24歳の4月15
あてもなく降り立った海岸で
泊まる家も、行くところも全く不明
それがあてもない旅なのだが
日本の誰かが新聞を買うと
部屋貸紙の欄があるよ
と聞いたのを思い出す
ブリスベン空港からバスに乗り1時間半
朝8時に着いた海岸で
スーパーの開くのを数時間待ち
待ってました!と
新聞と当時日本ではなかった熱処理をしない
100%オレンジジュースを買う
道端で広げるが
そんな欄はなく
家の販売しかない!
やられた!
数件の不動産屋に行くと
ジャップかえれ!
と言われ
あんまりうろうろしてると
狙われるな〜
どこに行けばいいやら
アイデアが出ず
海のベンチに座り
ふと空を見上げると
太陽が
今でも覚えているのは
なんだ日本の友達もみんな同じ太陽を見ている
俺はどこにいても俺なんだ
と感じると、勇気が湧いてきて笑った
そうか
ハードルが高い!わけだ
疲れたから
数日でもモーテルでも泊り
落ち着いて作戦だな
と海辺の宿二つに行くが
レセプションは鎖がかかりお昼休み
ダメか!
そうだ
行きたくはないが
遠くにそびえるビルが見える
その
サーファーズパラダイスという街の
日本食マーケットがあり
そこの看板にシェア募集が
書いてあると聞いたのを思い出した
日本人とシェアは嫌だが
もう仕方ない
バス停を探し
裸足の刺青の兄ちゃん二人組に
聞くと教えてくれた
英語が聞き取れず
どこで降りるのやら
親切な兄ちゃんが
次だよ
と教えてくれ
降り立つ止まるで
新宿の高層ビル群
いや〜
嫌だな〜都会
どこいけばいいのやら
でかいバックを背負い
キョロキョロしていると
サングラスのおばさんが近くにいた
あなたどこ行くの?
あれ
日本人だ!
いや〜
わからないんです
あてもなくきたから
日本食マーケットに
家の看板がある
と聞いたんですが
どこでしょう?
あら!
連れて行ってあげるわ
ついてきなさい
よかったな〜
親切なおばさんに着いていくと
怪しいアーケードに
あの奥にあるわよ
お礼を言い行こうとすると
その前に
私はこの和食屋で働いているの
ここでさよならだけど
この向かいのお店に
なんかきいいてみたら
でもあ〜早くあの外に置いてある看板みたいな〜
と思うより先に
ね〜
なんだか悪いけど聞いてあげて
この子あてもなくきたみたいなの
ドアを開けて入ると
白髪頭の角刈りの方がいた
日本人らしい
その人は横井さんという
日本人むけの結婚式の
コーディネート会社の社長さん
メガネをずらしながら
「何〜
あてもなくきたの?
どこか知り合いもいないの?」
いません。
すみません〜ほんと
「どこから?」
品川です
「えっ!
俺の家高輪だよ」
えっ?
「実家が?」
はい
「学校は?」
白金小学校と
おっ!
えっ?
中学一緒だと!
「担任は?」
えっ!
「担任まで一緒だぞ!」
うわ〜
横にいた奥さんもびっくり!
そんなことあるのかね〜
不思議だな〜
「おいおい
なんとかしてやるよ
どうすかな〜」
すると
奥にもう一人おばちゃんに
聞いてくれた
「す〜さん
どっかないか家?」
あらま!
ちょっと待って聞いてみるわよ
しばらくどこかに電話
大丈夫そうよ
パスポートもあるし
あのね
うちの家ね
1部屋空いてるのよ
オーナーがいて
その息子と私がシェアしてるんだけどね
オーナーがね
1週間100で良ければ
住む?
ほんとですか!
もちろん助かります!
お願いできますか?
そして息子が車で迎えにきてくれた
それがこの家
プール付き
あのね
私たち仕事があるのよね
夕方そうね18時に帰るけど
部屋ここね
家の鍵これね
自転車ガレージにあるから
乗っていいわよ
じゃね
バイバイ!
え〜
行ってしまった
シーンとした家
そんなことがあるんだ〜
うーん
ありがたい
より
不思議だ〜
う〜ん
どん底から奇跡が起きたな〜
う〜ん
あの時のシャワーは忘れない
早速自転車で街へ
信じられないが
現実
やっぱりやってみるしかない!
いや〜
幸せだ!!
森田健作ばりに
自転車で叫んだ
人の暖かさに感謝した
初めての当てのない海外
ラッキーでした。
地球の歩き方も
ロンンリープラネットも
ましてネットも携帯もない時代
これが今の旅のスタート
だから今もガイドブックは買わない
車のナビは使わない
電子レンジも大嫌い
自分の足で歩き
感覚で宿を探し
飯屋を探す
これがなければ
今の自分はなかった
まさかの波の命がけの旅が始まる
9年前の1992年のオーストラリア
アイルオブカプリ(カプリ島)