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撮れたのか?
凍った
印象どこに記録されているのか
一年前の11/29
日ノ岬の灯台から
まるでニュージーランドやスコットランドを想像した
美しくも青黒い冷たい海、独特な怖さ、吹き付ける風
寂しさを感じた島
ケルト民話の祈りの島か
まさかその半年後
ここで泳ぐとは
あの日の独特な感じは
1枚の写真で、胸の奥から
引き出される
印象はどこに記録されるのやら
ふと鮮明に思い出すのか?
気づくのか?
体内か
頭なのか?いやこれは完全に違う
それとも保存場所は体にはなく
どこかのメモリーか?
記憶は脳だと学者はいうが
記録と記憶の差は何か?
波を見た瞬間に記録され様々な過去の海の記録が蘇る
泳いで感じる波の圧力や水の向きや水温
と言った体の表面の感覚である
外的感覚
そこで波に巻かれる怖さは外的から内的へ
内的感覚だけだと体が先に動けない
想像もいけない
無駄な時間だ
禅のお坊さんが
無になるのは無理だという
無と考えないことは何が違うのか
波の中は
考える暇もないほど
追い込まれるというか
考えるが一瞬で
あとは腰と一緒に動く
水中も陸上も
ここが古武道の動きと同じ
考えてる時間がない
そこで冷静な心でないと
体術的にうまく動けず
呼吸が浅くなりパニックになったり
硬い動きになる
水中でも、つと滑らかに
指先を使い水を潜る
考えないで
でも考えちゃう人は
そうすると羊を数える
集中力を養い、いろんな経験をして
済んだことは追わない、ぐちぐち言わない
その時自分が決めた結論だから
その時はそのとき
良いわけで、失敗も成功ない
あるのは現実の体験
その日はその日で終わらせる
寝て忘れる
ダメなら次
気を付ければいい
人と群れない
自分が正しいことは宇宙が正しい
独り旅をする
そのうち
小さなことが
どうでも良くなる
波の中は瞬時の観察と
瞬時の動き
全ての道しるべは指先に
自由に旅して
独りで悟れ〜
と言ったお釈迦さんが指さしたやら
なんだか
それとて
その人お釈迦さんのいいと思った
印象と判断と確固たる本人の確信
でもそれはそれ
その人の考え
無理に合わせる必要はない
日本の仏教は、その時代時代の方々に
方便解釈され、いろいろな絵具を溶け合わせていった
進化し続ける教え
だから良いのかも
1つだけ
それならお釈迦様の日には甘茶でなく
ネパールのカレーをお供えした方が
今は亡きお釈迦様の故郷のお母さんの味がいい
に決まってる
もし自分が死んで墓に、ペペロンチーノじゃ
グッとこない
気持ちはありがたいが物足りない
日本人はおにぎりである
宇宙と水は無限に動くトーラスであり
地球人の知識や考えなど意味がない
その見えない水の風に
生かされ、則していくしかない
ただそれだけ
難しく考えず
海岸へで靴下脱いで足をつければいい
それぞれの階段の登り方
それぞれの倒木の潜かたがある
要はそこに行くときめた自分がいればいい
決めたらその場にいくこと
途中自らの、力を知り
今は無理だと思えば行かなくてもいい
が
少し自分を押す!
自分で自分押す
ライフガードは他人でなく自分
理屈や強要や教科書や命令ではない
自分の力を正直に見て知る
変なテレビ番組や情報は見ないで
宇宙自然物、自然現象に
心を通わせ、そこにいること
それだけで人間は正しい方向へいき
自然に助け合う
ですので僕も自然現象の中で印象を
繰り返し胸に溶け合わせている
宗派は宗派
道は違えど同じ修行者だから
第56回 京の冬の旅
14mの青波 の襖がこの時期だけ皆様を、織部作下り蹲、茶室ともに
皆様をお待ちしております。
ここは
江戸時代独特な画風の画家 曽我蕭白さんも眠る
お墓の文字は画家で宮司の富岡鉄斎さん
最初のお墓は風化し
ボロボロに
早くに亡くした息子さんと
同じ墓に入れてくれと言った蕭白さん
そして千利休の弟子で、茶人で武将で芸術家だった、古田織部さんの菩提寺です。
裏には5人の息子さんと奥様の織部焼のお墓も
バスツアー
山に佇む湯葉の松山閣さんでお食事コース
京都駅から、すべてお任せの特別コースです
www.optbookmark.jp/plans/3119/
京都観光協会
宇宙
Izumo
文字は永遠に語る
12/8は日本時間だと7日
太平洋戦争の始まり
実際にはマレー半島の攻撃が早いが
広告的に真珠湾攻撃が華やかだから始まりとし
10人のハッチを中から開けれない
2人乗りの潜水艦で亡くなった9人を軍神とし
意識を失い捕虜となった酒巻さんは黙殺
ハワイを訪れた際は行う
56人の戻れなかったパイロットの若者達の
名前を読み上げた
遺書
真に生命を愛する者こそ真の勇者である
生命を愛するということは、死にたくないということは大いに意味が違う
無為な長生きをするということではない
いかにしてこの命を捨てたら
二度と抱きしめることのできない生命を、意義あらしめるか、価値あらしめるか。
捨てる刹那に鏘然と、この世に意義ある光芒を引くか(鏘然ーそうぜん金属が高い音をたてる)
問題はそこにある
何千、何万という悠久な日月の流れの中に、人間の一生の七十年や八十年はまるで一瞬でしかない
たとえ二十歳を出でずに死んでも、人類の悠久な光を持った生命こそほんとの長命というものであろう。
またほんとに生命を愛した者とおうべきである
昭和十六年 十二月七日 午後五時
空母飛竜搭乗員 清村勇 十九歳
99式艦上爆撃機 第二次攻撃隊
操縦員 清村勇
偵察員 清水好生
アメリカではアーリントン
イギリスではウェストミニスター
国の為、国の強制により命を落とした方は
どこの国でも大切にされていますが
日本は負かされたからか
靖国神社へ参拝することは微妙なことに
右とか左でもなく、当たり前のことなのですが。
僕のおじさん緑さんは27歳で、船で戦病死したと聞く
もう1人は早稲田大学中にの学徒出陣で少尉としてビルマフーコンで戦死。行方不明です
桐の箱に箱に神1枚名前だけきたと
祖父は奇跡的にビルマで、そのいとことすれ違い
自分の作った鉄道で中国の国境付近の密林に送られ戻らなかった仲良しの従兄弟を
探し、生涯悲しんでいた。
昭和十九年三月八日。
山本五十六さんも米内光政さんも海軍は特に
誰もが負けると算出したアメリカとの戦争
軍部が力を持ち東條英機や永野修身が天皇を騙し
脅かした。
上官には物言えぬ、ダメだと分かっても
長いものに巻かれていくあの時代は
今の政治家さんと同じ
反対していた
東久邇宮稔彦さんは(香淳皇后の叔父)
はフランス
に在学中日本贔屓で日本美術のコレクター
クレマンソー元首、ペタン元帥から
アメリカは第一次大戦で邪魔なドイツをやっつけたから
次は東洋で邪魔になる日本を叩きつけようとしている
と
日本の方から戦争をしかけるように
手を打ってくるに違いない
日本は必ずアメリカに負けるから
アメリカの手に乗り戦争をしないように
と言われたいた
と
ルーズベルトも
戦争をしたいが自分から戦争は仕掛けない
最初の一撃を撃たせたい
暗号機も持ち暗号も解読され
実は全てを知っていたかもしれない
真珠湾は騙し討ちではなく
まんまと罠にハマり日本は予定通り負けていったこと
その数時間前には陸軍がマレー半島に攻撃
戦争の火蓋は
真珠湾ではなくマアレー半島だが
華々しい攻撃を先とした日本
アフガニスタンのタリバンを支援し作ったのはアメリカ
結局は、ベトナムやソ連と同様に
武器も全て置きっぱなしで撤退
国の為と信じ戦った若者達は
果たしてどう思うやら
写真の師の師
ユージンスミス
目の前で関係のない日本の親や子が殺されていく
辛い時間をカメラで写し
この戦争屋やろうどもめ!
と
ドキュメンタリーだと信じ写した写真の99%は捨てられ
悲しむ日本人や、若いアメリカへの死体のネガ焼きを見せると
今度こんな写真を撮れば太平洋か羅追い出すぞと
言われたという
他所の土地を欲しがりドロボーしあう地球人
今や火星までも
自分の星も宇宙も散らかし、破壊するだけ破壊しよごし
他所の星へ行くなんて
とんでもない。
海の魚は自由です
Cube の海
日々断言
断言する。私は写真家ではない。
1枚の写真は嘘をつけないと知った。
死ぬ可能性のある場に身を通じなければ
その真髄も自分が何者なのかもわからないと感じた。
天然の地球の、のっぴきならない場で、全てを捨てて体から教わる
身を以て体験を重ねていくと、やがて心を以って腑に落ちていく
さらにその2つの経験に体験を重ねて幾重にも広がる験を繰り返し
修めることを修験という。
山伏から山伏にならないか?
いや、私は海伏だと気づいた
太陽光線は宇宙から地球に約8分19秒後に来ているらしい
つまり、我々が見ている太陽は過去の姿であり、見ているのは太陽そのもではなく
続々と届く動く光の束を見ているにすぎず。見ていると思った物は見ていない訳だ。
波は波動で1つの固定された物ではなく、生きている。
常に動き、水素分子が、目には見えない細かさとスピードで
くっついては離れる動きの一部を波と呼ぶにすぎない
つまり波も太陽も人間の目では少し遅れた残像を見ている訳だ
影は光が作り、影も光の後についてくる。
光にも影がある
波は光の影だ
そんな影を1枚に残せているに過ぎない
射抜くような光陰が走り、宇宙の他の星や
地球の森羅万象と人の心の内を垣根なく照らす
目には見えない現象や頬を撫でる海風に畏怖を感じ心を寄り添うと
自然に人や物にではない、この宇宙の正心の信仰心が育まれていく
ないものに美意識を観、海の方丈で在るものを楽しむ
先人たちの叡智と彼らが胸をたむけた時間を探している
古武道の波
太陽が沈むと
色がなくなるのは
暗いからではなく
光が物に当たり反射しないためで
色がなくなったわけではない
水は不思議だ
光を透過させ
波の面により光をはじく
水面がうねり反射させ、高速な光を入れないから
黒くなるつまり
実際に1枚の写真にはズレが生じている
太陽の光は、宇宙を抜け地球まで約8分19秒で届く
ま〜波の裏は8分20秒か?
はるか彼方から旅をしてくる
太陽を見る
見た太陽の光は8分19秒まえの姿
我々はすでにないものを見ている
星は昔の爆発を見ていて
地球に届くのは光だけで
実際の星はない
波はどのような速さなのか?
水素結合力しながら動く風が
微細なドミノ倒しで水か離れてはくっつき離れていく
過去の姿を、人間は波という
時間の使い方
撮り方が人間界の時間とは違う
ファインダーも被写体も見ず
常に刃筋の立った
角度も向きも違う波
波のない位置で
シャッターは先に押している
先を読むのではなく
自然に動くこと
古武道
寝ます。
整う
泡の中
荒磯の後ろへ
旅
出雲で撮影してました。
日本海は流石の寒さ
そもそも出雲には波がほぼないので
無理だと頭で決めていました
始まったのは昨年
出雲大社の神在祭にご縁をいただき
大社の中へ入れていてだき、正式参拝をさせていただき
地元の御師の方に、稲佐の浜で写して見たらいかがですか?
神様と霊蛇様のうみへ
入っていいのですか?と恐る恐る
しかし海底が砂で秋からは風がビュンビュン
遠浅で水は濁り
これは無理です。
島根の半島を松江まで探索しましたが
綺麗だと思った海岸も、砂地が多く濁り
海岸の雰囲気がなんだか違ったり
美しい日本海の海岸線を巡り
日御碕が天照さんと素戔嗚さんを
祈った海底神殿があり
そこに岡本さんという
海底神殿を(神社)を見つけたすごい人が
いますので、行ってみましょう!と
ある地元のホテルの支配人
野武士のような、アイヌのような
髪を束ねた海の男が笑顔で
舟出しましょう!
泳げますか?
どうですかね?
とご親切に、神様の島や神殿の周囲を海から
感じたが、なんだか雰囲気がこわい
恐怖ではなく、霊的な何か
後から考えるとつまりは
聖域だからでしょう
海も深く太陽の光線の位置と様々
ピンとこない
結局、ゴミを拾いながら
海岸を歩いて探すと
テトラポットの隙間に
不思議な気の海岸がを見つけた
そこで写したら
写ったのが5月末
古代からの祈り場は今も
祈りがとどまっている
御神酒を注ぎ
貝を吹いて
祝詞と
般若心経
九字を切る
そして「ことわけ」
神様と古代の祈りの方々に
入らせてくださいと伝える
旅は頭やガイドブックではないのです
いいカメラや便利な機材を
最初から買い揃えるのではなく
工夫と創意
アイデアと
感覚のまま歩くこと
きっとたくさんの扉が無数にあり
どこを開いて、入っていくかで
人生が思いもしない楽しい時間に
スイッチを入れたように
変わります
なんでもやってみる
踏み出さねば何もない
泳がなければ何もない
海を通じて多くの方々からも
たくさんのギフトをいただいてます。
今は亡き
2003年
マウイのサーファークリスバンダーボートが言っていた
海をいつくしみ、リスペクトする人
人に対しても
地球に対しても同じだね
そんな人を
みな Watah Man というんだ
「Water Man」
それが僕の哲学なんだ
あてにない波の撮影で
夕方マウイのホノルアベイで
声をかけられ
ふと出会った一瞬が
呼ぶ絵も言えない時間
それが旅ですね
京の冬の旅」2022
で14mの波の襖絵を公開します
場所 普段は非公開 禅寺「西陣 興聖寺」
期間 1/8~3/18
拝観 800円
江戸時代の画家 曽我蕭白さん
千利休の弟子で、茶人で武将で芸術家だった、古田織部さんの菩提寺です。
お墓もありますので、どうぞご参拝ください。
バスツアー
山に佇む湯葉の松山閣さんでお食事コース
京都駅から、すべてお任せの特別コースです
www.optbookmark.jp/plans/3119/
京都観光協会のページで紹介されます
京の冬の旅
京の冬の旅 56回 2022
で14mの波の襖絵を公開します
場所 普段は非公開 禅寺「西陣 興聖寺」
期間 1/8~3/18
拝観 800円
興聖寺は40年ぶりの特別公開です
江戸時代の画家 曽我蕭白さん、
千利休の弟子で、茶人で武将で芸術家だった、古田織部さんの菩提寺です。
裏にはお墓もありますので、どうぞご参拝ください。
バスツアー
山に佇む湯葉の松山閣さんでお食事コース
京都駅から、すべてお任せの特別コースです
www.optbookmark.jp/plans/3119/
京都観光協会のページで紹介されます
日御碕
皆さんが思う波
とは全く違います
磯にぶち当たる波
ここだ!
と感じた海岸と海でしか撮りません
これは不思議な感覚です
ここは朱塗りの日御碕神社
家康の命令で東照宮の後に作られた建物
で左甚五郎ではないが、華やかな彫刻や絵で彩られている
龍蛇神とスサノオ、アマテテラス、稲荷神社もある
半年前に出雲から島根米子まで
原発を超え、撮れそうで入りたい海を探し
行き着いた最初に、訪れ感じた場所に戻ったご縁
実はあまり知られてませんが
裏山には素戔嗚のみことが
自ら柏の葉が落ちたところを
自分の御霊の鎮まる地だとした
神社という形のない昔の大切な場があり
姉の天照大神を古来より
出雲族や皆さんが祈っていた
夕陽神事の場です
海底には恐らく890年ごろに出雲大地震で
沈んだ、広大な古代の祈り場があります
参道や階段、滝の跡や、鳥居?をたてた穴?
勾玉や剣がまだ見つかってませんが
明らかに人工的な回廊です
見たい方はこの遺跡を見つけて研究されている
神社の目の前のダイビングショップ
アクア工房岡本哲也さんに
頼めば潜れます(閉まる時期的には5月末から11月)
海があとは荒れて、とにかく寒い!とのこと
そんな場所ですので
最初は怖かったです
現実的な波の怖さと違う
漂う空気感です
独特な生きた息吹と
祈りをしていた時間が今だに残る
特別な聖域だと感じます
海に礼を尽くし
古来の祈り手の方達へ義を尽くす
今では港が作られ
微妙な景観ですが
目には見えない畏怖が漂ってます
出雲大社
天皇と並ぶもう1人の生き神が
古来この地の王、出雲族を祖とする
出雲国造であった
九州の隼人族の宇佐神宮と同じく
ヤマト王権に力負けし
国の祈りを朝廷と行う役目に
江戸時代も独自の立場を維持し
支配を受けることなく、それまでは共に国祈りを
してきたはずの朝廷が(太政官符)798年で
祭祀のみに関わるよう命令されて以来
14世期半ばに千家家と北島家に別れ
宮司として祭祀をお互い分担し行ってきた
今の出雲大社で大きなしめ縄のある
出雲大社が山を見て左
右が出雲教の北島家
12世紀ごろから
神集いの記述が残るtらしく
いつからそうなり、またその時代
神様が集まるのを目にできた人がいたのかは
明確に誰にも分かりません
江戸時代に大社も宣伝を強くし始め
縁結び、神在祭りと、御師の全国行脚の努力もあり
ネットもTVない時代に全国に広まりました
期間中は道が大渋滞
駐車場が溢れ、数時間待ちの数珠つなぎ
出雲そばのお店も、よくもこんなに並ぶものかで
30人待ち
大社内部も参拝に並ぶ参拝者でぎゅうぎゅう
神在祭の最終日の日曜
混んでいるので行く予定はなかったが
地元の御師の方のお誘いで
裏道を抜け
なんとごった返す渦の中、神楽殿と本殿で
正式参拝で
玉串を捧げさせていただきました
宮司さんが読み上げる
希望の願い(顔意)は
神恩感謝
お忙しい中、宮司さんの皆様にも恐縮でした
この場を仮り御礼申し上げます
撮影は禁止なので
カメラも置いてきたので写真なし
特別な場です
今回は急に行くことになり
天気予報も見ないまま
晴れたのは最初の2日のみ
海は嵐の1週間
偶然波もあり
若干濁ってましたが
2日間は暖かな海でした
御神酒を捧げ
貝を吹き
祝詞を捧げ
いざ!
この時期は南の国より
海蛇が稲佐の浜へ神のつかい
としてやってくるという
神在祭だけは
龍蛇神(乾燥させたエラブ海蛇)を公開し
龍蛇のお札を販売している
出雲富士
土居清
6歳から愛媛の禅寺で始めた古武道の刀術
組織や団体に所属はせず
孤高の修行を重ねてきた
数年前
弟子はとらないと決めてきたが
胸に引っかかることは
やるべきだと
少しずつ弟子をとった
辞める人もいる
残る人もいる
しかし師匠の話は映画のようで
昔話の時間
昭和29年頃当時45歳の臨済宗の和尚さんは
いくつもの古武術の極伝を持つ古武士
稽古は寺の外か、雨の日は境内で裸足
3年間つまり9歳まで
朝も早く、学校から戻ると夕方も数時間
基本の6種類(6本の振り)を
振り続けたと言う
きっと今の僕らでは続かない
毎日朝晩、同じ稽古が3年
3年目のある日、振ってみろ!
と見られ
よし!
次を教えてやる
ここまで長かったがよくやった
この基本ができ刃筋が立てば
次からは色々な技を伝授する
と言われたそうだ
この師匠の極伝とは、段よりうえの皆伝のさらに上
生死をかけた当時術は剣道でも居合でもない
鴨居から下げたタコ糸を一太刀
稽古の刀術の技の中
耳の鼓膜も破れたと言う
当時はいいヘッドギアも防護面もない
そんな土居師匠
俺には時間がない・・・・
出来る限り
お前たちには伝えていく・・・・
老練な古武士の放つ雰囲気は独特だ
いつの間にかすっ〜と刀が動いてくる
相手が構えただけで尻込みする
気あたりがすごい
いいか
戦わなくて、殺さずに済む方がいい
時代は違うけどな
この創始者が独自に感じたかたを
作ったが
俺の師匠もな剛柔流も極めたから
それも混ぜてある
他にはないかただ
とにかく振れ!
わからないことは聞け!
それぞれの個性に合わせて教えて行く
よし
憂いある時間
日本人がとんでもない
命の危うい時間に生きた証と
心の鎮めと強い心の錬磨
無駄のない自然な体術
子供たちに教えていきたいと
旅の土産話し
93年あてもなく言った
オーストラリアの海岸
その4ヶ月後
なんだかあてもなく外国へ行く
という目的は達成した感じがして
また新たな旅をしたくなり
なんだ一度日本へ戻ろう
と直感で思うと
凝り固まった自分が楽になった
安いチケットはガルーダ航空のバリ島経由
9時間だけ寄ったバリ
まづは海へ行こうとタクシーでクタビーチへ
まだ田舎の雰囲気が残る海岸は
土産物やと、ジャンクな土産物を歩いてうる客引きが
客引きがひどく
重いいバックを背負い、どこへ行けばいいやら
人には騙されなかったが
料金には騙され7000円払い
道で声をかけられたドライバーの車に乗った
いつ来たの?
今
いつ帰るの?
今日
今日?
バックミラー越しに驚いたおじさん
トランジット(乗換絵)で9時間しかないんだ
名前も忘れたが
親切だった
料金は1食50〜100円を考えると
観光客値段だと知るのは後のこと
それ以来数ヶ月おきにバリへいき
2度目からはレンタカーでバリを走りまくった
ぶつかるほどの頭勝負の運転
車はマニュアルのジムニーとケジャンという少しでかい車
賄賂に汚れた警官に、停止線を踏んだとか
言われたり
しながら島中を周り
夕方のサヌールについた
宿を探し良さそうな宿の部屋や雰囲気を
見せてもらい
そこが定宿になった
確か1泊50~60ドル位
海岸にいると土産物売りがうるさいから
散歩をすると一軒の骨董屋があった
他の店とは違うのは
真新しい観光客に売るための
カラフルな木彫りなどがない暗い店
恐々入ると
黒メガネにランニングシャツのオヤジと奥さん
甘くて粉々しいバリコピやお菓子をご馳走になり
店の中のいかにも選んで集めたオヤジ思い出の品々
結局5日通いつめ
何度も電卓を叩き夫婦で相談し
最初はあまり値引きしてくれなかった
古いガルーダを2つ買った
確か2つで12万
どうすればいいの?
と聞くと
日本の空港まで送るから
明日、また空港に着く日を教えるから
インボイスを持っていきなさいと
自分で成田で通関するようだ?
できるかな?
結局言われた日に成田に行くと
来ていた
オツナカ(税関業者)を使わず
自分で教えてもらいやってみた
箱を開けると2体が入っていた
がしっぽだ折れている
?
よく見ると接着剤で既にとめた跡が!
くそ!だまされた!笑
それでも数ヶ月おきに会いに行き
家にも行き、田舎まで行き
白蛇のいる?わざと蛇?
タナロット寺院の中でバリの正装をし
名前までもらった1996年
そんな2つの仏像というかバリの神様
は日本に来たある日から、ラップ音がおき
天井や何かが、パキっ!カタッ!と夜になると
音がする
怖い!
ある日などゾワーっと絵も言えぬ
お化けが来たときの感覚(何度かお化けは見ています)
寒気が包み鳥肌が
これはきっと祈られた霊力というか
魂があるから
と
お水を置き頭を撫でて話かけたら
止まった
人生の不思議な体験の1つ
骨董物には、魂が宿る(特にトペン(お面や人形は)危ないというか入ると聞いた)
まして祈られた物で、外国に連れてこられたのだから
日本でいう、物にも100年経つと
「つくもがみ」という神が宿るのと同じようだ
前置きが長くなりましたが
そんなバリでご縁をいただいた
ガルーダ(すごい重い木の一刀彫り)と
伊賀忍者の供養をしに行った時、1枚だけ撮った山の1枚は独特
だな〜と和室で思いにふけるの巻
今では毎日お水をかえ食べ物をお供えしています。
そうだ
霧のタンスは爺さんが戦争中焼けないようにと
五反田の家から柿生の知り合いの家まで
大八車で運び、また持ち帰った
という婆さんの嫁入り道具
生前ほんとに大変だったと
車がなかったからな〜
と笑っていた
ものを大切にした時代の美しい時間
を集めると、心が豊になりますね。
友へ
風がビュービューふく
防風林の細い路地を海の女と歩いていた
初めてなのに
懐かしい知っている道
でも
なんだか寂しいのは
毎日ここを歩いていた主をなくした道
だからか
その場には何か気のような
なんというか
目には見えない残像と雰囲気が残るのだろうか?
毎日ここを歩き
漁に出たのかと思うと
少しでもその足跡を感じたかった
一通の葉書がここに呼んだ
今から35~36年前
魚のアルバイトさきで
後から入ってきた、田舎の元不良な雰囲気の
長身の笑顔の2歳年上の木曽さん
その日から仲良くなり
海に素潜りに行き
貝やウニを焼いて食べた
5年前
当時の名刺を手がかりに
お父さんが開いていると聞いた
海産物屋さんに島屋へいった
お店は開いていた
30年間あってませんが
東京の友人です
というと
お母さんが干物を焼いてくれた
やがて漁から戻った
30年ぶりに会う友は
潮で焼けて、シワも増えたが
笑顔の人なっこい目玉は変わらなかった
目が語る
でもそれから
思い出してはいたのに行かなかった。
後悔はしないように
と言いながら
こればかりは
後悔先にただず
店の雨戸は閉まっていた
向かいの磯料理のおばちゃんに
聞くと奥さんに電話してくれ
すぐに、日に焼けた海の女がきてくれた
キョウバシさん
わざわざ・・・・
道を歩きながら
ポツリポツリ
この辺じゃ潜りでは1番と言われてね
6月に食彩の王国に出演したのに
進行性の病魔が既に体を蝕んでいた
あんなに元気な海の男も、
あっという間に戻れなかった
最後は家がいいと
言ったそうだ
エビ網や漁具の先の
代々のご先祖の写真と空海さんの仏壇と
氏神様を祀る神棚に囲まれ
石垣鯛を持つ写真が笑っていた
人の命は
草木や珊瑚より儚い
会いたい人には
日常で忘れがちな思い出を紡ぎに
なりふりかまわず会いに行かないと
あの時期てくださってから
主人はよくキョウバシが来てくれたんだ〜
って
喜んで話していました
ここは千葉の最南端白浜
今では高速道路もでき2時間もあれば来れるのに
申し訳ないね
木曽さん
ごめんね
と仏壇で涙した
同じくそれぞれに道で
海の男になっていたアマ(海士)と海伏
飾らず笑い
東京には興味が消えた
海で働き命をもらい
厳しい荒磯で生きていた海の男
どうぞ
皆さんも、おじいさんやおばあさん
大切な友達に一言
会いにいくねと
時間はあるようでなく
長く生きようとも
それがとえ、人間の時間で短くとも
どう生きて、光陰を引いたかに
その人の生き様が続くのですね
新しい付き合いが始まりました
息子さんが昨年からその海の道を
歩き泳ぎ始めたばかり
とお聞きしました
何かできることがあれば
共に。
帰り道は一人
友達の子供の頃から変わらない景色と潮の香り
と、足跡が染み込んだ道を歩いた
港に着くと
不意に1羽のトンビが現れ
風に乗りすぐ近くの低空を舞い始めた
ありがとう
入海
クック諸島
ラロトンガ島の沖300m
雰囲気が恐ろしい
前に遠いな〜
ゴマ粒のような
サーファーを見つけたのは昨日の午後
この島には波がないのか?と
ま〜いいや
うまいものでも食べるか
レンタルバイクを
海辺のホテルに向け
海の見えるオープンカフェで
ハンバーガーを食べた
帰りがけ、公園の木々の向こうに
さっきはなかった
レンタルバイクが3台に海に向かい停まっていた
感覚なのだが
こんな場所に不自然で人はいない
もしかしてサーファーか?
と思い
バイクのハンドルを切ると
はるか彼方にバイクの乗り主
サーファーがいた
強烈なほれた
早い波に乗るが
どうもボディーボーダーか?
遠くて見えないが
この時は嬉しかった
急いでと言っても20分かけ宿に戻り
カメラをセットしウェットきたまま
戻ると
彼らが戻ってきた
砂浜ですれ違うと
ニュージーランドからきた若者
流れはあるの?
と聞くと左から右にゆっくりだけど
悪くはない
と
泳いでいくの?
とびっくりされたが
行くしかない
誰かいれば心強いが
誰もいない海まで20分
強烈に早い波は、全く休ませてくれなかった
戻れるのか?
潮の引き具合によっては
浅くなり戻れない?
のかもしれない
刻々と変わる水深
に気を配り
包むように迫る波を
潜ってはかわす
写真は3日目
誰もいない海は
独特だ
鉛色の波が壁となり迫り
サイズアップしてきた
これは海が引き始めた証拠
戻れなくなるギリギリが
迫るという警告
雨が降り始め
ブルーグレーの水面一面に波紋が現れた
誰もいないうみで
絵も言えない怖さが
祝詞を読んでも大声で立ち泳ぎで
くじ切りをしても脱げず
20分かかりここまできたが
帰ろうと決める
何か良くない感じがする
滞在はわずか15分
胸がゾワゾワして
波を潜り抜けるのも
なんだか上の空
緊張感も消えただただ胸が怖いだけ
負けてたまるか!と
意識を変えようとしても
この日の怖さは胸に全身を包む
そんな海でスローシャッターためした
わずか20枚の1枚
後で思えば
潮が弾き過ぎて戻れず
死ぬから
帰れと
海の神様が伝えていたのかもしれない
古い古いポリネシアの
神様か何か有機的な時間が住う海
こうした思いが人を
この宇宙と海のバランスに謙虚に生きる
のだと示している
海の水温
指先に感じる水流
胸に集まるワクワク感と
胸が潰れそうな怖さ
陰陽の世界を知ること
自分の力で切り抜けること
自然にまかせれば自ずと
気づけばいいようになる
頭は捨てて
体から入る
透明の謎
神妙 写
アクリルの小作品
テーブルや棚やデスクに
1つもよし,3つもよし
これだけ複数揃え
好きな順番と飾り方で
自由に海を作るのもよし
これは職人さんが
手磨きな為
もうやりたくない!
と笑った逸品
笑いの種類が違うのは
僕にもわかる
印画紙
裏張りの紙
アクリルをピッチリカットして
アクリルの分厚い板を手で鏡面仕上げに
根気と塩梅で磨き続ける
正直
大きな作品の方が簡単に思えます
とまた違う種類の笑顔
お願いするしかありません!
写真はフリーア美術館の
北斎の肉質画の雷神
凄い魔力で、霊力が宿る
生きている感じがします
墨田区で生まれ
六歳から絵を描き
修行を重ね
版元との依頼や打ち合わせを重ね
増産できる浮世絵を離れた晩年
1874年 「画狂老人卍」
80を過ぎ
自然や龍や獅子を描く
73歳にして、悄々(しょうしょう=ようやく)禽獣虫魚の骨格
草木の出生を悟り得たり
故に80歳にしては、ますます進み
90歳にしてなお其の奥義を極め
一百歳にして正の神妙にならん
百有十歳にしては、一点一画ににして生きるが如くあらん
願わくば長寿の君子、予が我が言の妄(みだり)ならざるを見たまうべし。
そして100を迎えられず
90歳でこの世を去った北斎さん
まさか作品がアメリカに行くとは
皮肉なことにコレクターによりアメリカに渡り
東京大空襲や戦災を
免れた訳です
写真はいわば浮世絵か
原画をきっちり描けないといけません
其のさきはにがあるやら
写真を描くのか?
カメラを捨てないと
観えない神妙な領域が
あるんだろうか?
京の冬の旅
京都 臨済宗 興聖寺(宇治の曹洞宗 興聖寺ではありません)
茶人,武士,芸術家 古田織部さん
江戸時代の画家 曽我蕭白さんの菩提寺
普段は非公開の14mの青波襖を
2022年 1/8(土)〜3/18(金)の期間
第56回「京の冬の旅」 特別公開します。
織部、蕭白さんの
斬新な世界観に
は及びませんが何かのお導きを感じます
仁和寺、大徳寺はじめ
選ばれたお寺の、普段は見れない秘仏や襖絵が
特別公開されます。
Would you see
Blue surf fusuma photo at
Zen temple Linzai shyu Koushouji at KYOTO
Kousyouji had Long History also teamster /samurai Artist Furuta Oribe & Painter Soga Syouhaku
tomb.
It’s that you can see will be released specially
from 8 january to 18march !
It’s plan of JR kyo no fuyu no tabi
アンチエイジング デンタルクリニック 恵比寿
アンチエイジング デンタルクリニック 恵比寿
に写真の展示販売を開始いたしました。
完全予約制の院の治療個室にも
写真を飾っていただいています。
小さな虫歯やクリーニングから
親切な小川朗子院長とサーファー須藤さんが
丁寧にご相談に乗っていただきます。
ぜひ
恵比寿駅3分
道場
古 術
胆力
古武道の土居清師匠と一日
刀剣博物館から赤坂豊川稲荷の菊屋さんで
黒蜜のところてんをいただき
御供物をご奉納
融通稲荷というお稲荷さんがあり
御供物を捧げ
お賽銭を入れお願いをすると
お願いを融通していただけると言われています
その際1つだけ、社に置いてある
黄色い封筒を頂き
お願いが叶ったらその封筒に
お気持ちのお金を入れて
お賽銭箱に戻します
その横には
弁財天と龍神様がいらっしゃいますが
あまりに雑な池の防水工事は残念でたまらない
それはそうと
豊川は曹洞宗で武将たちや
江戸時代は大岡越前さんが代々大事にされていたようです
本家は愛知の豊川稲荷で
宿坊も泊まれます。
最初からあった神道の(白髭のじい様、で農耕の神)(狐は実は龍神様)
とはまた微妙に人間の解釈では違い
生きた人の心臓を食べる荼枳尼天(だきにてん)と
スライドして重なった神
で神社でないのに入り口に鳥居があるので
間違えて二礼 二拍手 一礼
されている方も多いですが
般若心経と
荼枳尼天のオンシラバッタ 二リウン ソワカ と三回唱えます
裏に恋愛?に悪用された愛染明王さんや
弁財天の奥に恋愛に効く?というと
なんですが
社があるので
いかにもそうした女性が多いです
出雲神在祭も
縁結び恋愛も御師によりひろめられ
江戸時代に作られた広告です(収益を増やす為)が
維持するためには神様も寛大なお気持ちでしょうか?
大国主はそもそも土着の神で
神様の世界の供養人とも言われています
それがいつの間にか、商売繁盛!仏教のうちでの小槌の大黒天と
これまた同じです!と誰かが言ったらそのまま
癒着した訳です
息子は 事代主=エビス様
弟は タケミナカタ=龍神
奥さんは100人以上
鍔は京都の愛宕の飛脚をモチーフに
造られた美しい工芸品でした
墨書きはいわゆる
これは本物ですという
俗にいう折紙
最もそれなりの人が書いたら
折紙になってしまいます
茶碗の箱書も贋作が多いですし
浮世絵協会を作っていただいた
太田記念美術館の楢崎先生に
お酒の席で頼んだら書いてくれたり
オリガミには人間味があります
最近爆発的高騰した北斎も贋作が多いですの要注意!
話はそれましたが
自らの正しいと感じた道を歩くと
土居師匠のよう風貌になるんでしょうね
組織にも協会にも属さず
多くの日本の武術家の先生のように
弟子や入門者が買う武道具やから
キックバックを受け付けない
野武士であり古武士の男の話し
真実に正心あり
海に正心を尽くす
神仏に礼を尽くし
頼むもではない
ルバング島で29年戦った
小野田寛郎さんもおっしゃっていた
当時の上官 谷口さんから
夕暮れのルバング島で訓示があり
というのは嘘で
本当に裏の任務があると小声で言われと思ったが
何も言わず
読んだ紙をしまい終わり!
と
聞いて
本当に戦争が終わっていたのか〜
急に腰がふにゃふにゃした
何のために仲間が死んだのか?
盗んだラジオや投稿のビラで
傀儡政権で表向きは降伏したが
実は違うと信じていたが
空を飛ぶB52はベトナム戦争の爆撃か
ガックリした
と
寝る時も斜面に寝て常に命を
研ぎすんでいらしたと
すごい話です
宮本武蔵はともあれ
小野田さん曰く
神仏は信じるが
神仏には頼らない
いい言葉です
土居師匠もよく常在戦場と話しています
常に戦場という心構えで精一杯生きろ
今は鎌倉時代のような争いがないが
そういう心構えで昔の人がいた事
自然や万物の中に生かされ
神仏を尊び
己の小ささを知りなさいと
どの世界も同じです
僕の戦場は海である
探し者
太陽は7色でできている
海の水を手ですくっても透明なのに
海に色があるのは、その7色の光が海に
透過し吸収される
泳いでいて
怖いのは波のたつ海底が見える場所の奥の
一面の濃紺の海
深い海底を意味し
水温も流れもかわり
何がひそんでいるやら
独特な静けさと見えない怖さ
息にも限界があることも荷担する
ここで大事なのは慌てないこと
考えすぎないこと
常に冷静に、海の水の硬さや
流れ、波の流れを指先で感じながら
指から動くこと
人はこうした海の中の山や
山の海に怖さと畏怖を忘れず
所詮人間様には敵わない
大きな力で遊ばれていると知ること
無理はしないが
少し無理をしないと
撮れないこの はざま は自分で
勇気を持って、己の力を客観視し
訓練し、経験していくしかない
片手
両足で泳ぐだけの
明朗な世界に己を探す
人の思惑を超える写真
今映画になっているMINAMATA水俣
その本人ユージンスミスは僕の写真の師匠の師であり、師匠の友だった。
トッパンのスタジオにいた頃
ユージンスミスが戦争ではなく、確かFordの日本全国の撮影や様々
現像を任され、アシスタントをしていた
いい〜親父だった〜
と
生前
よく口癖のように話していた。
戦争の報道カメラマンとして
アニーパイルやキャパと同じく
最前線に派遣され
その現状を写したが
サイパンや沖縄の配色濃い中の
追い詰められ自決へ向かう
悲しげな親子の表情や、ふと戦争を忘れ遊ぶ楽しげな子供たち
が自分の子供と同じようだと感じシャッター押し
アメリカ兵の死体など
そのありのままを写し
戦争屋どもめ!
と戦争のありのままを残そうとするが
これは、戦意を失わせる感情に触れる写真
軍の担当上官に
太平洋から追い出すといわれという
ドキュメンタリーだと思われた
自分の写真のほぼ焼かれた彼の葛藤
やがて砲弾の破片で重傷を負い
カメラから離れたが
数年後
セントラルパークを歩く
2人の子供の姿を写し
人に見せたことで
「人」ドキュメンタリーに戻ったのだろう
誰も当時は蓋を開けようとしなかった
小和田雅子さんのおじいさんの江頭のチッソの引き起こした
化学肥料工場から出る水銀中毒
の人々を水俣にアイリーンとすみ写していく
やがて
千葉の五井のチッソの住民集会で
雇われた輩に、カメラを壊され、暴行を受け
怪我を負うが
俺は恨んではいない
と言ったという
体の中の砲弾が痛くて
それは大変だったようだ
カメラ
いや
1枚の写真が人を動かす
揺さぶる
カメラマンを奮い立たせる
また写した1枚には
不可思議で正直なありのままの空気と心象や
奥にひめる何かが残る
写真機こそ現代の発明の
最も優れた、地球人を如何様にも変える
1枚に立ち会える瞬間
を残すものだと思う
カメラがなければ1枚は残らず
ユージンや柏原誠がいなければ
彼らの人生観をも揺さぶり変え続ける
1枚はなく
彼らの死後
僕たちの立ち会えない時間と
時間を変え
その場の生きた時間と風に
立ち会える
そんな1枚に自ら独りで立ち会うこと
被写体に溶け込んで、近くで写すこと
その相手のキラリ!とひかる
瞬間を少し先に感じて
その時には思い切り押していること
感じたまま
その風に溶け合うこと
ユージンや柏原が命をかけて
歩いてきた山道が
時を超え
教えてくれている
写真は嘘をつけない
嘘をつくのは写真屋だ
合成も修正もない1枚
僕は海に命を賭す
繋がり
生まれ育った
茅ヶ崎は柳島の厳島神社へ奥には、半蔵坊(天狗さん)と猿田彦、道祖神、白龍、青龍
石碑には、明治31年4月17日午前3時出現とある
厳島神社というように(弁財天)市杵島ひめ様を祀る
(龍族をまとめるかた)
でたんだな〜
ここ
そして
香川の高台、富士山が鳥居の間から一望の
出雲大国主の次男タケミナカタ(龍神様)を祀る諏訪神社へ
その昔は茅ヶ崎は美しく、投網で小魚を獲る
広大な芦やよしのはえる水郷地帯
それを昭和39年以降宅地造成のために
全部埋めてしまった。
神社へ行くと御神酒が
実は2年前偶然、代々木八幡のリズムという
オリジナルの知り合いの靴屋さんで出会った
モンドさんという、植物で空間を飾るかたと出会い
なんとお住まいが神社の近くとわかり
ごじつ一緒にお参りをした
すると
僕が代わりに御神酒を捧げます
との言葉通り
今までは僕のおいたお酒がそのまま
放置されていた社とお稲荷さんに
新しい御神酒が置いたあった
ありがたいことです。
ありがとうございました。
ホウキで落ち葉を払い
1年ぶりの参拝
また出雲へお父さん(大国主)お兄さん(事代主)の
元へ行ってきます
森羅万象
撮影へ
人は波
お祭りは神事
御神輿は氏神様を
のせ近所を散歩し
1年の無事とその豊さに感謝し
神様の目には見えない御神徳を行き渡らせる
神様を上から見てはいけません
という古来の決まりも無視され
歩道橋やビルやマンションから
眺めたり携帯で写真をパチリ
天皇陛下にスマホを
向ける時代
何を言ってるんだと
言われようと
違うものは違う
それはそうと
数千年続くお祭りも
1年に1度しか会わない人が多く
写真を残していくと
あれ?
毎年、毎年、爺様たちは
この世から消えていくが
祭りの作法は受け継がれていく
ジーンズを履き
滝も川も破棄され
山も造成された日本で垣間見れる
古来からの日本の姿
人の命は
木々や珊瑚より儚いものです
それはそうと
写真の人は
五反田で居酒屋元
の店主
極真空手のげんちゃん
ファイヤーキングにもきてくれて
お祭りでは彼がいないと
どうも物足りない
一日中4トンの木製の御神輿にくっつき
朝から晩まで担いでいる
お祭りの人の姿は
本当の美しい
無条件で1つのこと
神ごとを通じた時間は
着飾ったプロのモデルよりも
自然なすごいオーラ
こうした男たちの熱意と憶いが
神仏とともに国を護り、人々を正しい方向へ向かわせます
波は人
人は波
少し先を読む
太陽が消え始めると
海は風が吹き寒くなった
太陽が消えかかる15分
後で見ないとわからない写真
不可思議な1枚は
ファインダーは覗かない
覗くとあの小さな窓で
作者の思惑と恣意で絵を作り
きな臭い写真が出来上がる
いい写真を撮ってやろうという捏造中に
本来のキラッとした瞬間も逃す
波の1枚は人の写真と同じ
見てもいいが一瞬見ながら押す
動きながら人の動きを感じて先に押す
うまく言えませんが
波と人は波動です
同じです
海での遭難は
体温低下 ハイポサーミア
やパニックになり溺れていく
もうだめか
駄目だ!
あまりの過呼吸と波に飲まれた苦しさで
心が折れ
諦める
最後は呼吸を止めて
す〜っと意識を失う
限界は自分がきめている
もったいない
浅い呼吸は全てを負の連鎖へ
筋肉の疲労と酸素が行かなくなり
カチカチに動かなくなる
これは乳酸が貯まるわけだ
無駄に水を無意味にかいたり
するうちに、どんどん筋肉が疲れ
体力が奪われていく
離岸流(カレント)がある場合は
斜めにどこでもいいからゆっくり
泳ぐ、
心理的に人は1歩踏み入れた海岸に
戻ろうとするが、戻れない場合もある
臨機応変
平泳ぎでもクロールでもいいが
クロールと平泳を合わせて帰るといい
いわばは避けながら
もし沖から波がきたら
その波に乗り戻る
ライフガードも知らない
海で遊ぼことが大好きな
海や川の子供たちの水難を
無くしたい
片手にカメラ
片手でクロール
足には足ひれ
人様の海という家に
お邪魔するのだから
最低限の道具でいくと誓った
とにかくすみません
お邪魔します
と思うこと
昨今海はゴミ捨て場
千葉の海岸で夏によく見るのは
バーベキューのセットをそのまま
捨てていく
空き缶もポイ
海の怖さと美しさを知れば
そもそもゴミを捨てるなんて
できないことだが
教わらないと
できないほど
人間界は自然から隔離した生活になり
そうした感覚を失っている
自然の怖さを遠ざけるほど
人間は宇宙や海をバカにする
もう少し
小さな頃から
山河の時間を増やさないと
結局は自分たちの首を締めていることすら
気づかない1日を流す都会の暮らしにスタックする
記憶にないという政治家先生が
のお上なお喋り
は海で死にます
いいですか
1度、波を泳いでみなさい
記憶にないなど言ない人に生まれ変われます。
本当の話しをしないと
信長のように冥罰が来るんじゃないかな
人は器 松本ヒデさん
ミラノであった
レ オステリア アピ
のヒデさん
器にその人を表す
我々とは逆に
器に人の心を表現できる人
独特な盛り付けと丁寧な作品に
フェラーリやアルマーニからも料理の依頼もくる
素材が茹でようが、煮ようが生き
舌が知らないソースの不可思議で絶妙な味
に世界の人々が来ていた
そんなヒデさんは
日本に戻り
八ヶ岳高原ロッジの1週間だけの
レストランで腕をふるい
そこでの展示のお話をいただき
そこにたまたま来られた
伊豆大島に先祖を持つ弁護士の先生
をご紹介いただき
大島の波浮港を望む
事代主の奥さんのハブヒメ神社をお参りしに
一緒に大島へ行き
ファイヤーキングでは
出雲(大国主、事代主)
の作品まで
飾っていただいた
不思議な潮流をミラノから流してくれた
ヒデさん日本での
お店を楽しみにしてます
今場所を探し中です。