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写真とはなんであるか?

なんて難しい話しぶつかっては
感覚に問う

頭に問うのではない

人の命は儚いと
宇宙と自然の
のっぴきならない美しさと力の前でひれ伏す

この海が生きてきた時間の1滴にも満たない時間の
0.02秒の姿を止めた1つ

人の目にはもちろん
見ていながらも
見えない1つの時間

多くの人は海の水面を見

揺れ動く水面の下で何が起きているかは
当然、気づかないままそれを海として記憶し
忘れていく

海の中は全く別な生き物の調和の中で営む
もう1つの地球だが
実はこっちが本当の地球で
狭い陸上に張り付き寄生し
あらゆる自然の構造物を破壊、これでもかと取り尽くす人間は害獣で
偽の地球かもしれない

波も海も蟹も魚も珊瑚も
無意味に破壊することなく
海の宇宙に合わせ幸せに暮らしている

キリストも仏教も
宗教も何も必要ない

お互いが普通に自己の力で生き
人に自我を押し付けたり
海を汚さない

魚は側線や目で感じ取り
人間は長くいれば死ぬ厳しいはずの水中を自由に飛ぶ

そんな時間を数十億年見てきた海

水は意識があり
蒸発して空に向かい
やがて雨となり山に染み込み
また雪になり変幻自在
 

そんな山から時間をかけ染み出した水は
ごく普通に全てを経験し記憶していると思う

波の中にいると
明らかに何かに見られている気がする

同時に常に帰ること
帰れる算段をつけながら
撮っている

一瞬で変わるから

自分への嘘や傲慢な思いは
自然に海から帰れない確率を増やすだけ

海や魚から人は学ぶことが多いと思う

僕は死ぬ確率の高い海が波の中だと感じ
そこに簡素な道具だけで身を置くおこと
カメラで写すことで何かを見つけようと
海岸を離別したあの日

本当に怖かった

戻っては世俗で生き
海の聖域で生かされ
戻され
また海へ

その怖さも繰り返し繰り返し
体のどこかに(多分胸のあたり)記録され
さっきまでなかった怖さがまた
胸に集まっては消えるやら、消しているやら

これだけは言えます
人はありのままの地球の
怖さの中に身を置くことで
自ずと強くいき

自然に正しいことをしている
いや正しくないことはしなくなる

風に耳をさらし
心を曝し
頭で考えてもよくわからないから
海に身投げ

不思議な1枚が観す未来をパチリ

黄泉

伊豆夕暮れ
事代主、市杵島媛を祀る神社のうみ

遠い黄泉の国の入り口

ハワイ ノースショア

2003年の冬のハワイノースショア
色加工なし

全てが黄金に包まれた
海から上がり、一度車で宿まで帰り
フィルムを詰め替えきた
ノースショアの1本裏の道(ケヌイロード)や駐車場さえ
治安が悪く車上荒らしがいるので
車の中にはタオル以外は置けないのが不便

赤いレンタカーは狙われやすいから
目立たない色に変えたが

空き巣や、ドラッグや、家庭内暴力や様々
それがハワイの現状
アメリカの属国にされピザを食べ
破壊されてきた神話の時間や生活

それでも海は
幸せな時間

何度泳いでもパイプラインで巻かれ
石に叩きつけられ(ラッキーにも岩には当たらず、足を切っただけ)

水中は結構大きな角が丸い岩がゴロゴロ
皆これにあたり命を落とす

ヘルメットが岩にあたり
あとはもう苦しいだけ
泡とあらゆる方向から波の圧力に
体がバラバラになるんじゃないか?
無重力で巻かれた

本当に世界で1、2の危険な海

もういかないです

作品として生まれる

雨の中で、水中は暗く濁っていたが
水面に顔を出すと波が迫っていた

祝詞を捧げ
くじ切りをした

W900×H600
印画紙プリント、国産アクリル、アルミニウムマウント
手製

各サイトで少しづつ販売しております
どうぞご覧ください。

www.umi-bushi.com/

海の話し

同じ時間はない
地球ができて何十億年か知らないが

一瞬たりとも
色も形も音も同じものはない

太陽の光がなければ
生命も地球も生きてはいけない

全ては闇にかえす

人間はすべての
ものは色を持たず。反射で見えているが
唯一水だけは光を透過させつつ
光の粒子を水野隙間に閉じ込めることができる

塩分ももしかしたら
屈折に作用しているのやら

闇の中から始まった宇宙

千利休がワビサビの追求の途上
黒茶碗や茶室を2畳にし
すべての余分を視覚から見えなくした訳を
もし会えたら聞いてみたい

静寂の闇に精神をゆっくりと
丁寧に重ねていく

茶を立てる音さえ
違った音や感覚となり
伝わる

水平線を見ている

はるか彼方を見ている

海の話し

自然から心が離れれば
自然に海や珊瑚の物語を忘れ

野生と宇宙の景色に溶け合い
落ち合う約束を忘れ

形式的な人間になっていく

言葉ではない

本心を語り
身を持って全身であの美しい夕陽や

雨を浴びなければ

どんどん人は弱っていく

パワーをチャージするのではなく
調律し戻す

本来の持つ強い力を蘇させる

不思議な場

海ってそんなところ

海へ

海とは

呼吸

叡智を憶い起こし
自らを見る鏡

時間を超越し、海へ入るまでの意識の線を捨てさせる
異空間

残り続けるもの
見えない時間が残り続くから
人という入れ物を脱ぎ去らざるえない
神聖な場

極限のない美
極限のない怖さは人間だけが感じ
魚達には無い

極限のないありのままの宇宙
太古の約束を思い出す場

海へ海岸の境界線が大事だ
そこで許可を得る

それはネイティブハワイアンの祈り
アイヌの優しさ満ちた
全てへ言葉を超え、胸を捧げる

自然に神様に
自らのことを
話しかけることを
ことわけという

禊ぎ祓うことが世界共通の自然という言葉の前からある場への
礼儀にはかわらない

宗教ではない
神とは一人ではない
自然界の全てについている
美しさや怖さ

日々自然なことをするだけ

テレビにお寺が紹介されます

京の冬の旅
そうだ京都行こうで
紹介されている、京都 臨済宗 興聖寺がテレビで放映されます

お時間があればご覧ください。
多分襖も少し映るかな?

放送日
KBS 京都 2/6,20 2100~
BS11 2/14 20:00~

青波の襖の特集ではありませんが

お寺と織部さん曽我蕭白さんに光がさしたら
嬉しいです。

伊賀上野城の城主(自らの菩提寺 赤目延寿院に位牌があります)
藤堂高虎さんは織部さんのお茶のお弟子さんのため
織部切腹後、織部さんの屋敷の整理やおそらく葬儀など
このお寺の大檀那として、織部さんのことを偲び
このお寺を守られたようです

伊賀忍者の供養に伊賀赤目延寿院へ初めて行った
2013年6/11

お堂と高虎さんの御位牌を掃除させていただいた

2021年2月18に奉納 ちなみに
2/11にはお寺にいた

1651年6/11は 徳川家康に嫌疑をかけられ
文句1つ言わず 織部さん73歳 長男重嗣さん37歳が、京都で切腹した日

伊賀忍者の供養から京都へ高虎さんの不思議なご縁

寄せる

写真を撮るには
その場へいかねば始まらないが
写真には永遠にかなわない
美の原点は自然にある

その場の温度や空気が体内に残り
また呼び合ってくれる

自然があり、神も仏も
人間がそこで宗教を育んだ訳だが

とどのつまり
宗教がなくても自然があれば
自ずと正しい心が育ちます

たくさんの
様々な時間
多様な自然の織りなす時間に
心を寄せること

波はそれを還す

海へ

朝、山を抜け海へいくも
遥の水平線も霧

せっかく来たが
明日の朝も雲で撮れないかな?
龍宮神社をお掃除し

出直します

往復7時間はフィジーに行ける

オーダー

お客様のオーダー
銀座のラボで確認

斬新!だな〜80代のお客様
これでいい!

細く飾りたいとトリミング

日本の神社の海
色いじりなし

織部の斬新な生き様

京の冬の旅
JR そうだ京都行こう
JR 会員誌ジパング
など様々な場で興聖寺と織部さんと青波の襖
をご紹介していただき

ありがとうございます。
コロナの中ですが人数制限をしながら
予約制で多くの方々が拝観していただいています

1つ

今日の冬の旅の本 でも
海中写真と紹介されてますが題名が一人歩きし 笑
6mとなっていましたが実際は14mあります
ブログなどであおい海の絵だと書いている方もいますが写真です

海へ独り
無酸素(酸素ボンベは使わず)
足ひれ2枚
片手に防水カメラ
片手で300m位沖の波へ泳ぎ(たまに小舟)
波の中を1時間から2時間位(長いときは5時間)
立ち泳ぎしながら、潜って写しています

ファインダーは見ません
撮れたてをお見せするため
色も青を乗せたりしていません

祝詞を読み
忍者の呪文を唱え
数年前から般若心経や修験者のから教わったくじ切りなど

怖さと自分を海に即しながら
写しています

両目では見てますが
ファインダーは見てないので
いや写ってしまった
と言ったほうが正しいです

少し先に押している感じです
感覚の全てを波へ向け感じた瞬間迷わず押す!

そんなわけで
伊勢神宮にもご奉納させていただいた
写真集Blue Forest (12000円)を作っていただいた
京都サンエムからーさんの技術とご縁で
今回の青波の襖ができました

また京都の芸術家で掛け軸の修復などを手掛ける
人見祥永先生のお力がなければ
今回完成しなかったでしょう

望月住職はじめ
へうげもの 織部さんの美意識と潔さ
斬新な時間を、407年後に再び

江戸時代の画家曽我蕭白さんも眠る
人にこびない
己の美意識と生き様を模倣した芸術家の安寧の地

この場をかり
サンエムカラー松井会長はじめ
来訪者の皆様とも
御礼申し上げます

神域

事代主、武神 若宮の命のすまう海
ご来光の波の裏

陸地にも神域
があるが
地続きで繋がる
水があるだけの
海にも神域がある

神とは固有の個性ある人間の姿に似たお姿であると
教えられてきたが

それはイメージである

神は海の中、揺らめく炎
雨に揺れる木々や葉っぱ
海岸で音を放ちながら転がっては戻る玉石
など

万物に溶け合っている

舞う

ファインダー見ないで
片手にカメラ握り締め、片手で水を掻いて
水中で方向づけをして
動くのは古武道と同じ体幹と感覚

小さなころ
アミを両手に水中の石からい石へ
動き回った実習が
生きた?

遊泳禁止
ライフガードなし
浮き輪なし
ボードなし

自由と勇気とやる気で
バンバン!と波を潜り抜ける

浮き世の小さなことなど
どうでもいい世界

頭は捨てて胸でいく

天道にもとづいたことを
すれば何もない
いいとか悪いとかではなく
自然に正しいことになる

すんだことは言わない
その時の自分の判断とありのままの自分

次に修正すればいい

独りでとにかく実践と体験を
つみ重ね、胸や体に気づかせる
そうすると、どこかの誰かが書いた教科書ではなく
生涯忘れない感覚となり次へ次へ

波の流水の如く
 
なんでも受けて立とうじゃないか

どんとこい!

意識を集中

神仏は尊ぶが
あんまり頼らない

全て自分の行いが
自分をすくう

1歩1歩
ひとかき ひとかき
ゆっくり自由に後ろでも横でもいい
舞うように

美意識とは

広島の額やさんに
作っていただいた

写真を印画紙で焼き
白い余白を作り
2mmの固い板にはりました
表面のアクリルから40mm
下げてあります

奥行きがあります
額そのものも分厚い木を
半光沢の白で塗装しました

裏打ちして写真を
貼らないと湿気でそり波打ちます

美意識とは
写真でありながら
その治る背景の間や奥行き

眺めている時間が
海を思い出させたり

空間をガラッと変えます

青は奥行きを
わからなくして広く見せる効果があり
清廉なイメージだから航空会社は青を制服に使うとも

ジェームスタレルが
砂漠に作った青い部屋は若い時に見て胸が驚いた

2次元の空間をどう広げ
青い世界へ誘えるか
空の写真でも海の一瞬でもある

ま〜独りよがり
しなと
いい作品はできません!

古田織部さんが約420年前に
人をもてなす茶道や庭を創造し
それまでのワビサビの固めの茶道を飛び越え
自由に猿や魚を器に描いたように

美意識とは
究極
宇宙と自然界のもの
からいただく感情

斬新かどうかは見る人たちの判断でいい訳です

勇気の時間

伊賀

霧が立ち込めた伊賀は赤目瀧

いくつもの瀧が山の隙間を縫うように
点在する秘境

最後までいき
戻ると2時間半くらいか

役の行者が作ったという庵
が始まり

赤い目の牛にお不動様が乗って現れた以来

延寿院の御本尊は赤目不動様

初めておとづれたのは
雨の2013年6/11
御堂は閉まっていたが
住職がたまたま現れ

樹齢数百年の桜と
津島神社と小さな御堂のある山間の山寺

自然に御堂をお掃除させて
いただく流れになり

小さな御堂の御位牌を手に持ち
どなたか存じ上げませんが
お掃除します

呟くと
住職
藤堂高虎さんですわ


高虎さんは
徳川の御伽衆(相談役、城造りや、造園の名人)で
天海とも繋がり
上野に琵琶湖をもして結界を張る為
不忍池と寛永寺を延暦寺と同じいちに
作り日光東照宮も

しかし位牌は
徳川に背を向け配置

江戸では今も残る、駒込の南谷寺に
別荘があり

半分お坊さんで
神仏を尊ぶ津藩の侍でしたが
ある日から、目の病気になり
困っていると

夢にお不動様が現れ
あの悪を斬るり剣で
体を突き刺したという

その刀が朝枕元にあり
家来に探させると
ここの赤目不動の剣だった

そして
高虎さんは
このお寺を菩提寺とし手厚く
護られたそうです

体には100箇所以上の傷がある武人でした

信長にこの寺も含め
伊賀忍や地侍が攻められ焼かれたので
燈篭だけが当時を見ています

その後高虎さんが
元々は平家系の大伽藍であった
僧兵もいた平楽寺が
信長に破壊され焼かれ
700人近くの伊賀の民が
殺された後に伊賀上野城を作り
城主として

生き残った地侍や忍と折り合いをつけ
仲を深めたのでしょう

井伊直弼にうちの忍び40人を返せと
書状があり

信長のジェノサイドの後
政治的も含め伊賀民と
それなりに関係を築いたようです

松島の名月が見たくなって
道祖神の招きが
と言いながら
松島には行かずに全国を俳諧した
あの怪しい松尾芭蕉のお父さんも
無足人(地侍)らしいです
おじいさんは信長側と戦い討死

今京都の古田織部さんの
菩提寺、臨済宗興聖寺が
40年ぶりの一般公開を
今日の冬の旅
JR そうだ京都行こう

3/18まで開催

織部さんは4人の息子たちと共に
家康にうとまれ、嫌疑の末
切腹させられました

言い訳一つ言わず
長男と差し違えたとか

次男、三男は江戸で

四男はお兄さんたちを想い墓前で切腹
それはおそらく大徳寺の真珠庵墓地?

織部さんは大徳寺で得度され
奥様の仙さんが真珠庵の和尚さんに
亡骸はどこへ?と問うと
ここで得度されてますから
こちらでお預かりするのがよろしいのかと
言われ

明智光秀の隣にと伝わっていますと

昨年真珠庵の和尚さんにお聞きしました

五男は大阪城の戦いで討死
ノボリを背負い
お父さんや兄さんの名前を書いて
共に戦ったそうです

そんな彼の
織部焼のお墓は
江戸時代の奇才な画家 曽我蕭白さんの横に

織部亡き後弟子の高虎さんは
屋敷や遺品、茶道具の整理
そして興聖寺のオオダンナとして
織部を弔い、お寺を護ったそうです

当時織部の屋敷は、師匠利久聚楽代と、奥さんの兄弟、茶道のきっかけをくれた薮内さんの近く
今の堀川高校にあったようで

建て替えの際様々な器や遺構が出ましたが
開発でまた破壊して埋めてしまった。
なんとかならなかったものかな〜

伊賀に初めて行き
高虎さんの御位牌をお掃除して話かけ
その後伊賀忍者の亡くなった山城の供養へ
それが2013 年6/11

1615年6/11が織部さんの御命日

398年後に
高虎さんのご縁やら
高虎さんに仕組まれたやら

よくわかりませんが

華厳経にも出てくる
南の海のし修行僧 海雲比丘の
物語りが静かに呼吸する京都に

斬新な青い波の14mの襖が現れました

目にも、数字にもできない
不思議なことに包まれ生きることが
この宇宙と日々の暮らしが、幸せに豊に
なることの証明です

大自然に身を寄せ
心を寄せる時間を
現代人はもう一度
深呼吸

興聖寺では座禅も
望月ご住職が体験させてくれます

旅を続けることが仏道で神道
の悟りの様々な道

神仏は自然界と寄り添い
私たちをレントゲンのように見ています
自然界が神仏を受け入れていて
先にあったの自然と呼ぶ前の国土

海が流れ日月が循環する
地球という宇宙の海に漂う島を人間は星とか
買って命名

ホピ族のいう
コヌングヤプトー完全なる調和の世界

は禅に通じる世界なのでしょう

禅が一番とは言えません
日蓮宗でもなんでも
手段と方法の違いだけです

願うのは国の安泰
宇宙の安泰
人々の幸せ
家族や仲間

伊賀の民が強い力や朝廷や東大寺の圧力
大名の脅しや年貢や武力にも負けず
長いものには巻かれず

日本が六十六の国に勝手に分断され
ながらもどこの大名にも属さず

最後まで勇気と正心で唯一戦った
尊い最後のもののふの国です

日本人に今は消えかかる勇気

そんな太古から変わらぬ
霧の立ち込める忍者の山の1枚
です

長くてすみません。

海伏

日本の波の裏
水は常に変化し生きている

雲、雨、海、川、波、霧、氷
普遍的に止まることのない
電池もなくても動く謎

水に生かされ
楽しませてもらう我々

色即是空

目に見える物は
実態を持たず、刻々と変化し

実体は存在しないから存在できる

この世の全ての物や現象は実体がない

水と波
そこにいる人間という個性が
波動と共振し合う行為がこの波

難しい話は別として

個展期間以外は写真が購入できないのか?

お問い合わせが以前よりありましたので
新しいサイトを作っていただいきました
できたばかりで、少しづつ作品はのせていきます

写真の
サイズはw1200×h600
印画紙プリント、アクリルとアルミ板のマウント

下記がそんなアートレンタル、販売などの窓口である
マネジメントオフィスのサイトです
よろしくお願いいたします。

www.umi-bushi.com/

同一な時を観る

雪も海の水
海も雪

海の中にも山がある

この山も昔は海の山

美は過去も未来もなく

現在あるがゆえに
いつも生きているのだ

鈴木大拙

葉山のルール無視するBeach

葉山大浜公園
海の学生の頃の授業の場で
地元漁師の
後輩たちがまもるうみ

みなお金を払い
置きっぱなしにはしない
ルールをまもる

嵐や夕方、暗く見えなくなり
朝まで置く程度なら
暗黙のこと

だが
御用邸の前には
置きっぱなし

置き場もないのに
買ったり、持ち運びが面倒だから
置いたまま

海を体験させる
ビジネスで後から来たbeachや
アウトリガーカヌーのデューク金子など

横須賀市が何度も
ふだをはり勧告するも無視

同じ海の仲間として
恥ずかしいな

さて
動かないとだめかな

Bay Fm 放送日変更!すみません。

1/23(日)20:00
Bay Fm 出演が変更に!

放送予定は
また決まり次第ご報告いたします

遠方の方、聞き逃した方もラジコでも視聴できます。

「ザ・フリントストーン」  
モンベル協賛

www.bayfm.co.jp/program/flint/

ナビゲーター小尾渚沙さん
www.sankeipro.co.jp/talent/profile/obi-nagisa/

遠藤さん、栗原さん、甲賀さんありがとうございます。

興聖寺 京の冬の旅

臨済宗興聖寺

京の冬の旅が始まり
すでに数千人の方がご来訪下さりましたこと
御礼申し上げます

週末は300~400人
平日で100人ほどのみなさまが

芸術という言葉の前からの美意識を貫いた
古田織部さん、曾我蕭白さんの斬新な世界観を
波音と再現できたら幸いです

都合に合わせて作り替える人間

朝起きてしばらくすると
首の上に
神棚の上に貼った雲という紙が
くっついていた

この一年、田舎の下関ので子供の頃拝んでいた
耳なし芳一と平家を弔う赤間神宮
その壇之浦で亡くなった
伊賀忍と平家一門を祈り、ご飯を捧げていたら
数日前、飾ってあった、白黒の壇ノ浦の写真に妙な染みが現れた

数日前しまってあった
伊賀忍の瀧寺から頂いた
江戸時代の版木で刷られた
伊州赤目不動様を飾ると

その寺の住職から
一年ぶりに電話があり
お不動様の前に写真集おいて拝んでますわ〜

初めてきた時に藤堂さんの位牌や仏壇を
掃除してくれたように、あれから掃除もしてますよ〜
から一年分を話して
また顔見せてね

海は生きている

天候に左右上下
というよりも人は
この宇宙の法則と風に即していくしかない

ハイブリットカーにしたら
温暖化が今まで既に作った車よりは
進まないらしい 
と嘯く
ずっと持つ電池や
長く乗ろうとしても
直す部品もなくなり壊れない車は
作れないらしい

地球にあるもう1つの宇宙が海の中

海はこの陸と同じ素材ででき絶妙に
相互関係?を回転させ生まれて消滅し
自然分解しあい

自然分解されまた生まれていく

プラスチックや放射能物質など
地球に還れない人間が化学や科学を使い
余計なことをしてしまった以上
なくすことは不可能だ

そこで問題

どうすればいいのやら?

狭いガラスのケースの砂時計の砂のような例えも
今の地球人が行っている事なのやら

美しく厳しい宇宙の流れに身を委ね
胸でその極限の破壊美を
感じることが手っ取り早い

神社の神様に頭を下げ
いろいろお願いするが

本当はその前に
海や山にも頭を下げてもいいんじゃないか?

実に神様も海や山があって生まれた訳で
誰かが書いた空想の姿とも
実在しのかはさておき

聖徳太子や比叡山大学で勉強した
宗教学者や中国のお坊さんに
仏さんは船できた
輸入され蘇我と物部の戦い

最近では戦いはなかったとか、あったとか?

いつもまに
made in japan 風に落ち着いた

不自然が自然に
しかし天然風は拭えない

芥川龍之介が
神々の微笑で書いたように

日本の力は造り変える力である

誰だお前は?
日本の霊として現れた老人(神様)が
神父オゥガンディノに

「まあ 一緒に歩きましょう」

戦国時代に日本で布教しているキリスト神父にこう言った

お爺
「あなたはキリストを広めにきてますね
それも悪いことではではないかもしれません
しかしデウスもこの国へ来ては
きっと最後は負けてしまいますよ」

神父
「デウスに勝つものはありません」

お爺
ところが実際にあるのです。まあお聞きなさい」

そう言って老人は
「中国の礼子や孟子の教え、インドの釈迦の教えも結局は
この国の中では変わってしまった」
デウスのようにこの国に来ても、勝つもはないと断言する

神父
今日も侍が2、3人キリスト教に入信したと反発する

老人は穏やかにいう

それは何人でもキリストに帰依するでしょう

ただ帰依したと云う事ならば
この国の土人(日本人)は大部分がシッタルダー(釈迦)の教えに帰依しています

しかし我々の力というのは、破壊する力ではありません
造り変える力なのです

造り変える力、それこそが日本人の心の奥底に今も生きている宗教感情である

事によるとデウス自身も、この国の土人に変わるでしょう
支那や印度も変わったのです

西洋も変わらなければなりません
我々は木々の中にいます
浅い水の流れにもいます

中略
どこにでも、また何時もいます
お気をつけなさい
お気をつけなさい…..

この造り変える力が日本の霊等の持つ力なら
その力によって守られるべき日本の宗教上の永遠のテーマとは何か?

これこそが怨霊信仰である

そして
怨霊をなだめ鎮めること

釈迦は怨霊も霊もいないと最初は言っていたそうだが
その前提として怨霊が実在し
この世の不幸の全ての原因であること

これが日本の宗教の根本原理であり

儒教、仏教、キリストもこの根本原理の守護神に
造り変えられてしまうのだ

海も自然も人間の都合で
破壊の上便利な今がある
が便利とは何か?

不便だから
時間がかかるから
いいものの方が多い

ま〜ぐちゃぐちゃ言わず
自然界と海に行き

それぞれの宇宙感覚を調律し
響き合わせる

そんなことです

不問理

宇宙と自然界は全て円

波の中もトーラスしながら円運動し
その崩れた波のスピードや形はきっと
1対1.618じゃないか?

ひまわりの種の配列はある一定の法則フィボナッチ
サザエやあわび
宇宙から見た台風や大気
排水溝へ流れる水
人間のDNAも螺旋

黄金律1対1.618
鷹が獲物を獲る動き
オウムガイの貝殻

古武術
水泳の手の動き
指先から腕の使い方

謎がある

北斎の絵は意図的に
ある比率で描かれたそうだが

波は自然でいじれない
波は1つの球体でその中に様々な角度で
この貝殻構造の円運動が四方八方に広がる

だけど波にはあるエナジーの方向がある
そこをずらして逃げる
その波の崩れるいちを少し先に感じ取り
動いて押す

これは最近気づいたが
一般の人を写すときに、気配を消して
先を予測し動きながらその人の一番いい表情や内面が
出た瞬間を押す

のと同じことだと気づいた

だから人の裏とと波の裏を撮る

ここにも何か不問理の答えがある

雪を見ながら
あれやこれや

遠 近

遠くにあるものが来る

何もなかった場所に突如現れる

空気中ではゆっくり見えるが
水中はその数十倍の速さ

芯がある

横軸の竜巻は

水の中で音を連れてくる

波は
自由自在

浄と禊ぎ

宇宙の本質と根源を知る
とっても近道な1つの手段

危険が伴うから

執着を捨てさせ

決めつけた頭で考え出した
間違った事物を一掃

笑顔で豊かになる

豊潤な波

ないものを看る

笑わないとな


子供の頃
山口の田舎や真鶴の澄んだ海が好きだった

魚が生まれた場所にたくさんいた
水槽と呼ぶ海や川とは閉ざされた
狭い箱で一生を終える
一生と言っても、モータやヒーターの故障
買う側の未熟な水槽環境や掃除

そもそも海で薬をまかれ
狭い袋で送られ、急に食べ物もかわる環境の
ストレスで死んだり、殺したり

でも子供の頃は
そんな命のことは考えず
ひたすら本で勉強し、熱帯魚屋の店主に騙され
水槽に好みの魚を集めることだけ考えていた
愚か者

魚がいなかったら
海に行っていたのだろうか?

網と水中眼メガネで水中の岩から岩へ移動し
やがて網は2つないと捕まえられず
1つは茶色1つは透明で池袋の山本観賞魚さんで買った

たまに磯には貝を取る
鉄のはがしが落ちていて
やった!と
紺色の海水パンツの腰に突っ込んだ

海に始まりは皆さんそれぞれにあるでしょう

おじいさんや両親につれていってもらったことでしょう

子供が海に行くには最初はガイドがいる

そのガイドはどの位海や魚を知っていて
山や雪のこと
道具のことを知っているか

で命に関わる

シュノーケルは今も使わない
波の中では波が常にかぶるから
水が残り事故になりやすい

あとマスピースで歯を痛める

だから先祖帰りで
今も水中眼鏡だけで泳ぐ

もっと真面目に閉塞潜水の訓練を
すればいいのでしょうが

波は一瞬
巻かれたらそりゃきつい
海外の波はそれはそれは、圧倒的な水の量だ
とはいえタヒチのチョーポーという場やパイプラインにはもういきません

泳力の限界を遥かに超えた場は
事故になる

死ぬのは構わないが
準備や選択ミスで三途の川を泳ぐのは
腑に落ちない

いきなりハワイで溺れたのもよかった

あれ以上見事な溺れっぷりはない。
かつてない経験で後にも先にも
ナンバー1の溺れ方

あれで人間の溺死するメカニズムが
よくわかった

とどのつまり
溺れさせるきっかけは、大波だが
原因は自分にある

心の動揺と冷静さを失う
肉体的は筋力の弱さと、首や指先の使いかた
関節?流れです

死にそうだった
もうどん詰まりの箱に閉じ込められ

泳げず、息も吸えず、胸がゾワザワ恐怖で溢れる
その止め方がわからなかった

時間がかかるほど
最悪なシナリオへ行った

準備を怠らない
覚悟を決める
おれない心を押すのは自分
中途半端な蹴りはしない

思い切りやらないと
体がついてこないと知る

数十秒後には水中で巻かれながら
口を押さえ、片手にはカメラ
なんていい経験してるんだ俺
最高だ!

溺れたくても
わざとやっても木樋が閉まるほど
溺れられないな〜

いい経験だ〜

水中で笑った

養殖されない古き良き空気

天然の魚を捕るのは大変ですが
養殖の魚になれば日本の文化は死にます

資源を守るを嘘のうたい文句に
安く早くの魚は間違えです

漁師さんの伝統的な感覚と
お父さんおじいさんから代々受け継いだ思いや
海や命への覚悟

猫の餌のようなペレットや抗生物質で
網ですくわれたヒレの変形した、鮭弁当に使われる
虹鱒や鯛や銀鮭は

生まれてから死ぬまで計算され
狭い箱で動けないままの鶏と同じく
魚の形をした人工物で
別物

生きているが
生きてない

手捻りの器のように人の手を通る全ては
時間がかかる過程でいろいろな
変化や意味や奥行きが生まれます

写真もデジタル化し安易に早く仕上がります
インクジェット塗装でカチカチに色をあげた写真に捏造仕上げ

色をわからない写真家やプリント屋が増えたと感じます

どの世界も同じですね。

こうした細やかなことを
おざなりにすると
日本の芸術や食やその背後に溶け合い生きる
茶道や花道までも衰退します

現に明治政府の神仏分離、廃仏毀釈、廃刀令、骨つぎ、呪術禁止、修験道禁止
アマノミナカヌシ を隠し
人間の都合で勝手に1番の神とし天皇を天照の子孫した結果が今です

自然と呼ぶ前の国土と自然霊に対しても
オカルト的な偏見を植え付けてきました

天道にもとずいた生き方を
大切にしてきたアイヌやイヌイットやアボリジニ、ネイティブアメリカンを
力で抑圧し、祈りを封じ込めた松前藩やイギリス政府、アメリカの愚行が今の地球です

もはや地球のシロアリは人間です

空海も蓮如も道元さんも、自然豊かな古来の地球のままの静かな
比叡山や高野山や福井の山で
己の道をゆっくりと探し
悟りの境地を行き来したのでしょう

道元さんの厳しい坐禅と瞑想と日々の生き方で
ある日思いついたであろう

「心身脱落」

すごい言葉です

掃除も坐禅も食事も花をいけるのも

全てを捨てて命がけでやる

確かに・・・・

ネットもテレビも、いらない情報も殺虫剤も、風呂用洗剤もない

自然は破壊され
年々消えていく今

この地球に漂う空気や波の波動は
その当時の生の思いやこえを見聞きした
証人である

風を詠み
波音を聞き
波を詠む

自己の忘れかけた
寝ぼけた力や自由な意識や胸を
震わせる

未来ではなく
過去をしっかり見て生きる

実は過去とは今です
 
そんな今もすでに過去

毛皮なし


寒波渡来
海は透明度を増しながら
雪山のウサギのような
魚は毛皮もないのに元気に泳いでいる

数万匹の小魚の群れが
光で輝いていた

怖さを研究

怖さを幾つも体験すると
怖さが和らぐはずが
怖さの体験が輪廻してくる

今も怖さが
どこかに記録されている
記録されているからと言って
眠れないとか、精神的にどうとか
ベトナム戦場の帰還兵のようなPTSDはないが

起動が閉まるほど溺れた時は
心が詰まった。
自信喪失

へこんだ心を治すには
もう一度今日、溺れた同じ場所へ
行かねば先はないと感じた

所詮泳げないのだが
意を決して行くと、雨もは嵐で誰もいなかった

海が守ってくれ
我が身の丈を知った

この時は意識が遠のくほど溺れた怖さよりも
逃げる自分と、このまま泳がない自分が怖かったから怖さの種類は前者と違う

怖さが身を守っていく

身の丈を知り、抗えない自然に
挑戦はするが挑まない

ある線で止めること
止めるのも勇気

表裏一体の不思議
そこには一個人の人間が存在する
からその人間の心、体の状態と余計な性格
や幼い頃の自然体験が作用する

間違いなく
小さなこと気にせず
人間界では協調性は無く
自然界に協調性を持ちたい!と言う人が海や自然を大事にします
昔の人々はごく自然に湧き上がるような感動と、感謝で
自然に祈ったのでしょう

自然は無限です

観察して決めたら
つべこべ言わず、考えず
行くのみ

準備体操し、カメラセットし
祝詞や般若心経や忍者の呪文を唱え
海を浄め祓い
自分におまじないをする

よし!と掛け声して

足ひれをはいて
今流行のマイクロプラスチックを口に含み飲む

ウニやオコゼ踏まないよう珊瑚を壊さないように
足をつくと危ないから
水中で岩上を飛ぶように移動し泳いでしまう

顔や指先で水の動きや
自分の水温をセンサーで感じる

波のポイントまで泳ぐのがまた怖い
強そうなサメいないかな?
水は透明かな?
流れはどっちかな?
波はどこで崩れ
水深があり逃げれるのかな

いる場所が決まったら
ひたすら浮いてい水面、水中を観察

やがて水面で迫る大波を見つけ
全てを飲み込む場に泳いでいる自分の
どうしようもない怖さの笑い

野生に生きた心地を取り戻す

水面から見上げ、空が消えるほどの波が迫ると
逃げれないんじゃないか?という余計な妄想

巻かれてしまう怖さの体験と妄想
巻かれ中の怖さ 妄想なし

波を潜ってかわし
水面へせっかく出たのに
頭からまた波が降ってきた怖さ

かえって経験が意地悪する

前にもこの感じの波が
迫るとやられたからなとか

同じ事象に常に裏表が存在する
アジアのタオであり
般若心経の世界観だと感じます

あるからない
ないからある

存在しないからこそ
存在できる

この読解不明な世界は
やはり体験と言葉はいらない、現実経験
しか知り得ませんが

波の中は
どうもそれに近いです

波は透明
波はない
あるの事象は風やうねりに、海水が反応した
ドミノ崩しのような水素結合と離反

高速に迫る波という固有の物だと
決め込んだ人間

実は波なんて物はなく
連続しては戻るエナジーの回転

風、波動
我々の目が高速カメラであれば

沖の水は1滴も海岸にはきていなくて
1つの波という物も存在していないと知る

手で空間をお仰ぐと
風がきます
これは空中の波

水中も同じく水に動きがきます

同じ分子構造でありながら
存在する形が違うだけ

空の雨雲は水
水中の雲は空気

所詮はH2o

同時に存在し
変化しながら
意味合いや物語り
そこにいる人間の知性や感覚まで
無限に旅をさせる波=水はすごい

もっと大事にしなさい海を

腑に落ちます

海は生きています
波という水の水素も生きているというか
記憶でき、感情を理解する生き物だと
思います

そう
怖さとは何か
消して消えない自分自身の
鏡です

海はあるがまま
別に怖くさせるとか
一切ない純粋な姿

もし海が怖かったら
魚たちはストレスで眠れません

嫌々泳いでいる
魚を見たことがなく

みんな楽しそうです
縄張りや食われないかな?とか
警戒しあってますが

魚の心理を理解し
波を泳ぐ

そりゃそうだ
泳ぎの先生に習うのがいい

水泳の本は明日捨ててください

鏡に写るのは自分じゃないです

謹賀新年

昨年もありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

新しいwebサイトも作っていただきました。
www.umiーbushi .com

海の写真が丘に上がり
新たな海と陸地を繋ぐ展開へ

防寒ウェアや冬のウェットスーツがなければ
数分で死にます

宇宙なんか全く興味ありません。

今更わかること
も多々あります

わからないことが
あるからよくて

古武道も海も生涯
訓練と体験が教えてくれる叡智がある

動きの読めない波を
かわしつつ

写真は
どこにいるか(位置)で
写真は決まります

ただ
あまり長居はしないこと
同じ位置に長くいると
いい絵を作ろうとします

波の裏は
どうとろうとか
どう構図に入れようなど
考える必要も無く

人間の気配を消して
押す!

写真を撮るたびに
気配と自分を捨てます
捨てようとも意識しないこと

夢中の中
1つ1つ、胸をかっぽじいて
馬耳東風の孤高の時間に
あるがまま動き、笑うのみ

駄洒落じゃ無く
霧中でいいんです
とにかく決めつけないで
霧の中を進む
霧の中に本物がある

切り替え切り替え
自由に思いのまま
融通無碍

海はそこにあるだけ
意味をつけるのは人間様

自分が意味がある生き方
でいいと思います

生きがいは死にがいです

僕は波の中に
蒼光を観ました

正月早々
何を呟いているのでしょうか?

独り言を水中でぜひ
自然に笑います
なんでしょう

海の洗濯力でしょうか?

N

忍の3病といい彼らが常に心の深く折りたたんでいた

心配
考えすぎ
悔いり

今のテレビ社会、電源依存
情報過剰社会こそ人間をダメにするものはない

テレビ捨てて
自然界へ行く

人間界と自然界の線ができて
溝までできた昨今

宇宙の根源
道義と道理の自然秩序
に善も悪もない

普通のことし、話せばいい

そうした世界観、生命観を書き残した
今泉定助さん

神道の習俗化や
軍人総督による武断的な朝鮮統治や神社礼拝の押し付け

又国体とは天皇に主権がある国体ではなく

存在しうる全ては顕幽両界を通じ共鳴しあい
一体であることを感得する日本国有の国柄を表していた

祖霊や自然、万物が繋がり生成発展している体験すること

東條英機などがすり替えた
天照大神が最高神であり
天皇はその子孫であると作り替えた明治の国家神道の矛盾

古事記には原初の宇宙の大神は三神

アマノミナカヌシ 天御中主神
タカミムスヒ 高御産巣日神
カムミムスヒ   神御産巣神
 
仏教も神道を人間様のご都合で
表面的に利用され、表面的にメッキされリフォームされてきた

霊界、現世の全ては
日々の宇宙と地球の風にある

考えることは悪くないが
あまり長く、深く、しつこく考えない

波の中でも古武術も
考える間がない

体が一体となり動いていて
初めて写るように

見えないものを感じ取れる感覚が
薄れた現代に、見えない時間をつなげる手段の1つにすぎないが

1枚の写真が人間の命より長く残る
遺影とは亡くなった人の生き様をそこで
生かし続ける1枚の通信手段であると思う

影を人はどれだけ見れるのか
光にも影がある
まさに波のなかはすべての叡智と、自然霊の世界に(スピリットや精霊)
体を踏み入れ、ことわけをし
自らをつなげる行為であろう

現代人が生きてないと思い込んでいる
全ては実はちゃんと見て聞いている

日本でも祝詞
ハワイではチャント(自然や神の叡智を授けてくださいという エホマイ)

みな実は共通した胸のうちと、地球上の人が感じた
あり同じことを、嬉しく思い、又慈しみ、大きな力にこうべを垂れ
胸を捧げる

人間だけが今
宇宙の神羅万象から外れた厄介者に
なろうとしている事実

海岸を裸足であるき
この身を海に溶け合わせ

少し謙虚にその感じたことに感謝するだけ

普通のことを忘れがちです
ニュートラル


静かな海
でも海は雨のように
体にあたるというか
風圧のように感じる

自由は無意識に

撮れたのではない

俺は写真家ではない

そうそう

己に腑に落ちることが大事

1つのことを動く

考えてはいけない

勢いよくやるだけ

映像はシナリオ

習っている古武術に
まろばし(転)の術がある

昔、習った?僕だけ
お前は俺のいう通り一年歩いてこいと言われた謎の
古武術も円運動だった
秘伝の生みの親

あの時教わったのは技ではなく
体が忘れない、体の一早い動かし方
力の抜き方だったと最近わかった

この世も
時間も動きも波も円運動
メロンも柿も中心に向かい回転し実になる

カニも円運動

次の動きを
無駄なく連動するのは
ゴルフも、武術もバスケットも一緒

無意識に
水の抵抗や流れを
ゆっくり感じながら泳いだ19歳の2ヶ月
まさかあの時間が命を掬い(自分で救うから掬う)
写真を切り取るとは夢想

夢を食うバクの話は子供の頃
怖いような、不思議なロマンがあった

鼻の長い黒いバクが
あの世の番人のように
警戒心なく首を垂れてもぐもぐ夢を食べている

綺麗事抜いて
実行するだけのバク

黙々と黙って
独りで味わう

プールも独り
海も独り
旅も独り

一人旅で覚えた体験は素早く
そして深く何処かに記録される

同じことをやると
気づくと上手になっていく

所詮儚い人生
夢があるなら
希望に変えて
希望にできたら
実行していく

続けていくと
必ず未来で良い時間が

予想以上のワクワクする喜びが
目の前に転がり込む

写真はその人を写す鏡かもしれない

写真は嘘をつけないから

シナリオでダラダラ作られた映像ではなく
1枚の心に切り込むような
写真で生きる

いつかわかる日が来る

ネット社会のばかげた
数字や結果などゴミ箱へ投げろ

昔は青く光る大きな波を
撮るんだと

命をかえりみず
独りで波の中へ向かった

戻りたいが
戻れないこともあるという
自分の本音に夢中にかける

余計なことを考えると
動きや、精神的にぶれてしまう


だったかどうか

禅の若いお坊さん(雲水)も
そこを見つけている旅の途上
なのかもしれませんが

無とは
生死を考える暇もないほど
1秒を生きる

1秒をいきると
あとは繋がってくる

心配なく
安心感が維持され
また次の1秒へ

考えることもあるが
普段の考えるとは違い

1瞬考えるが、次には無意識に
経験と感覚と考えと同時に
体が動いている

ひらめき的泳力?

よくわかりませんが

それが海の無

影は光
光は影

何も海は変わらず
あるがまま
だが46億年で1度も同じ波はない

時間は幻

海へ黙っていく

古来の人々が祈りもうけ
自然に何か特別な時間を感じた場所に
お供えをし、勾玉や聖なるタチで祓ったりと

祝詞がどういう経緯と時間で編み出されたのか?
誰が思いつき、考えたのか?

神様の声が降りてきて書いたのか?
それとも神様が普通に隣にいて寝起きをしたのか?
海へ行ったのか?
山で共に狩りをしたのか?

不思議だ

調べると
最古のものは905年に
延喜式に書いてあるそうだが
わかっている書類としては
それより100〜200年前にできていたようだ

日本初期には720年
中臣金連さんが宣る

祝詞は宣下(せんげ)
反復するのが寿詞(よごと) 天皇の長寿、隆盛を祝福 呪言的な意味合いがある
精霊を鎮めるのが(いわいごと)

神様を祀り
感謝を伝え
目には見えないが在る
この世の次元とはずれた純粋な生命

また土地に対して
龍神様に
お稲荷さんへ
井戸に対して
六根清浄
神道大祓という持ち歩ける冊子にも

祝詞はその場、その時に溶け合う
多くのバリエーションがあります

教科書は適当なもので、その時代に検証した内容が
新事実により編纂、消去されていくのもいた仕方ない事です

祝詞の本にも般若心経(何となくオールマイティーだと感じます)も

昔の方々は今の僕たちよりも
相当サイキックで、霊力、感受性、交信能力、もすぐれ
人間界の悪や、人の悪い思念、未浄化の霊の供養
をしないと天災や災がおきるとも

地震も増え
軽石も人々の目を海に目を向けていますし

富士山は大丈夫かな?

不可視

冬の海は美しい
漆黒の闇に光の束が降り注ぐ

太陽の光は暖かみがある
それは見た目や体の表面の事だけではなく

レントゲンのように 微細で可視できない
何かで浄化というときな臭いが
調律し、本来の姿へ整えて、細胞を自然治癒してくれる気がする

可視光線の恵みを
波の裏から

1枚でいい

写真はドキュメンタリーです
1枚の写真は映像と違い語ります
映像は見飽きます
映像は映像の伝え方がありますから
比べるものでなないですが

僕は1枚にかけたので、映像は撮りません
今のビデオカメラは色を補正してしまいます

なるべく人間界の雑味を入れず
足ひれ、水中メガネ、防水カメラケースだけ

ソフトでいじり倒した写真グラフィックを写真と呼ぶな
と言いたい

ルーツは被写体に50mmレンズで近づいた
アニーパイルやキャパ一ノ瀬泰造さん
のような戦場のカメラマンですが
皆さん戦場に消え体はないですが
写真は残り人々に今も持続しながら伝えています

ユージンスミスは怪我をしながら
戻ってこれたので
師匠柏原誠がアシスタントになり
僕に受け継がれています

彼らが無意識に、計算なく

人が夢中で歩いた時間が尊いものだと
改めて感じます

師匠たちの足跡を海の中を泳いで辿ってます。

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