ月2400キロ

仙台藩の石高を調べていたとも?

大空の月や太陽は永遠にとどまることなく動く旅客であり
時を刻む……
人生は日々旅で
李白や杜甫や西行も
旅をすみかとし
旅の途上死んでいる

元気がでるように(三里という場所)足にお灸をして
笠の緒をなおし
ももひきの穴をぬって
いっちょ行くか!

荒っぽく訳すとこんな感じで
なんだかいいですね〜

ふらりと寅さんのように旅へ行く訳です

準備や健康もなにより、あるきだから

ガソリン代や電車賃もいりませんが
ご飯食べたり宿とまったり
きっと名物やお団子食べたり

お金どうしたんでしょうね
半年も、銀行もコンビニのATMもないから

写真集に寄稿してくださった旅人
でドイツ文学の故池内紀(おさむ)先生は
寅さんも山下清も一見無計画の様で
実は事細かに用意周到に旅の準備をしていて
と著書で書かれていた。

どうも色々松尾さんはそれなりの、人脈とネットワークがあり
いい家や屋敷に歓待され泊まってます

お人柄もいいんでしょうし
礼儀正しい方なんでしょう

旅を色々してきましたから
お話もおもしろかったんでしょう
旅行が今のように簡単でない時代ですから
みんな大歓迎です。

日本が66の国にわかれ
関所なる税関があり、通行手形や、許可する手紙、修験者
といった規制があったから
なかなか全国を自由には行けなかったのに
不思議。

伊賀で生まれた服部半蔵の末裔は
愛知で生まれ松平について
江戸に来て徳川の警護をし半蔵門として残る訳ですが

これが皆さんのしる服部半蔵正成です
半蔵は代々世襲してますから半蔵は実は10数人いるんです

この半蔵の父へ仲間の忍者が(半蔵正成は天正8~10年は行方不明)
伊賀の忍者が命は惜しくないが
信長と戦い全滅するから、あとはたのむと言われ

半蔵が徳川に口をきき、奈良の大倉五郎なる猿楽師に
赤目瀧の近く、伊賀忍者の棟梁のひとり
滝野十郎よしまさと信長を和睦させ

忍者や侍は高野山や根来や岡山藩や全国に散っていって
忍術がひろまったので元祖忍者は伊賀であり
少し前に信長に降参した甲賀も元祖ですが

女子供は助命すると、腹をきらせたのに
降参した女子供を鉄砲で撃ち殺し

武田の残党をかくまり
「おまえなんかに誰が渡すか!ぼけ!」と言った恵林寺の快川和尚数百人を山寺にとじこめ
火を放ち

仏罰が落ちるといわれた
比叡山の700人の僧の焼き殺しなど、をおこなった信長
悪い奴なのに教科書では教えない

そんな理不尽で数の戦力では勝てない相手にも頭を下げず

自分の心をみくだすなら、侍ではなく
死んだ方がましだと

死はしではなく
魂は悠久であるといった

自然を生きる真理とし
儒教や神道、仏教、道教をも取り入れてきた
忍や侍こそ立派な日本人の根幹です

話は熱くあの世へいきましたが

こんな時こそ
足るを知るで
我慢と何か意味があるんでしょう

今や宇宙にまで迷惑をかけ
自分の家もだいじにできないくせに
火星にまで行き金儲けをたくらみ
海を空を大地を
全く大切にしない人間界

太陽はずっとそんな歴史を見てきました

普遍的で太陽の位置や時間はかえられないように
水が上からながれるように

旅へ行って
おいしいもの食べて
なるようになれ〜と
身をまかせ流れるしかありません

松尾さんなら
どうしたかな?

はじめは何も知らざる故

(初心は身に持つ太刀の構えも何も知らぬものなれば、身に心の止める事も無し。
人が打ち候へば、つい取り合ふばかりにて何の心もなし。
しかる処に様々な事を習ひ

身に持つ太刀の取様、心の置所、いろいろの事を教へぬれば
色々の処に心が止まり

人を打たんとすれば
兎や角して殊の外不自由なる事

日を重ね年月をかさね稽古するに従ひ
後は身の構も太刀の取様も、皆心のなくなりて

唯最初の何もしらず習はぬ時の心の様になるなる也

「不動智神妙禄、沢庵」

大学に(儒教の教書)、致知格物という事あり
致はつくすという事義なり

知をつくすは、およそ世間に人のしるという程の事
ありとあらゆる事の理(ことわり)をみな知りつくして

しらずという事なきを、知を致(つくす)とよめり
その事々の道理をしりつくせば、皆しらずという事なく、せずという事なき也

しる事がつくれば、事もつくる也。

理(ことわり)をしらざれば、何事もならざる物也。
万(よろず)の事はしらざる故に不審あり

うたがはしき故に、その事を胸をのかざる也。
道理があきらかにすめば、胸に何もなくなる也。
これを知をつくし、物(こと)をつくすという也

胸に何もなくなりたれば、よろづの事が仕よくなる也。

此の故に、よろずの道を学ぶは、胸にある物をはらひつくさむ為也

はじめは何も知らざる故(初心は太刀の構えさえわからない・・・)沢庵

一向に胸に不審も中々なき者也

学入(い)りてより、胸に物がありて、其物にさまたげられて、何事も仕にくくなる也
其学びたる事、わが心をさりきれば
ならひも何もなくなりて、其道々のわざをするに

ならひにかかわらずして、わざはやすらかに成りて、ならひもたがわず
われも其事をしながら、我もしらずしてならひにかなふ物也。

兵法の道、これにて心得(こころう)べし。

百手の太刀をはらひつくし、身がまへ、目付、ありとあらゆる習いを
能々(よくよく)ならひつくして稽古するは

知を致(つくす)の心也。

さて、よく習いをつくせば、ならひの数々胸なく也て
何心もなき所、物(こと)を格(つくす)の心也。

様々習いをつくして、習い稽古の修行、功(こう)つもりぬれば
手足身に所作はありて心になくなり
習いをはなれて習いにたがはず、何事もするわざ自由也。

此時は、わが心いずくにありともしれず
天魔外道もわが心を伺い得ざるなり。

この位にいたらん為の習い也。

ならい得れば、又習いよくなる也

これ諸道の極意向上也。

ならひをわすれ
心を捨てきって
一向に我もしらずしてかなう所が、道の至極也。

此一段は、習いよりいりて
ならひ無きにいたる者也。

兵法家伝書
新陰流兵法目次事
柳生宗矩 著
渡辺一郎 校注
岩波新書

波の裏より

写真で写る限界は1つの波3枚
それだけ波は高速で動いている
風を写すようなもの

太陽が宇宙から地球に届いた瞬間を波の裏より

太陽に5.45分にいけないが
太陽の光は瞬時にやってくる謎

夜明け

黎明
風で潮が暴れるなか
心が揺さぶられる1枚でいいから
撮れたらありがたい

冷たい海の中太陽を待つ

2度とない1枚
2度と無い瞬間
2度と同じ風の道は無い

透明な水に影が生まれ
夜明けの海は何かが日常とは違う

太陽の光はガンマ線やアルファ線や様々
宇宙からきている

宇宙の太陽には行けないが
太陽の光はものすごい早さと熱さで地球と海底を射貫く

光が変なのだ
海も何か反応しているのかもしれない
僕らには聞けない、音や倍音に反応しているのかもしれない

海はそこにただあるだけ
人間をわざと殺そうとはしていない
が、地球内で簡単に死ぬ可能性が高い場所でもあるが
同時に得体の知れない魅力と、美しさが無限に吹いている

理屈はいらない
それが宇宙の真理と教えている

地球のことだけで
成り立たない事を良く知る

地球が汚れれば
それは地球の海である宇宙へも影響する

地球の周りの宇宙は
人工衛星や付随する部品のゴミだらけらしい

人間の物欲はきりがないのか?

自分たちの海もきれいに出来ないのに
他の星の事を知りたがり、宇宙まで汚し始め

まだまだ欲しがるのには
こまったものだ

裸で海へ飛び込めば
全てが正しく調律されていくのだが

ひとさし指はみちしるべ

この世では未来は期待と不安と挑戦の先に決められた時間に待っていると
具現化され具体化される1つの運命めいた予言?的な意味合いと

しかし未来はそんな時間経過と自然の無限な可能性を変化しながら生きている
他者や他力もあるだろうが
色々な要素、海ならば朝の宇宙の振動や光線、波や風、水温や波の音叉
水分子のうごめきや、潮の流れ
これは現実的な事象のようだが、刻々と人間には見えない波長や振動で
コマ送りされている

挑戦やその時々の自分以外の事象により
未来は確定された予言者の1つの答えではない

やってやるぞ!
やってみるぞ!
ポジティブな心と波動はいい波動や時間を呼び寄せる

高いところから水は流れる
から致し方ない事も起こりうるが
絶対に前向きに、1つではないいやあらゆる方向に
未来の取ってはある
善し悪しははなからない。

よくいうように、波は水素結合と水分子の離れてはくっ付く特性に
隠された波動の動きであり
人間には1つの水のかたまり(波に)うごく形にしかみえない

実際には波などはなく、高速で周波数を変えながら、微細なパラパラ漫画や
粘度で1つづつ動かして撮られた映画のようだ

ノーファインダ?で全ての写真は撮ってます
シャッタースピードを最初にいじり
露出を決めるだけ

あとは覚悟決めてざぶん!
波の中で笑いながら緊張し迷わず人差し指で押す!

師 島津兼治曰く
俺も柳生心眼流の口伝を師匠が亡くなるとき聞いた

どこの指に力を入れたら揺らがず、動くか宿題!

1週間わからず
先生の整骨院で教えて頂く

ほらやってごらん

「人差し指が道しるべ」

数年後近所の道で偶然出会う
俺泳いでるんです波の中

よし!
泳ぐならこうだ!

和服を着ながら急激に速いスピードで
指から鋭く行け!
とワンツーと動く

待ち行く人も見て見ぬ振り

相変わらずおもしろい

円運動である

間違えと疑問が自らを育て

月日がさらに、その本当の意味を教えてくれた
 

1つ

夜星がいたるところで輝いていた
風で空気が揺れているのか?

手の届かない宇宙を見
向こうからもこちらを見ているのか?

地球にある宇宙は海である

太陽はともあれ
この付近の海にいても濁りが無くなるのかの保証はないから
今朝の磯へ行くか?と迷ったが

うっすら既にそこへ行くことを
感じていた

波の中を裸で泳げと19年前パラオの墓前で
声が聞こえたように

岬に位置したこの一帯は、ゴロゴロした石の海岸
波とは言えない波はある
よくよく考えると、波にとらわれる事は無い
その少し先の未来で待つ1枚は
波ではなくいいはずだ
海で、人間界の常識の全てを捨てて、泳いで来たのだから
これもまた、捨てる
こと

1つ気になるのは25年ほど祈りに行く龍宮神社が目の前の山にある事

龍宮とは綿津見の神,龍神、市来島姫、せおりつひめの神の関連
龍宮神界の入り口である
祝詞の祓戸の大神たちとは

せおりつ姫
はやあきつひめ
いぶきどぬし
はやさすらいひめ
をさし、それぞれ川から海へ海の根の国(海の彼方の国)で待ち構え
順番に穢れや罪や禍いをきれいに無くす

今回はどうも呼ばれている気がした
いつかは行かねばならない海
波が無いから泳いでも撮れないと決めつけていた

毎月のようにきているから
どこか安心感もあるが
ドン深の青黒い海は怖い

水は透明か?
そもそも暗いうちに海へいくので
水中の濁りは明るくならないとわからない

4時に起きないと
5.40分頃の日の出に水中にいられまい

やがて潮風と波音に包まれ海辺の宿で寝た

朝目覚ましをかけ忘れたのに
4時4分に目覚めた
普段は絶対に4時に起きない奇跡

真っ暗な海は風と打ち寄せる波の筋が見える

透明度はわからない
途中明るくなりはじめ、元の海岸に波があったから戻る?か
と余計な事も考えたがやめた

海鳴りを反射する巨大な丸石の海岸に着くと
明るくなり始めた水平線に雲はない

でも波?が微妙だ
巨大なゴロゴロした石しかない海岸に
うねりがぶちあたり、白い飛沫
まるで時代劇のオープニング

どこから入り
どこから上がり

もしあがれなくなったら
どこへ泳いで戻るか?
シュミレーションをする

あの固そうな一面の巨大な丸石に波ごと当たると
危ないな〜カメラ壊れるな

祝詞を詠んで海から鳥居にお辞儀した

波をかわしフィンをはき
海が引いた瞬間に飛び込むと
あっという間に引き波で沖へ流された

透明度は90%
水は雪解けのように冷たい!

泳いで岸から5mくらいの
ぐちゃぐちゃに海が暴れる場へ戻った

常に海底の石
海岸の石をみながら
泳いだ

太陽が霧でフレアーしながら
赤からオレンジ黄色へとかわっていく姿を
見ている間もなく潜り続けた

20分後、海がどんどん浅くなる

そろそろ帰った方がよさそうだ

冷えてぶるぶる震えながら
海岸へ戻った苔ですっころばないよう
巨大な石を波除にし足ヒレを脱ぎ
ホットした

神社と海へお辞儀

古来、今に我々より信心深く
感応力も、直感力もあった先人が

龍宮神社をこの岬に崇めた理由が
光を通じすこし観えた感じがした

当然同じようには、わかるまいが
そのかけらを、独り暗い海から神社の山をながめ
ながら漂った

準備


準備を怠らない
道具を大切に

しかしながらこの海外製の防水ケースは
微妙なつくりで、たまに水が入る事がある
ダイヤルもうまく動かないから
ダイヤルは内部はすべて外し
シャッターを押すだけに。

だから感でフタとネジをする前に
細かな設定をしなくてはいけない

今の電気カメラは使い方が、フィルムカメラと違う
説明書を読まないと使えない
が基本僕は説明書は読まない

だから
知らない機能がたくさんある

大事には扱うが
所詮カメラは道具です
道具に撮られない様に

自然なながれ

撮影はあきらめ
酒井さんに朝ごはんに誘われ1人じゃ絶対入れない
古い木のドアの家へ
スナック?

日本人形と三味線に巨人のまるよしひろさん

干物定食600円

昔芸者さんのお家だとお聞きする
独特ななんでも人の心が見えてしまうような
お母さん一人

お隣のお稲荷様をお祈りし
向いの干物屋さんにコーヒーを頂く
あれはうちの干物だけど
安いやつじゃ〜 笑

聞いてしまった
また秘密を。

白浜神社へ参拝したが
再度大阪で写真をコレクションしてくださったお客様の
ご家族が、偶然山梨から伊豆へ来られうれしい再会

サーフショップマリーナさん
サーフィン連盟理事長の酒井さんと再会
酒井さんとはニューギニア以来ご無沙汰でしたが
ONWARDへ打ち合わせにいったら、ロビーに杏橋さんの写真がありましたよ。

スーツ五大陸をサーフィン連盟へ協賛し
記者会見などで着ていらっしゃるご縁

絶妙に繋がる不思議なご縁

気配

撮れる気配はないのだが
明日の朝は雲もない晴れで御来光が見れる可能性
しかしこの海から吹き付ける強い風が変わらないと水は濁る

考えてもしかたないので
宿を2泊予約した

気配を感じたのか今朝山梨の七面山の御来光を
山頂の山寺、龍神様を祀る、日蓮宗 敬慎院の番長(不良ではなく予約や部屋番のしきり)
木下さんから写真が届く

同じ太陽を
同じ朝にみている

ゴロゴロ

強風でどこも水は濁り
撮影またもや出来ず

延々とれず
人間様の予測など関係ないところが好きだ

仕方ないですね

ここは25年きているが
撮影した事の無い磯

凪いだ日にもぐってみたが

ゴロゴロの石と激しく崩れるインサイドの波?
はとても無事で戻れない気配

波がたつと出るのも
戻るのも危険な海岸

波で石が自動的に削られ丸い

自然の猛威と1個何百キロもある石がゴロゴロとぶつかりながら
波で動くのだから、海の力は恐ろしい

行き場の無い石油製品

波を探しに伊豆の海へ
白浜神社の横は風と波であつめられた
ゴミの山

ペットボトルがすごい!
ラベルは剥がれて海の底

こんな場所でこの量だから
世界規模で考えても何十万トンのペットボトルが
沈んでいるのだろう

野沢

道祖神の神様が降臨された地の伝承が残り
今だその物語が大切に維持されている野沢温泉
北の高千穂だ

1月には男たちが松明で叩き合う
炎の祭りは無形文化財に

村々にある木彫りのカップル
この神様は「八衢比古神(やちまたひこのかみ)男
「八衢比賣神(やちまたひめのかみ)女

大陸道教の香りのする閻魔堂
不動堂
湯沢神社、秋葉神社が
狭い急勾配の村にへばりつくように
佇んでいる

がお参りをしている観光客は皆無?
何度行っても村のおじいさんたちだけ

そんな小さな村も
オーストラリア人を筆頭に
旅館や土地が売られ(高年齢による跡継問題や相続税も背景に)
ニセコの2の舞いになりかねない現実

冬だけかせぎ
税金もはらわない

英語の看板も増え
湯煙の村は共存できているようで
実は微妙な現状

昨年迄リフト券も
1日券なんか買うな
どうせみてないから
ゴンドラだけ買えばいいんだ
と外人同士が話す始末


今冬から、カード式になったという

40年前ここで天然のブドウジュースを飲む
のが楽しみだった

古いプリンスワゴンにスキー道具を積み込み
じい様が連れて行ってくれた

当時は靴は牛皮ストックも竹と皮
かろうじてスチールパイプに変わりつつあったが
板など木で、器用だった爺さんの手製だった

日本が日本でなく
アジアになっていく

外国に土地は売っては行けない
オーストラリアは外人は買えない法律

目先だけのおいしそうな話し
では、いずれ村は駄目になる

ごく普通のことなんだが…

不自然な山

Nozawa Onsen at Nagano

70代の地元の方も、こんなに雪が無いのは初めてだと
オーストラリアの森林火災の影響や
温暖化なのか?
 
海も山もころころと天候がかわる

低気圧はしっかり
仕事をし
山はブリザード

木を切り倒し引っこ抜き
削って整地し
リフトを建て
動物をおいやり
準備万端、除草剤や塩化カリウムを撒き
雪を待つおかげ
で雪山を滑走する事実の我々

不自然な自然のスポーツ?

山の事実を知る事

山は海に繋がり川から海へ水はそそぐ

雪とて元は海の水
海底も山と繋がる渓谷である

自らの置かれた位置
自らの自然どの調和度
己の力量
過信する事なかれ

存分に楽しみ
存分に事実をみて
山へ頭をさげるだけ

ごくごくシンプルな連鎖と循環を
邪魔しすぎないように
暮らせなくなりつつある人間界

先人の影

大地つまり地球は生きていて
海の底から隆起して海から飛び出した部分を
山と呼んだ

漢字は見た目の感じで
作られ
それを象形文字とまた呼んだ

言葉がさきで
文字はあとで来た

文字に出来ない時間が天然の地球と宇宙の真理

無である

きれいだな〜
と口からでた言葉は
胸の辺りで発生する

言葉のさきは
胸の辺りで発生した
なにやら、さっきまでどこにもなかった
不思議な波動である

年に2度
太陽が海面を走り
千葉一宮のたまさき神社をいぬき

富士山の頂上から
山梨の七面山の門をとおり斜面をかけぬけ
敬慎院の龍神様の本尊にあたり

琵琶湖の多景島から
出雲大社にレイラインが射貫く不思議

不思議とは人間様の常識の解釈

古来の修験者が崇めてきた行為が
ごくあたりまえの
自然なことである

頭で考えるのではなく
波動を感じたまま

が真理である

今日本人は、こうした過去になりつつある
先人達の無味純粋な視覚と感覚で
静けさの宇宙をよむことで
自らと宇宙を調律すべきである

すると誰もが
教えられなくても
正しい、いや

正しい以前の
ごく普通な行いをし

ごく普通に太陽がのぼり

風がふき波がうまれるように

単純明快な波動に即していくだろう

これが地球との約束

あたまをさげること
ありがたいといのること

絶滅寸前の先人の影

意識のない自然美

イタリア ミラノのオーナーシェフ ヒデさん

コロナが広まる2/11に写真をお預けし
設置してくだいました
が同時にコロナウィルスににより
4/3までお店も閉店する命令が通達。

ミラノ、東京とも
飲食店、や各種サービス、展示も人が
出歩かなくなり打撃が

しかしながら
こればかりは時を待つしか無く
流れにあわせ乗り切るしかありません。

なるべくはやい収束を祈念いたします。

松樹千年の翠「しょうじゅせんねんのみどり」

紅葉するわけでもない1年中緑の松
季節はうつろうが
そのうつろいに、うつろいながら
本心はかわらない緑の松

長い時間を越えた、美しさと続けてきた時間が同時にある
しかし、主張するしなくとも
読み取れる立ち振る舞いと、人間には作れない作為の無い自然美が
そこに佇んでいる

そんな意味合いでしょうか?

紅葉して一見派手な落葉樹ではない広葉樹

落葉樹もワザと紅葉する訳ではなく
初夏はさわやかな息吹の緑から
紅くなり、葉が散り行くすがたも美しいので
それもそれで1つの世界ですが

どうも派手な映像慣れした人間界はどうも
本質を俯瞰し観れてない為に
トイレットペーパー買いしめる謎が波及

この先もしかしたらおこる
自然災害の前準備のテストにもにてます

kyubei

Kyubei had Long history at ginza.
The skill, taste and warm heart inherited
from the first generation have been fully communicated to
customers through the counter.

The second generation of the master
mr Imada.

長い歴史と共に銀座に佇む久兵衛さん

初代から受け継ぐ
技と味と暖かな心を
お客様にカウンターから伝えている

写真は2代目大旦那の今田さん

いつもありがとうございました。

実は3代目の若旦那が写真をコレクションして
くださっている海のご縁

海と久兵衛さんと繋がる

雪山

海が雨風で予測が難しい荒れ方
それならば、体力づくりもかね
雪山でスキーの身体の動きの確認を

新潟は数日前雪がふるも,翌日には20度近い気温

偶然にも
消防やレスキュー隊に
アメリカの急流救助法の講師をし
水上でネイチャーナビゲーターというラフティング会社を経営する
タチさんにゲレデで会う

パタゴニアのサポートを共に受けさせていただいている
川のスペシャリスト

1988年単身あてもなく
ニュージーランドに行き
1週間野宿をしながら、歌を歌い金を道であつめ
ある日、誰となくきいたラフティングの会社へ
仕事をもらいに行く

しかし門前払いを受けるも
夕方迄店の外で待つと
オーナーが中に入れと認めてくれ
ラフティングの世界へはいり1991年迄働き
帰国後、水上に始めてラフティングの会社を開いた

人生が映画の様なタチさん

僕がオーストラリアへあても無く
行くのは1992年
もちろん当時はお互いを知らない

写真は1979年頃、林の中をすべり
足を折った
野沢温泉スキー場

変身

カメラはいつ始めたのですか?
波はなぜ?泳いで?

水は人間界と違い抵抗がないので
じい様になっても撮ってたら
仙人になれるのでしょうか?

カメラは家にころがってました
例のば○ちょ○かめら
ピントも目測の距離で小学生には難しい

露出など知らず、Pにしておせと
父親にいわれ
(プログラムオート、カメラに仕組まれた自動露出設定)

スーパーカーのマークやタイヤ
近所にアルファロメオを見つけて夢中で24枚押し
カメラ屋さんにフィルムをだすも
全く感動もやる気もわかない、ピンボケのひどい仕上がり
あのときもう少しうまく写ってたら続けたかな

何よりも海で網を持ち
魚の生け捕りと水槽で魚を飼うのに夢中だった

14歳で
パラオのホームステーしたキッチンのお母さんを撮影
パラオの母あけみさんのちょいピンボケ写真は今も部屋に

今も当時とキッチンも変わらない家

先日、台風は大丈夫?
いつでもパラオにきなさいよ〜

行かないとと思いつつ
流さないようにしないと

このパラオのあけみさんの
旦那さん レイモンドアキオさんが亡くなったのを機に
パラオの墓前でなんだか「波へいけ」と声ではないけど
明確に芯で感じ

波へ向かうのだから

36年前お宅に泊まってなければ、こんな写真も
撮ってない訳です。

忘れていた写真も
24歳で地球の歩き方も知らず、インターネットもないいい時代

いきなり東オーストラリアへ行く際に
家にあったCanonAE1プログラムというアマチュアカメラにズームレンズで
撮り始めました

人はなんだか怖くて撮らず
どうしようもない看板や景色を押して
無駄遣いしただけでしたが
自分にも絵ではないけど、レンズの画角で絵が作れるんだな〜
と海外で現像してもらい4ヶ月楽しんだ。

なぜ?目の前のさっき迄の風景がフィルムに残る?
怖いな
不思議だな?

考えるのはやめようと
思いました。

ともかく見れたもんじゃありません。

そのうちに水中カメラの道具を100万円くらいしましたが
買いあつめ、海へダイビングへ

何度も死にかけ
道具の破損や、水圧による身体の血中酸素のもんだいや、鼓膜やら
これじゃ海で死に切れない上
魚や珊瑚にストロボをあてて
パパラッチし(眩しいだろうな〜魚の目は大丈夫かな〜)

海はあるのに1人で行かないで
誰かと一緒とか待っててとか
一日2回しかはいれません

などなど
人間の制約や都合と
宇宙服の様な海での行動や体勢の不自然さ

そんなときパラオのオヤジが死んだと感じ
電話をしたら丁度亡くなったと

パラオに行き

どうすんだオヤジ俺
ごめんね会いに来ないで
命は儚いね〜
会いたい人には会わないと
やりたいことは自分で決めてやらないと
人生クズだな
と思い

よし!
戦場かと思ったが
人の血や悲しみは他力で違う

誰にも文句を言われず、人知れず
個人的で孤独な世界で死にそうな場所は

海の波の中だな!と直感し

そんな小さな瞬間から始まったある日から
明確に海に悪い事をしたな〜と胸で感じ
やめました

その3ヶ月後には道具もなんとなく、つくってもらい
また東オーストラリアの海へ行きました

今みても、カメラケースはおそろしくでかく重く
恐ろしいです。
日本ではあの頃は誰も作った事が無いから
しかたないです

これは修行だ
撮れるかどうかはどうでもいい

まづは世界の波を片手にカメラを握り
片手、両足、水中メガネで泳いで
みるしかない!ウェイトいるかな?
謎だらけの水泳が始まりました

そんな旅を毎月毎週いき
最初は怪しんでいた成田空港の税関員とも仲良くなり
いってらっしゃい!と

南の島々へいき

フィジーで写ってしまったのが
新たな始まり

オーストラリア8月(偶然海岸で親戚に会う)〜オアフ11月(偶然溺れる)〜マウイ〜オアフ12月(偶然溺れかける)〜マウイ(偶然溺れかけ流された)
モルジブ〜フィジー(翌年の5月)で

偶然の撮るべき世界を見つけたのです

フィジーでは
波も恐ろしく早くでかく
サメやバラクーダなど強い方達もいて
それはそれは怖かった
島に帰れば山に妖精が出るとか
前に勝手に入った船乗りが足首サメに食われたぞ〜
とか

でも
あ〜ここにきてよかった
と波をくぐり抜け海原でらっこのように浮いて
東京のネオン街や小洒落たレストランじゃ
しらないままでいた自分が怖くなった

野生にもどり
忍者の呪文も唱え
変身と脱皮をくりかえしていた2002年頃

そんな小さな心の衝動と楽しさと好奇心
が頭じゃ思いもしない、偶然をつないでくれた
それこそが瞬間瞬間に生きた武者修行でした

うそううむそう

太陽が射貫く数秒
魚は毎日見ている景色も
人間様には、生涯で幾度も見ない世界

地球にもう1つの国が
あるとしたらそれは海だと思う

あきらかに
独立して完成された海の世界と暮らしがある
よく海底をみると山があり渓谷があり
海底は浅瀬から目の前の緑の山と地続きだ
山と海はべつなものではなく、1つの有機体

山には緑の木々
海には珊瑚の森

有象とは形あるもの
無象とは目に見えない形の無い物

人間は有象
海は有象と無象

目には見えない無象によばれ
人はオゾンに満ちた朝焼けの海岸へいく

無限な風が幾重もの少し先の自分をみせている

初心

限界も同じ物も無い自然美

その生まれ変わる現実に身をあわせていくしかない
人間だけが水中であっぷあっぷ
がちゃがちゃしている

海に申し訳ない。

波は波動
波とよぶ固有名詞(1つの物)が
沖からくる訳ではなく

目に見えない速さで
水素と水素がくっ付き、離れて行くありさま
高速パラパラ漫画であり

沖の水は一滴もきちゃいない

周囲の水は陸よりの水面はへこみ
沖のみずはせり上がる

このなみは岸から200mくらい沖
クック諸島ラロトンガ島
独り20分泳ぎここまできたが

潮がドンドンひいて
戻れなくなる怖さを忘れずにいた

泳いでもどれない場合は
歩くしかないが

波が浅い海底にぶつかり
かわすのが難しいから足ひれをはいたまま
歩いて戻るのは矢継ぎ早にくる波に叩き付けられ危険だ

この波も岸に向かって泳いでいたが
振り向くと波がきたため
沖に向かい潜ってくぐり抜けた

間一髪
ものすごい速く重い波のロール
紙一重ににある1枚

この後の波でカメラが巻き込まれ
カメラと手首を結ぶ紐が切れてカメラは遥か彼方に
ひもが切れたから手首は折れネジられずに済んだが

初めて握っていたカメラを離した

歩いてカメラを探しみつけた
叩き付けられて無く10m向こうに浮いていた

今迄で一番浅く速い波
フィジーのクラウド9という
タバルア島よりすごい

何してるんだ俺?
と独り大笑い

潜るタイミング
鋭く強めにいかないと
抜けきれない

海底は固い珊瑚の岩盤
ヘルメットは無いから頭をうったら終わりだと
考えると怖くなるからやめる

ヘルメットは音が聞こえない
浮力があり頭から潜る際に抵抗がすごい為
最近はかぶらなくなった。

都会では知り得ないアドレナリン充満
怖さは頭でなく胸に全身から集まってくる
これもアドレナリンなのか?
自分でもわからないが
その後パニックになりかける

いつまでたっても
経験を積めば積む程
過去の恐ろしい体験が
悪い方へささやく

無心で行くと思った時点で無心でない

言葉の遥か先を泳ぐことのした

気力
体力
天運
海運
天命にそくす

これぞ武道
これぞ修行だ

身初心なるを顧みる(かえりみる)ことなかれ 道元

経験や知識が無い事を臆するな
ひとたび挑戦したのであれば初心を忘れることなく
初心を貫け

困難から逃げようとすると
必ずさらなる困難をつくりだす

限界は自分が決めているだけ
冷静に落ち着くことが自分を護る

自然が先生です

三位一体
独り波間で笑う

人は元の自然にかえる

地水火風空のうちよりいでし身の
たどらでかへるもとの住家へ

早水藤左衛門 辞世の句(赤穂浪士)
岡山藩池田家 家臣 の3男 赤穂藩の家臣早水満輝に婿養子へ

弓の名手 
尾張藩士星野勘左衛門 
京都の三十三間堂の通し矢で2度天下一(日本記録)
本堂軒下南北121mを矢を射通す競技

1669年
10,000本 放った矢が6,666本通り
2度目は
10,542本 放ち中通し矢 8,000本の記録を残す

10,000本矢を放つだけも凄い体力と精神力だ

そんな天下一と賞された記録を残す弓の達人に師事した早水さん

熊本藩 細川家に預けられ切腹
享年40歳 法名「刃破了剣信士」

地水火風空から生まれた命は所詮
もとの生まれた場所へ自然に還ると・・・・

常世の国

代官山ONWARDカシヤマの展示も昨夜で終わりました。

連日カフェは30人待ちの大盛況
シェフ ビクトールさんがつくる、チーズケーキや
こだわりの茶葉やレモンシロップを、緑と光の回廊で
お客様も日常を忘れ楽しそうです

僕も波の撮影へ3月はいきます

お二人のお客様からのオーダーの
写真9枚を焼いてご納品してからですが

天気が不安定なこの数年
なかなか難しく感じてます

ただだでさえ日の出と日没の30分しか撮らないため
これがなかなか、御来光の富士山じゃありませんが
地球まかせです

三脚は使いませんから
暗い海で波をかわしながら
淡い光の水中で
ぶれないように、カメラを片手で握り
ファインダーは見ないで、回転しながら押す!

よくわかりませんが
水中で波に合わせ、間一髪に
知り得ない様な神経や直感を野性的に押す!

海津見神 わたつみのかみ
玉依姫 たまよりひめ
豊玉姫さまも 
海の神様である

彼女は逆巻く海に身を躍らせ、波の穂をふんで
常世の国にいってしまった

では常世の国とはどこなのか?

江戸時代に本居宣長さんは
常世の登許(とこ)は曾許(そこ)に通じるから
底依国 と同じであり

古代人の世界観を構成するもので、底とは必ずしも
下の方向のみではなく

どの方向であろうと、いたり極まる所をさし
遠くは慣れる極限という意だから
底依国は、現実の国土から、遠く隔絶された地域をしめす
とおくはなれて誰もが、簡単には行けない場である

黄泉の国とだぶるが

遠く海の底、どこかにある
相当に美しい桃源郷と意識されてきた

たしかに
あの美しくも儚く怖い海
心地よく、幸せ感に包まれる感覚は
古来からの先人達も知っていたんだな〜

そんな自然に雨合羽も足ヒレも、水中メガネも無い時代
この身と心で必死に生き抜き
自然という贋作な言葉もない、宇宙の事象にそいながら
生きる事が、美しいゆるやかな時間を生みながら、人々に浸透し
ごくあたりまえに祈られて
きたからこそ

頭ではない直感力の高かかった140年前(明治政府の愚行)の人々に刻まれて
神社や道祖神瀧や石を大切にしてきた、説明抜きの団結力や真心が
あるんだろうな〜と
思います

今もどこかに、こんな時代でもよらめく灯火があるはずです
きっとあります

それが常世の国かもしれません

部品

瀬戸際とは
自分で妄想した線

波の中はいつだって瀬戸際

笑うしか無い大波がきても
その沖の波に向かって泳いで
ひたすら潜って又泳ぐ

待ったも聞いちゃくれない
青い波

「容赦が無い」とつけたすと人間臭い思いあがり
そもそも、波は平等であり、人間をどうこうしようとも
思ってもいない。
ただ淡々と地球の風と呼吸に反応する事
数十億年

もう1つ
そもそも、片手、両足で泳ぐのは無理がある
遊泳禁止な場所である
瀬戸際をかってに作ったは俺

あんまりに苦しいから
暗い海底で太陽の光が透ける
水面を探して口から水面へ浮き上がり
まってました!と区呼吸する

おもうのは
苦しかった!〜
良かった〜光の空気の世界に戻れて
良かったな〜空気すえてさらにパワーアップ!
元気になります!

幸せだな〜と
加山雄三のせりふが
今になってわかります

しかし巻かれ数々の原因を分析すしますと
気持ちが負けると必ずやられます

これもやられ具合があり
10が天国なら9.5は1度 ハワイ
8が2度 フィジーとマウイ

精神力とかそんなかっこいい
机で調べた言葉ではない

げほげほ
ごぼごぼ
ぼこぼこ
の濁音がぴったり。

どうするのか?
どうしたいのか?

ゆっくり自分に問いかける暇もなく
ひたすら無心で片手で泳ぐ(カメラを片手に握っているから)

生きたいか
死にたいか

単純明快な自然で死んでも
悔いはなし

鼻水たらし
悔いが無いよう
精一杯がんばり

その結果仮にあの世でも
それは死ではない

閻魔様もどうぞと
笑いながらパス

しかしラジオ体操第一で泳いだ自分を馬鹿だと
気付がなければ
きっと誰かの枕元に毎夜現れてしまう

可能性は常にたくさんの枝葉があるが

人間は可能性を1つとか
確率を打算してしまい
せっかくの心と身体がともに動かなくなる

頭が邪魔をする
海で因数分解や計算など役たたづ

人間は脳で考えたら駄目です
胸で感じた事をするのが正しい

胸の憶いは世界共通
宇宙共通です

しかし凄い景色を見て来たな〜
怖いくらい美しい

きっと生涯で撮れる決定的写真の枚数は
決まっていて、神様がカウントしてるのかな?

撮れない時は全く取れず焦ります

でも最後にとれたり

僅かな時間に決定的1枚が撮れたりと

不思議でなりません

やはり胸の行動が風を生みます

なんでも徹底的に正直に頭を下げてやり続ける
仏に精一杯憶いをつくす意味合いの
直心とはまたすこし違いますが

忍者のいう正心かもしれません

心とは生涯わからない
謎の部品ですが

心にその鍵はあるようです

正心も自分のなかにある方丈です
伊賀の忍びや地侍達が大切にしてきた
郷土を護り、仲間を護る
強いものにも屈せず、正心のもと生きる
死は死ではないこと
宇宙と星々の教えに心をたむけること

正しい日本人のいた桃山時代の話

飾り付けた言葉も

頭で設計された立ち振る舞いは
海はいらない

そう気付かせてくれるのも海や山
無心で時計を見ない時間を
どこまでも、どこまでも自然忘却し
夢中で歩き泳ぐと、なんだかすっきり
生まれ変わった様な充足感

人間には幾重にもレイヤーされた過去生があるとかないとか

生まれ変わり
当時のくせが無意識にでたりとか
約束していたこともあるかもしれない

まー
それはさておき

あきらかなのは
波の裏側と何かの約束があると
憶わずにはいられない

常識?とは
日常の知りうる頭の中の四角い知識体験

常に非常口から脱出している波の裏
この世では日常では使わない感や体術を使わざるえなくなる

それが全てを捨てて波へ行け
と自分の口から出た言葉を憶いだす
何年かの数度こうした分岐点がある

声がする?というか
声が湧いて来るのです
「確信」

ともかく波の中では急がしい(人間界と周波数?というか時間が違う波の中)
から余計なことを考えたり
余分な動き、無駄な心は生き延びる邪魔をする

生きるのびるのに邪魔をする、もう1人の自分

そんな邪魔ものにとりこまれがちな
現代の日常
誰かの情報なんか必要ない

非常識で不可思議な出来事や出会いが
少し先で待っている

邪魔物、邪魔者、字は誤解をまねくが
余計な物がお多すぎる昨今
だれでもそりゃ迷います

植木鉢で木を飼い
スイッチパチリで電気がつく
自然の怖さにフタをして川や山を削ったわけだが

波の裏を泳げば一発
地球の真理をぴしゃりと全身で理解し笑う

言葉はその時だけだが、その時を残し続けながら伝えたい為
文字には持続性があるから文字が生まれたと
白川静さんの本にある

しかし言葉の持つ奥行きは
その口をついた人の生き様であり
旅のはなし

捨てないと
死ぬよ

捨てないと
怖い

捨てないと
無色な自分がみえないよ

既にさっきこの波をくぐる前の
ドキドキしていた自分はすでに過去

体験を重ね重ね
染み込ませて行くには
天然の自然に身を置く事

天然の自然が砂時計ののごとく
落ちて行く今
現代の人間様の好ましい未来と比例して
青い海もやがて消えて行くだろう

地球は生きていて
我々を見
その心根までもレントゲンのように知っている

これが波の裏の体験。

謎の影

波をとってるようで
本当は太陽を写していた

透明な波がつくる影の残像であり
光は物体にあたり、反射しながらはねかえった
光を見ている

影はどこからくるのやら
反射できないから、黒くなるのか

影も同時に動くから
影自身も波である

忍者の術
影縫い

影に手裏剣を投げると
影の本体をたおせたと聞く

呪術と験力

謎はふかまるばかり

だが
波の裏では験力がいる

ひたすら海に頭をさげ
水面の下から仰ぎ見る

畏怖とゆるぎない畏敬のおもい

命の線をどこまで観るかに
その道は続く

ガイドブックはもたない

青い写真はま〜誰でもとれるかもしれない

若い時は大きな青い波に憧れ
青い波に泳いでどうやったら近づけるのか?
謎だった

その謎を秘めた毎回変わる
波のなかで、妙な幸せ感と充実感に漂った

都会の町中じゃ
一生知り得ない、波音と感覚が胸で知ってしまった
みてはいけない世界を1人でみてしまった

自らがみずからの身体を置いたフィジーの最果ての波の裏側

遠慮無し
待った無し
嘘無し
掛け値無し
休憩無し
水無し
食べ物無し
制約なし
待ち合わせ無し

海との約束あり

集中力と26感くらい働かせないと死ぬ(昨今の5感を刺激する!なんて気持ち悪い)

大海にぽつんと独り
電線もビルも無い子供が描く緑だけの山
太古から変わらない、人間の汚染が無い景色

無し尽くめの世界が
たまらない

野生にもどり
全てが洗い流されフレッシュで新鮮な俺
に沸々とブクブクと水中で声を出して笑う

そうでなけでば
撮れないかもしれない

でも時間になるまえに帰らないと
間違えなくあの世

この世で
この余をいきること

自分に力に正直で
泳力、体力、を常に感じ
体力は急にはあがらず、衰えて行くのだが
精神力は鍛えれば反比例しグングンと延びる

黙って行く
天候を選ばない
たとえ30分かけて泳いで沖に来ても
なんだか怖くなったらすぐ帰る
ルールはなし
競技でもない
順位も嫌い

泳がなければ死
泳ぎきるしか無い
この瞬間瞬間に毎回違う波の大きさや崩れ方の角度や
破壊的な力学的な方向を察して動く

手のひとかき
首とれんどうする腕や肘の使い方
足ヒレをはいた片足の必殺の1キックで
助かってきた

それには
波の中で常々冷静で
平常心をなんとか保つ事

悪い方に考えたらきりがないから
一切頭で考えず行く!

馬鹿馬鹿しいテレビや電子レンジが
やっぱりいらないな
と改めて知る

受験の無意味
順位の無意味
いい会社にはいるなど
海ではなんの役にもたちません

ガイドブックはもたない旅をぜひに

独り言

天気が不安定でなかなか撮れないが
これも当然の流れ

自然相手
地球と宇宙のかねあいだから
いたしかたない

静けさに身を置き時を待つ

なるべく天然の海で
命がけと必殺技をくりだしパチリと
うつってしまった1枚を作品よ呼べるのか?

偶然とまぐれの瞬間が19年続くのだから
何かしら杏橋幹彦の技があるのだろうか?

独りだまって楽しんできた海の裏社会

海が遊んでくれ
光をあびなさい
光をみなさいと
言っているのか?

俺は暗い人間なのかもしれない

海は巡る

祝詞をよみ山伏の作法をとりいれ
ブツブツと祈ってから入る

海面でも怖いからいのり
その海に今日これた事に
すみませんが、お願いしますと立ち泳ぎで
ブツブツと祈る

海岸で戻れたことにブツブツとお辞儀をする

誰におそわる訳ではなく
これこそ誰もが自然にそうしたいあな
そうしないとすっきりしないな
と行ってきた時間が
独り言

潮風が教えてくれる独り言

感じた事は胸にしまわず
胸のまま、ブツブツ言う
文句なしのブツブツです

大事なのは独り
静かな大自然でブツブツ

人間様が永久にわかる必要もなければ
そこに身を投じる事もゆるさない地球
魚も珊瑚もすべて絶妙な間合いと棲み分けで
数十億年なりたって生まれた自然美

そんな御神木の様な海の山と珊瑚の森に
生きる生物は幸せである

世界遺産とか自然国定公園とか絶滅危惧種とか
おおきなお世話
しでかしたのは人間様である

人間様の恣意を自然におしつける必要が
無意味だと、学校で子供達へ教えないと
いけないな

人間様より強い生き物がいないことで
人間様は地球のボス気取り

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