不思議なことに偶然いろいろな人にばったり会うので
思えば、きっと波も同じなんでしょうね
一期一会 ? もっと微細な時間軸の感じがします
周波数が違うのが海の瞬間。風邪はうつらないはずだけど
波は風ですから、水と光の影、水素の影で可視化しているのが波
水素結合力の風と波動を読む、これは人の撮影も同じ
振動しているわけですから
波の中はシャッタースピード500分の一です
これは調べたら0.02秒
目には見えない時間
目に見えないものを信じる勇気と
伊豆白浜神社の宮司さんは書いておられました
確かに、昨今可視化しないと、化学や科学で解明しようとする魂胆が
僕は嫌いです
そんなものどうでもいい
海では泳ぐか、泳がないか
大波がきて巻き込まれたりしても自力で泳ぎきるしかないんです
助けて〜という人間の力はまだまだ、力が残っています
自分に甘えて他力で救われようとする時点で海は助けてくれません
海は観ていて、なんとかしてくれます
僕も何度か肺の酸素が0になり、喉の気道が閉まり、乳酸まみれの動かない手足の
はるか沖の波の中で、3度ほどパニックになり死にかけてます。
気道が閉まったのは冬のパイプラインでの1度2001年頃です
その時思ったのは、本当は力があるのに限界を自分で浅めに設定していること
何かに頼り途中で放り出して、自力をもっと引き出さない事
人生の海での経験や困難の体験が足りず、心の深さや影がなかったわけですが
本心で生きてなかったというか
自分を知らない、自分の力を客観的に正観してない
ただやらなければわからないので、ダメでもやる気で突っ込む勇気と
引くときは引く勇気
かっこ悪いからとかは、くそです
海では死ぬだけです
海からの一言
グチャぐちゃいうなら、黙って泳げ!
どうも他力な世界が蔓延
江戸時代あたりから、一方的に都合のいい時だけ、神頼みし、仏さんに救われようとする
いわゆる浄土宗の他力本願、日蓮の南無妙法蓮華教を悪用した新興宗教が
人をかどあかしているかは見ての通り
親鸞さんは死んだら鴨川に投げてさ魚の餌にしてくれと
遺言したが、そのあとの弟子たちが勝手に教えを変えていくわけですが
これは日本仏教が本物のチベットやインドのブッダの教えとは
全くの別物という事実
裏を返せば、南無阿弥陀仏といえば自然に悪人も善人も救われる
とは、なるようにしかならない、なるようになるとも取れます
「お経はありがたいと」いわゆる良い薬が流布しすぎです
折れない心やアドレナリンは自分の何処かから出ます
他人でもお経でもありません
しかしお経に本心がのると、伝わりながら見えない世界と呼応する事実も忘れてはいけません
が使う側の精神によります
脳の医学博士、篠浦先生は薬は所詮猛毒で、人々は薬害で死んでいて
ストレスのない規律正しい暮らし、侍のような暮らしをすれば
(今日はこっち、明日はあっち、違うと思っても上の命令に魚の糞的なサラリーマン侍ではない)
脳の扁桃体が元気になり、自然治癒力が上がるとおっしゃってました。
他人に上下、左右されない。執着せず切るときは切る
斬るなら斬る大胆なメリハリ、海に入ったら危ないと感じたら戻るのも勇気。
よく様々お店でゆっくり感覚を合わせるため迷いながら選んでいると
店員がよくこれが一番人気です!といいますが。皆と同じが安心する日本人にはめられています
テレビや電子レンジは捨てる、コンビの弁当や養殖の魚は食べない
自分でピエロにならないように
影がダブってないか天気のいい日に自分をよくみる
指先から動かす、古武道にちかい体術を日々研鑽する
座禅でも歩くことでも、泳ぐことでも、滝を浴びてもシャワーでも同じです
お経や祝詞は一つの手段に過ぎません
大切なのは本心と実体験です
全てはこの宇宙と自然界にあり
教科書の机の上にはありません
ガイドは必要ですが、ある線からは自分で考え行動するだけです
大事なのは誰かの作ったルールに縛られないこと(仏教も同じです)
人生は塩素のプールの競争をしているのではなく
美しい、かけがいのない、生きた心地のする時間を、自分の海で自由に旅をすることです
よく家族が・・・とか聞きますが、言葉尻では祖先にちかい感じがします
一本の道なんかありません 沢山の無限な水面と水中。一つの道にとらわれないように
無限にある広大な海には無限な扉が待っています
宗教は日々の暮らしにある とネイティブアメリカンが言っている通りです
そろそろ20年目のファイヤーキングの展示の準備をしないと